29 : Lynn
# Lynn
夢を見た。
あたしはあの森の暖かい家の中で、ハイジと向かい合ってお茶を飲んでいた。
あたしの手の中にあるのはコロンとしたフォルムの可愛らしいマグ、ハイジは無骨で巨大ないつものマグだ。
甘苦くて芳しい香りが、温かい湯気とともに鼻孔をくすぐる。
ハイジは相変わらずそっけなく、手に持つ本の頁に目を落としている。
あたしのことなんかまるで目に入っていないかのように。
あたしも本に目を落とすが、ハイジのことが気になって、たまにちらりと顔を見たりする––––きっとハイジはあたしの視線に気づいているが、気づかないふりをしてくれている。
(あ)
こっそりと視線を上げると、ハイジと目があった。
あたしは慌てて目線をそらして、視線を落として、あたしは何も見てませんよ、とアピールする。
パチ、パチと薪が弾ける音。
外からは冬の音。
静かな静かな冬の夜。
あたしは本に目を落としたまま、ハイジのことを意識している。
なぜか視線を感じる––––目を上げたら、また目が合ってしまった。どうしよう。恥ずかしい。視線を落として、もう一度あげて見ると、やはり目が合う––––なぜだかそれは、拙いような気がした。
頑張って視線を本に固定するが、つい我慢できずにちらりとハイジを見ると、やっぱりハイジがあたしをじっと見ている。
その繰り返し。
だんだんと目が離せなくなる。
深い青色の瞳。目蓋は頬には深い傷跡。一文字に引き結んだ唇、太い首、巌のような肩、眉間に刻まれた深い皺––––。
一見恐ろしく見える相貌だけど、あたしは知っている。
この男ほど穏やかな人は居ないことを。
戦いに身を置いてはいるけれど、この世界の誰よりも優しいことを。
じっと見られているうちに、あたしの頬は赤くなってくる。
顔が熱い。
「もう、ハイジ……どうしてそんなにあたしを見てるの?」
照れくさくなってそんなことを口にした。
# Metsästäjät
(……だとよ、ハイジ)
(……いらん口を聞くな、ヘルマンニ)
四人はそれぞれ、リンの視線から外れた場所で潜伏している。
ヨーコを通して、ヘルマンニが覗いている映像を見ているが––––有り体に言えば、いたたまれなかった。
リンは穏やか寝顔で眠っている––––その顔は柔らかくほころんでいて、形の良い唇は、うっすらと微笑みの形を象っている。幸せそうに目を閉じて、なのにとめどなくポロポロと涙が流れ続けていた。
(ハイジ、何としてもリンを捕らえるよ。アンタのためじゃない。リンのために)
(ああ。わかっている)
『黒山羊』のリン。
麗しき黒髪の戦乙女。
崖の王。
その腕は、少女にして無双。
敵にとって恐怖の象徴となった『はぐれ』の少女。
魔力を無尽蔵に使えるようになった今、一度牙を向けば、国すら滅ぼしかねない危険な存在だ。追い詰めるためには、ヴォリネッリに伝説的な名を残す英雄が四人がかりでかからなければならないほど––––。
だが、四人の英雄の目に映る少女は、たった一人で寂しそうに震える小さな小さな子どもだった。
精霊の国からやってきたこの少女は、ただここにいるだけで深く深く傷ついて、夢の中で救いを求めて泣いている。
幸せな夢の中にいる少女を見て、英雄たちは認識を改める。
あそこにいるのは、自分が想像しているよりもずっと
もし、ハイジが死ぬまでのあとたった三日足らずの間に、あの少女の心を癒やすことができなければ––––
『失敗は許されん。もし説得に失敗して、その上ハイジが死んだりしてみろ。リンは
# Lynn
いつもの時間になり、パチリと目を覚ます。どんなに疲れていても、同じ時間に目が覚めるのは良いことなのか悪いことなのか。
目の前の光景に一瞬ビクッとする。
どこだここ?
(ああ、そうだった)
なんだか幸せな夢を見た気がする。
きっと、もう二度と手に入らない何かの夢––––。
(うっ……)
ぞるっ……と
(いけない、またネガティブになってる)
ゴソゴソと近くに置いておいた角砕き用の石を握り、ガチン、ガチンと角を砕いた。
(
一晩寝た間に、せっかく慣れていた痛みが復活している。
ついでに脳が揺さぶられて吐き気が来る。
(うっ……ダメだ、吐く)
「お、おえっ……」
昨日はあんなに楽しい気持ちだったのに、今日は随分と沈んだ気分になっている。
浮き沈みが大きいのはしんどい。
胃の中に何も入っていないからか、吐いても何も出なかった。
口元を拭って、もう一度うずくまる。
なんだかすぐに動く気になれなかった。
もそもそと丸まって、膝を抱えて、小さくなって震えていると、また角が伸び始める。
「……もう、やだよぅ……」
思わず泣き言が言葉となって口から飛び出した。
ひどくかすれた声だった。
(一応、まだ人語を話せるわけだ)
(話し相手もいないのに)
「ぐすっ……」
涙が出てきたので、膝に顔を埋める。
肩が震える。
「うーっ、うーっ」
勝手に嗚咽の声が漏れる。
「帰りたい……もうやだよ……」
つい、そんな言葉を漏らす。
もう帰るところなんてどこにもないのに。
その時だった。
カカカッ! と背にした木から、鋭い音が鳴り響いた。
「…………矢?」
顔のすぐ横に、矢が三本刺さっていた。
「………………矢ッ?!」
一瞬、何が起きたかわからず呆けてしまったが、それは間違いなくあたしを狙った矢だった。
即座に心の照準を戦いに合わせ、あたしは弾けるように飛び上がった。
「誰っ!?」
叫ぶも、声が森に沈んで響かない。
魔力探知を広げるが、敵意を持った存在は近くに居なかった。
(殺気がない敵だって?!)
気配が暗すぎて、魂が黒すぎて魔力探知で見ても見えづらかったノイエのことを思い出すが、これとアレではわけが違う。殺気と敵意だけは、絶対に隠すことができないはずだった。
体から漏れないようにすればある程度は隠せても、それは身体の目で見た時の話だ。魔力を通してみれば、絶対に隠せない。そのはずだ。
なのに。
(気配探知にも引っかからないなんて––––!!)
あたしは両手にナイフを持って構える。
もし次に矢が来たら、そのときこそ敵の位置を見つけてやる!
# Metsästäjät
膝を抱えて泣く少女を見ていられなくなったペトラは、声を震わせた。
(……ごめん、あたしもう見てらんないわ)
『待て、ペトラ。何をするつもりだ』
(決まってる。リンと話をして、安心させてやるんだ!)
『……お前がか?』
(……だって、あんなに泣いてるじゃないか! 傷ついてるじゃないか! 放って置けるもんか!)
『はぁ……』
ヨーコはペトラに対する嫌味のため、わざわざ能力を介してため息を送りつけた。
ペトラの苛立ちが伝わってくる。
『……同感だ』
(ヨーコ?!)
ヨーコらしくない返答に、ペトラは苛立ちを忘れて驚愕する。
どんなことがあっても感情では動かない。あらゆる感情が行動に影響しない。それが例え師・アゼムの死に関わることであっても––––。
それがヨーコという男だ。
そのヨーコが、涙を流す少女を放っておけないと言った。
(ど、どういう風の吹き回しだい?)
『……俺にだって、泣いている子供に同情する心くらいはある』
だが、ヨーコもなにも感傷
今のリンは傷つき、悲しんで、落ち込んでいる。
これがもし––––世を恨み、運命に絶望し、怒りに転じたらどうなることか––––考えるだに恐ろしい。
ならば、落ち込んで泣いている今こそ、最後のチャンスだ。逃すわけにはいかない。
ヨーコはもう一度これみよがしなため息を送りつけると、ペトラだけでなく全員に対してメッセージを送る。
『リンをこれ以上一人にするのは忍びない。少し早いが、夜明けと同時に作戦を開始しよう。リンを安心させてやろうじゃないか。だがペトラ、それはお前の役割じゃない。そうだな?』
(わかってるよ! そんなことは! でも、だってさぁ! ハイジの馬鹿はリンが何に傷ついてるかもわからないような体たらくじゃないか! リンは、あたしの娘みたいなもんなんだ! 可愛いんだよ、あの子が! だから……ッ! あたしが安心させてやるんだッ! あたしとニコがいるところに連れて帰ってやるんだ! だって––––あの子のことを一番想ってるのは、あたしなんだから!)
(いや、
だが、ペトラの叫びを否定する声が全員へと届く。
『おい……お前、何を』
(
『待て、待て待て!』
ヨーコの制止を聞かず、男の弓はゆっくりと引き絞られていく。
それを能力を通して理解したヨーコは驚愕で目を見開いた。
魔獣化したリンは、人間より夜目が利く。作戦では、もう少し明るくなってから開始する計画のはずだ。
しかし、引き絞られた弦は弾かれる。
一切の風切り音を立てずに三本の矢が放たれた。
––––もはや止めることは叶わない。
(一番想っているのは
ぐずぐずと泣く少女の頭すれすれに、三本の矢が突き立った。
(––––
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