Laakso - 8 : Perintö

 アゼムとハイジの最後の会話は、弟子たちには筒抜けだった。

 例えそれがアゼムの望みであっても、弟子たちにはアゼムが死ぬところを直視する勇気はなかった。そのはずだった。

 しかし、愛がまさった。

 たとえどんなに辛くとも、死の瞬間を見届けたい。

 一度は別れを交わしたが、やはり死の瞬間に立ち会いたかったのだ。



 ▽



 始めはヨーコだった。

 別れを交わしたものの、そこから離れ難かった。

 アゼムのために用意した離れ––––ただのテントだが、できる限り快適に過ごせるように皆で用意したものだ––––そのテントから足を踏み出したものの、どうしてもそのまま立ち去ることができなかったのだ。


 言いたいことは全部言えただろうか。

 そんなはずがなかった。

 永遠に言い尽くすことなどできるはずがない。


「……ヨーコに……」


 テントから聞こえてきた声に、ヨーコはハッとする。


「––––あいつは全ての能力を失って、もう二度と力を発揮できなくなるかも––––」

「––––お前らには悪いけどよ……俺はあいつを一番高く買ってるんだ––––」


 アゼムの言葉が聞こえてくる。

 俺の気持ちを聞いてなお、父として接しようとした愛しい人の言葉だ。


 ヨーコはその言葉を聞いて、全てが報われる気がした。

 アゼムは自分を裏切ったりしてはいなかった。俺を捨ててハイジを選んだわけではなかったのだ。

 考えてみれば当たり前のことだった。

 能力の全てをアゼムへと捧げた自分に、アゼムを殺すことなどできるはずがない。

 もし力を失ったら?

 アゼムの跡を継いで、アゼムの望みを叶えることができなくなるではないか。


 ––––笑えよ、ヨーコ。


 師匠はそう言った。

 ならば、俺は笑おう。

 彼の愛した傭兵団を、たとえ形が変わろうと、最後まで守ろう。

 

 ああ、師匠––––。

 俺が馬鹿でした。

 俺は、貴方を愛すことさえできるのなら、もう見返りだって必要ないんです。

 なのに、貴方は俺に最後の最後まで愛を注いでくれた––––。


 そしてアゼムは、最愛の人の死を目前にしながらも、心から笑った。

 星を見上げて、涙がこぼれないように笑った。


 こうして、愛されることを知らなかったアゼムは、ようやく無私の愛を手にすることができたのだ。



 ▽



 フッと煙たい香りがした。

 アゼムが足元を見ると、しゃがんで煙草を燻らせるヘルマンニが居た。

 

「……ヘルマンニ。お前、煙草なんてやってたっけ?」

「いや、初めて吸ってる」


 アゼムと違い、ヘルマンニは、もうアゼムに言いたいことを言い尽くしたつもりでいる。正確には、話したいことなどいくらでもあるが、これ以上は蛇足だろうと思っている。

 ならば何故ここにいるのかと言うと、ヘルマンニはヨーコのことが心配だったのである。

 少なからず罪悪感を覚えながら、ヘルマンニはヨーコの心を覗き込んだ。

 そして、ヨーコの心に喜びが溢れる様を見て驚いた。


(……あんなに真っ暗だった心が、カラッと晴れ渡ってやがる)


 正直、下手をすると、師が死ぬ原因となったハイジを殺しかねないとまで思っていたのだ。そのくらい、ヨーコのアゼムに対する執着は常軌を逸している。

 いや、アゼムの弟子は皆、強烈な執着心を持っている。ハイジは『はぐれ』に、ペトラはハイジに––––だがこの俺は––––?。


 だが、覗いてみれば、ヨーコの心にはアゼムに対する感謝と、アゼムと出会えたことへの歓喜で満ち満ちている。副次的になのだろうが、ハイジに対する憎しみも綺麗サッパリ無くなって、むしろ同情的ですらある。


(この数十分の間に、一体何があったんだよ……)


 まぁいい。

 ずっと憎み続けるよりは。

 

「なんで煙草なんか」

「ん、師匠が吸うなって言ってたからさ。ちょっと反抗してみようかなって」

「アホなことを……」

「嘘だよ。……っていうかさ、ペトラが手を出そうとしてるのを取り上げたんだよ」

「……あの女が?」

「よっぽど自分を罰したかったのかね」


 素直じゃないからさ、ペトラは––––と言いながらヘルマンニは煙草を地面にグリグリと押し付けた。


 考えてみれば、この傭兵団の中で、一番師匠に似ているのはヘルマンニかもしれない。いつも飄々としていて、仲間想いで、仲間同士の諍いごとが嫌いで……。師匠とは真反対の性格である自分よりも、よほど師匠に近い人間である気がする。

 そう考えると、ヨーコは少し面白くなかったが、だが自分は師匠のようになりたかったわけではないのだ。ただ、横にいて、役に立ちたかっただけだ。


 ヨーコは少し考えて、少しだけ素直になることにした。


「……ヘルマンニ、お前、ちょっとペトラを呼んできてくれないか」

「いいぜ?」


 ヘルマンニは即答した。

 実はそれなりに驚いていたのだが、顔には出さなかった。


(へぇ)

(ペトラを名前で呼ぶなんて珍しいな。いつも『あの女』呼ばわりなのに)


 ペトラのことはヘルマンニも気になっているのだ。

 というか、すぐ近くにいる。

 気配を消して、コソコソ隠れながらこちらの様子を伺っている。


(斥候を舐めんなよ)


 ぱっと振り返ると、ペトラはサッと体を隠す。


(だから、隠れられてねぇって。図体がでかいんだからよ)


「ペトラ」

「…………」

「ペトラ。いるのは解ってるんだから、出てこいって」

「……いやっ」


 この野郎、とヘルマンには思った。

 なんて可愛い女なんだ、こいつは。


「ハイジのためでもか?」

「……ハイジのため……?」


 ヘルマンニはさっさとカードを切る。ペトラの弱点はいつだってハイジだ。


「……わかった」


 ハイジの名を出すと、ペトラはおずおずと顔を出した。

 気まずげにしているが、ヘルマンニはヘラっと笑って、重い空気を吹き飛ばした。

 

「うん。おい、ヨーコ、ペトラが来たぜ」

「ああ」


 ヘルマンニの気遣いはヨーコにも伝わった。

 ここでムスッとしたままでは、師匠の相棒の名折れである。

 本当は名前を口にするのも業腹なのだが、ヨーコはできるだけ攻撃的にならないようにその名を口にした。


「……ペトラ」

「な、何?」


 普段とは違うヨーコの様子に、ペトラの腰が引けていた。

 チッ、こちらの気遣いも知らずに感情任せに行動しやがって……。

 ヨーコは苛立ちを表に出さず、彼なりに歩み寄ろうと努力する。


「先日の喧嘩だが……」

「……なによ」

「……あれが、お前の本心じゃないことくらいは、俺にだってわかる」

「!!」


 ヨーコの言葉は、ペトラにとってまさに今一番欲しい言葉だった。

 その言葉が他ならぬ天敵ヨーコの口から飛び出たことに驚きを隠せない。


「ハイジを、助けてやりたかったんだろ?」

「ど、どうして……!?」

「言っておくが、俺はお前が好きじゃない。というか、女は一人残らず嫌いだ」


 ヨーコはつい悪態を付く。

 違う、そうじゃない……素直になれないのはペトラだけではないな、とヨーコは自嘲する。


「……喧嘩売ってんの? 何がいいたいの、ヨーコ」

「聞け、ペトラ。だが俺は、女の中では、お前が一番マシだと思っている。それに、お前の努力や一途さは、その……何と言うか、立派だと思っている」

「気持ち悪っ!」

「うるさいな。黙って聞け。……それでだ。名誉挽回の機会を与えてやる」

「名誉挽回?」

「ああ。つまり……俺と、ヘルマンニとお前で……皆でハイジを助けてやらないか」

「!!」


 ペトラの顔はますます驚愕に染まった。

 しかし、だんだんその顔は赤くなっていき、力強く頷いた。


「う、うんっ、助ける。あたし、ハイジを助けたい」

「決まりだな」


 ヨーコは頷いて、ヘルマンニとヨーコに言った。


「作戦は、こうだ」



 ▽



「よし、行くぞ」


 ヨーコの仕切りで、三人は天幕へと滑り込む。

 天幕の中では、背を向けたハイジが、震えながら細剣レイピアをアゼムの胸に当てているところだった。

 だが、これでは到底殺せそうもない。

 たった一突き––––しかし、敬愛する師の命を刈り取ることができないまま、ハイジはボロボロになって泣いている。


(ははっ)


 ヨーコはそれを見て笑いそうになった。

 そうだ、一番辛いのは俺ではなかった。一番苦しんでいるのはハイジだ。そんなことは考えなくてもわかることじゃなかったか。

 ヨーコは自分自身が最も嫌悪する、無神経な人間––––彼にとっては自身の母がまさにその頂点であり、女性はその象徴である––––と同じような行動を取っていた自分を恥じた。

 それと比べて、ペトラの一途さのなんと清らかなことか。

 ––––俺が嫌悪していたのは、女ではなくて自分自身であったか。

 ヨーコは自嘲する。

 ボロボロに泣きながら、師匠の願いを叶えようとしている弟弟子ハイジが、とても眩しく思えた。

 ––––ならば俺も、可愛そうな弟弟子ハイジのために、力を貸すのもやぶさかではない––––。


 ペトラはそれを見て泣きそうになった。

 兄弟子ハイジは納得した振りなどしていたが、どう見ても嘘だった。

 明らかに壊れる寸前で、もしこのまま彼一人にアゼムを殺させてしまえば、きっと元のハイジに戻ることは永遠に無いだろう。

 ペトラには、今のハイジがとても小さく見えた。あんなに巨大で、逞しく、力強かった彼は泣きじゃくって––––まるで小さな子どものようだった。

 それでも師の願いに応えるために、ハイジは震える手で細剣レイピアを構え続けている––––その苦しみは、彼の愛そのものだ。

 だからペトラは、自分の感情のことなど忘れて、ただハイジを助けたいと思った。

 自分にはハイジに恋する資格などもうとっくに無くしてしまった。

 だから、せめてハイジの苦痛をほんの少しでも分けてもらえれば––––あたしは、それだけで十分幸せだ。


 ヘルマンニはそれを見てホッとして、そして同時に呆れてもいた。

 お前、全然覚悟なんてできてねぇじゃねぇか。

 だが、覚悟が無いままでも人間は行動はできる。納得できなくても、心を無視してすべきことができてしまうのが人間の強さであり、悲しさだ。

 ヘルマンニは、ハイジが自分の感情を無視して行動できる男であることをよく知っている。それはヘルマンニにとって、ハイジの最も尊敬できる美点であり、同時に一番心配な弱点だった。

 今度という今度は、こいつも自分の心を置き去りに行動はできなかったらしい。

 ヘルマンニは震える弟弟子ハイジを見て安堵した。

 お前、ちゃんと運命に逆らえるんじゃねぇか。

 いい傾向だ。

 ––––ならば、親友である俺たちがお前を助けるのは当然のことだよな––––。


 ハイジは三人の存在に気付いていなかった。

 いつもなら気づかないわけはない。しかし、極限状態のハイジは、他のことに気を取られる余裕など全くなかったのだ。

 だから、後ろの三人三様の気配に、全く気付いていなかった。

 馬鹿みたいに涙が溢れ続けていて、目の前が全く見えない。

 心でも泣いて泣いて、もう何も見えない。

 魔力を込めたアンジェの形見の短剣レイピアは、きっと何の抵抗もなく師の命を刈り取るに違いない。

 だが、そのたった一動作が、ハイジには重すぎて動けなかった。

 ハイジは孤独だった。

 ––––どうか、誰でもいい、自分に勇気を分けてほしい––––。


 アゼムは四人の弟子たちの顔を見て、心底幸せそうに笑った。

 彼らしい、ニヤリとした偽悪的な笑顔だ。

 なんだお前ら、結局みんなで俺を見送ってくれるのかよ。

 ありがてぇなぁ。

 弟子がこいつらで、本当に良かったなぁ。


 ––––もう、言いたいことなんてなんにもねぇや––––。


「じゃあな、みんな。ハイジ。ヘルマンニ。ペトラ。ヨーコ。……楽しかったぜ」


 その声が号令となった。

 三人の弟子たちはハイジに駆け寄って、彼の逞しい手に自分の手を添えた。

 ハイジ一人にやらせはしない。

 剣は彼一人で持てばいい。

 だが、殺すのは四人で。

 師匠への恩に報いるなら、俺たち全員で力を合わせるべきだ。


 皆は、アゼムに笑い返した。

 泣き笑いだが、それでも笑って見せた。

 仲間たちの存在に気づいたハイジは、驚きで目を丸くして––––一瞬で全てを理解し、同じように泣きながら微笑んだ。

 胸が張り裂けそうな孤独感は綺麗さっぱり消え去っていた。


 アゼムは両手を広げ、万感の想いを込めて、最後の一言を口にした。


「また会おう。––––あばよ」


 全員の力が剣に伝わる。

 すとん、と何の抵抗もなくアゼムの胸に、花の彫刻が施された細剣レイピアが吸い込まれていく。

 こふ、と一つ小さな咳をして、アゼムはこれまでに無いほど幸せそうに笑った。

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