第1章 幻のマリア観音
第1話 マリア観音と宝の地図
東京メトロ神保町駅の階段を上ると、大音量の蝉時雨が降り注ぐ。アスファルトからうねるような熱気が立ち上り、伊織はポケットからハンカチを取り出し額から流れる汗を拭う。
梅雨が明けた途端、真夏日の連続だ。ギラギラと照りつける日差しに目を細める。
すずらん通りの古書店に記事の資料を物色しにやってきた。伊織は日本と中国の文化交流雑誌を発行する小さな出版社で働いている。取材に記事作成、イベントの手伝いまで業務は多彩だが、やり甲斐のある仕事だ。
ここにはマニアックな中国書籍を扱う書店が並んでいる。ネットに無いラインナップがあり、掘り出し物も多く重宝している。
書店巡りをする前に、涼を求めて烏鵲堂カフェスペースに立ち寄る。平日の日中というのに店内はお客さんで賑わっている。
「今日も盛況だね」
伊織は黒い長袍姿で茶を運ぶ曹瑛に声をかける。ちょうど待ち客が途切れたようだが、満席のようだ。
「相席がある」
曹瑛が視線で示した窓際の席には、白いワイシャツ姿の元極道、榊英臣と、曹瑛の兄、劉玲の姿があった。
「お、伊織くんや。久しぶりやな」
劉玲は白檀の香る扇子をパタパタと仰ぎながら愛想の良い笑みを浮かべる。伊織が席につくと、曹瑛が新メニューだとアイスティーを持って来た。
ピーチフレーバーのアイス烏龍茶で、グラスには大きな丸い氷が浮かんでいる。時間が経ってもずっとキンキンに冷えたアイスティーを楽しめるという趣向だ。氷は水ではなく、烏龍茶を凍らせて作っているため、溶けても味が薄くなることはない。
「結紀のアイデアらしい」
榊も同じものを飲んでいる。ここへは外回り途中に立ち寄ったという。やっと汗が引いた、と腕まくりしたシャツの袖口のボタンを留める。
「俺も仕事で来たんやけど、案外早く片付いてな」
劉玲は上海を拠点に活動する中国マフィア、上海九龍会の幹部だ。フットワークが軽く、日本にもちょくちょくやってくる。下積み時代に神戸にいたことがあり、軽妙な関西弁が特徴だ。
「しかし、日本も暑いな」
そう言いながら飲んでいるのは、温かい鉄観音茶だ。身体を冷やすのは健康に悪い、と流れる汗を拭いている。
「せや、これ見て」
劉玲が嬉しそうに黒い革のバッグから長細い木箱を取り出した。
「美術品ですか」
劉玲は美術品の審美眼があり、来日したら神保町の古美術店を巡るのを楽しみにしている。劉玲は赤色の組紐を解き、恭しく箱の蓋を開ける。
箱の中身は緩衝材で保護された白磁の像だった。胸の前で手を合わせた柔和な笑みの観音像だ。
「これな、どえらい掘り出し物やねん」
劉玲は観音像を取り出す。やや煤けて黒ずんでおり、造形もどことなく稚拙だ。これのどこが掘り出し物なのだろう。伊織は首を傾げる。
「これは、マリア観音というやつか」
榊の言葉に劉玲は、それやと人差し指を突き出す。
「マリア観音は徳川幕府から禁教令が出されたとき、弾圧を受けた隠れキリシタンが聖母マリアに似せて作った観音菩薩だ」
「へえ、これが聖母マリアなんだ」
伊織は白磁のマリア観音を慎重に手にとる。フードを被り幼子を抱いた姿は確かに聖母マリアを彷彿とさせる。よく見ると、台座の部分に十字架が刻まれている。
「マリア観音はなかなか世に出ない貴重なものや。今日は馴染みの骨董店のショーウインドウでたまたま見かけて、ラッキーやったわ」
劉玲は店主の言い値で購入したが、良い買い物だったと満足そうだ。白磁の像自体には大した価値は無いが、歴史的な意味合いが大切なのだと榊が補足する。
「劉玲さんは目が高いですね、あっ」
伊織がマリア観音を箱に戻そうとしたとき、部品がぽろりと欠け、手の平に残っている。
「俺なんてことを、すみませんどうしよう」
伊織はひどく動揺する。劉玲が目をつけた品だ、とんでもない価値があるに違いない。しかし、劉玲は怒る様子もなく、目を見開いてマリア観音を手にする。
「伊織くん、でかしたで」
「へっ」
劉玲の意外な反応に、伊織は間抜けな声を上げる。伊織が恐る恐る手の平の欠けた部品を見ると、マリア観音の本体から外れた幼子がころんと転がった。
「もともと外れる仕掛けになっていたのか」
榊が幼子を手に取るが、割れた形跡はない。
「そのようや」
劉玲は幼子が外れて穴が空いたマリア観音を見据える。中は空洞になっているが、何か入っている。劉玲は像をくるくると回しながら観察する。
「これや」
台座に力をかけると、ポロリと外れた。中から一枚の古い羊皮紙が出てきた。茶色く変色した十センチ四方の紙切れだ。劉玲は慎重に紙切れを広げる。
「これは、宝の地図や」
劉玲の言葉に、伊織と榊は思わず顔を見合わせる。その目は子供のように光り輝いている。
「あのう、劉玲さんそんないきなり」
「いや、奴の勘は当たる。これまでも宝を発見してきただろう」
榊も興味を惹かれている。確かに、劉玲は子供の落書きのような稚拙な地図から見事宝を発見したことがある。伊織と榊は劉玲の広げた紙切れを覗き込む。そこには不格好な図形が記されていた。
「ほれ、ここ、この真ん中に印があるやろ」
劉玲が指さす部分にバツ印がある。この図形は何かの地図だろうか、しかしこれだけでは場所が分からない。
「隠れキリシタンと言えば、長崎県が有名だ」
榊はタブレットで長崎県の地図を表示してみる。
「長崎県って、こんな形じゃないよ」
伊織は紙切れの地図とタブレット画面を見比べる。
「榊はん、地図をもうちょっと広げてや」
榊が縮尺を広げると、九州地方全体が表示される。
「あ、ここ」
「せや」
伊織と劉玲は地図を同時に指さす。そこは長崎県の沖合に浮かぶ一岐島だった。紙切れの図形はやや大雑把だが、特徴的なその形は間違いない。
「この夏は宝探しか、悪くない」
榊も乗り気になっている。早速一岐島の温泉を調べ始めた。曹瑛が杏仁豆腐を持ってテーブルにやってくる。
「出発は週末か」
ちゃっかり話を聞いていたようだ。
榊のタブレットからコール音が鳴る。ライアン・ハンターと画面に表示されていた。榊はやむなくビデオチャットをオンにする。
「やあ、英臣。今年の夏のバカンスは日本で過ごそうと思っているんだよ。クルーザーを予約するんだが、英臣のスケジュールを教えてくれないか」
まだオーケーなんて一言も言っていない、榊はライアンの強引さにげんなりしている。
NYに本社を構えるコンサル会社グローバルフォース社の若きCEO、裏の顔はアメリカンマフィアの二代目であるライアンはゲイを公言しており、榊のストイックな人柄に心底惚れ込んでおり、ライフパートーナーにと猛烈なアプローチをかけている。
「お、ライアン、久しぶりやな」
劉玲がチャットに割って入る。
「劉玲、君も日本か」
「ライアンも一緒に行かへんか、離島でバカンスや」
「おい、ちょっ」
榊が慌てて止めるが時すでに遅く、劉玲はライアンと協議して予定を決めてしまった。
「ほな、この週末は宝島や」
劉玲は満面の笑みを浮かべた。曹瑛は早速、烏鵲堂臨時休業のお知らせをインスタグラムに入力していた。
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