Third Base: Finish Swing
不憫なヤツ
アーノルド・シュエインは絶望していた。
こんなことが、ありえていいのか。
まるで悪夢そのものだ。現実だと信じたくないほどの。考えれば考えるほど、自然と涙がこぼれて止まらなかった。それを恥とも思えないほどに、状況はあまりにもひどすぎた。
「はっ。さすがに、ここは懐かしいな」
目の前の男が、カーテンのわずかな隙間から覗く光景をみながら言った。
「ここには、多くの哀れな男たちが夢を抱いて集まる。だがな、その夢ってのは、霞みてぇなもんだ。賭け事で大勝できるやつなんざ、ひと握りのなかのひと握り、砂塵のひと粒もいやしない。バギーレースだろうがなんだろうが、すべての賭けは胴元が配分を管理しているんだ。自分たちが掌のうえってことにも気づかずに、なけなしの金を献上していきやがる。夢ってのは、自分で努力して掴むものだってことがわかっちゃいねぇ。だからクズなんだよ」
この場所は、どうやら賭博場にある事務所かどこかのようだ。
アーノルドも小耳には挟んでいた。偉大都市のSSには、荒野に面しているという利点を使い、大規模なバギーレースをおこなう賭場があるという話は。
このニーガルタスという男は、はたしてその関係者なのだろうか。いや、そうだとすれば、ここに事務所の人間とおぼしき死体が転がっている理由がわからない。
しかし、アーノルドには考える意味はなかった。
自分は殺されるのだ。わけもわからないまま、事情も知らぬまま、この偉大都市を巣食う悪人に、ごみのように消される。
「お前は俺の夢だ、アーノルドさんよ。ああ、男だってのにキスしたくなっちまうぜ」
ふくよかな女の描かれたマスクのなかで、ニーガルタスは浮ついた口調で言った。
実際に上機嫌なのか、かれはアーノルドの頬をぺちぺちと叩いた。
「ブ男でも一向にかまいやしなかったが、面までいいとは予想していなかったおまけだ。へへへ、ああ、楽しみだ……これで、俺の日常が返ってくる」
「いちおう、たずねるが」と、インジェクターを解除したばかりの男が言った。「ほんとうに、もう聞いておくことはないか」
ベレンスキーと呼ばれていた男だ。アーノルドの護衛を殺し、ここまで連れてきた張本人。首謀者らしいニーガルタスという男以上に、アーノルドはこの男が憎かった。
平然と嘘をつき、指先ひとつ震わせずに拷問をおこない、人を破滅させようとする男だ。
「んー?」事務所の椅子に腰かけて、車のカタログを開きながらニーガルタスが返した。「いや、とりあえず大丈夫だ。引き出したかった情報は、さしあたり手に入った。まだ市民権を発行していないんだから、必要な情報も限られているしな」
アーノルドが憔悴しきっているのは、絶望だけが理由ではなかった。
身体が、ほとんど限界を迎えていた。
どうせ殺されるならと、なにも話さないように意地を張ろうとしていたが、それは無意味な抵抗だった。死んでも話してやるかという覚悟は、真の痛みの前では無力だった。
あの、気が触れそうなほどに激烈な痛み。
ベレンスキーという男の能力は、あまりにもおそろしいものだった。
身体じゅうの水分が目からこぼれ落ちていく。そうしながら、アーノルドには文句のひとつも出なかった。真に希望が潰えると、命乞いさえも言う気がうせた。
「きょうのうちにすべてが済む。塵工整形師が着くのは三時間後だ。どうやらぜんぶ能力で済ませられるらしいから、たいした環境も必要ない。計画どおり、ここで待つ」
「ならば、俺はいちど電話をかけてきてもよいか」
「わざわざ外に行く必要はないぜ。窓を開けてやる」アーノルドが素顔を曝しているにもかかわらず、ニーガルタスは平然と二重窓を開いた。「どこにかけるんだ?」
「ホテルだ。部下を置いてきているから、進捗をたずねる」
そこで、ニーガルタスは初めて興味を持ったかのように顔を上げた。
「そういや、客室でやったらしいな。あの姉弟を置いてきたのはそのためか? あんたたちの腕を疑うつもりはねぇが、問題なかったんだろうな」
「そのはずだが、それをたしかめたい」
「おいおい。ここにきて想定外ってのはごめんだぜ、ベレンスキー」
「心配はいらない。汚れや死体を含めて、チェックアウトの時間までには万全のかたちに戻す。すでにその道のプロは呼んである」
「安心していいんだな?」
先ほどと一転して、深刻な声でニーガルタスが聞いた。少しでも気がかりなことがあるときゅうに不安が押し寄せるようだった。
「ああ」ベルズを開いて、ベレンスキーが答えた。
「想定外のことが起こらなければ、なにも問題はない。そして想定外のことが起こるのは、まれだ」
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