最終章-21 お嬢様、そろそろ結婚なさっては?
公爵夫人は二人きりになると、なんだか照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに、甥っ子を見つめた。
「――あなたは私のことを、思ったよりも頼ってくれていたのかしら」
この台詞が予想外であったので、アルベールは思わず小首を傾げてしまった。
「どうしてです?」
「エメラルドの首飾りを私に託したでしょう? あれには少し驚いた。私はあなたにとって、煙たい存在だと思っていたから」
そう――あの夜会にて様々な事情に振り回されていたアルベールは、対応が後手後手に回っていた。ジャンは意外に抜けているというか、肝心の情報――つまりヴァネル邸の家宅捜索を行うことで、ベイツ夫人を油断させるという作戦内容を、直前までアルベールに伝えてこなかったのだ。
そのおかげで、エメラルドの首飾りを屋敷から運び出しておく時間が確保できず、ギリギリのタイミングで、伯母にそれを頼むことになった。あの時は大抵のことでは慌てないアルベールも、肝を冷やしたものだった。
公爵夫人が俯きながら、恥じるように続ける。
「私はね、あなたの父親が亡くなった時、何もできなかった。ずっとそれを悔いていたの」
あの事件は、皆の心に少しずつ影を落とした。アルベールは十代の頃は酷く傷ついていたし、無関心を決め込もうとした大人たちを恨んでもいた。――けれどそれはお門違いな考えだったと、成長した今なら分かる。
「あなたは実の母よりも、私のことを気にかけてくださいました」
そう告げたあとで、言おうか言うまいか躊躇うように間を置き、やがてくすりと笑みを漏らしてからアルベールは続けた。
「お嬢様に押しつけた、あのおかしな縁談の数々――もしかしてあれは、あなたがしてくださった、遠回りなお節介だったのでしょうか」
「さぁね」
伯母は笑み交じりにそう誤魔化して、指先でそっと目尻に滲んだ涙を拭った。
「それは、私が人を見る目がないだけかもしれないし、もしかすると、あなた方を煽ってみたのかもしれないわね。――ほら、恋は障害がないと燃えない、っていうじゃない?」
そう言って、ポンポンとアルベールの肩を叩いてきた。
アルベールはこの切り返しがいかにも伯母上らしいと思い、肩の力を抜いて、晴れやかな笑みを浮かべた。
***
夜会でかけられたアルベールの嫌疑も無事晴れて、おまけに西の国から後日正式に褒章が贈られると決まった、ある日のこと。
ヴァネル邸の執務室にて、大きなマホガニー材のデスクを挟み、イヴは従者のアルベールと向き合っていた。
アルベールより三つ年下の、少し前まで少女といってもよかったイヴは、気づけばすっかり大人の淑女に成長していた。
――けれど、変わらないものも、確かにここにある。彼女は背筋を伸ばし、出会った頃のように、真っ直ぐにアルベールを見つめた。
アルベールの親は愛に生き、貴族社会での評判を落とした。あの事件は彼の人生観に色濃く影を落とした。アルベールは十代の頃、好きな相手とは結婚しないと、固く心に誓った。血の奥底に眠る、昏い衝動や執着といったものが呼び起こされるのが、怖かったのかもしれない。
「貴族は多くの領民の生活を背負っています。だから好きに生きてはいけない。気ままに生きることは、愚かさを助長させます」
それは彼の本心だった。――けれど自分でも分からない。彼女に否定して欲しいのだろうか。それとも肯定して欲しいのだろうか。
おそらくアルベールはもうイヴを選んでいたし、彼女を選ばないということは、彼が生きている限り、不可能であっただろう。
けれどやはり、流されるようにして彼女を求めることは、アルベールにはできなかった。卑怯な考えだが、アルベールはイヴに背中を押して欲しかったのかもしれない。
――意外にも彼は、周囲の人間から愛されていたようで、ヴァネル伯爵も、伯母上も、そっと彼の背中を押してくれた。けれど彼自身の意固地な部分が、この期に及んでも、まだ足をすくませている。
そしてアルベールは意外にも、いつだってこんな時は、イヴに助けられてきた。イヴを助けてきたようでいて、本当にアルベールが困っている時、本当に彼が苦しんでいる時は、いつだってこの年下の無鉄砲な少女が、彼の手を引いてくれたのだ。
――彼女はアルベールの希望だった。
だから今回も彼女ならば、アルベールの駄目な部分――意固地で臆病な部分を、力技で変えてくれるのではないか。そんなふうにきっと、無意識のうちに期待しているのだ。
イヴは少し考えてから、落ち着いた声で答えた。
「私はもしも『あなた』か『貴族の義務』――そのどちらかを選ばなければならないなら、迷わずあなたを選ぶと思います。その考え方は貴族としては失格かもしれませんね。だから賢いあなたに支えて欲しいの」
「ですが私は、あなたといると賢ささえ失う」
これも彼の本心だった。――もしも自分が賢さを失ったなら、一体何をもって、彼女を守れるというのだろうか。
家の評判は最悪だ。人々は彼を見れば、親の罪を思い出すだろう。皆、決して忘れはしない。
それを撥ねのけるためには、クリアな思考がどうしても必要だ。それが分かっていたからこそ、彼はその特性を磨いてきた。
生き馬の目を抜く貴族社会で、どう振舞えばいいのか、この数年で深く学んだ。――別に正攻法でなくてもいい。彼は周囲を黙らせる方法を、確かに学んだのだ。
与えられた『イヴ・ヴァネルの従者』という立場は、今考えてみれば、アルベールにとっては理想的な肩書だった。文句のつけようのない偉大なヴァネル伯爵の看板を背負って、手腕を発揮できる。しかし実力が伴っていなければ、『やはりランクレ家の子供だ』と言われていただろう。しかし彼は従者として完璧に仕事をこなしてきた。完璧すぎるほどに。
倫理的にグレーな、ギリギリの交渉も数多く行った。綺麗事は言わない。この世界は綺麗事だけでは片づかないこともある。
それはもしかすると、アルベールだからこそ取れる、合理的な方法なのかもしれなかった。出自からしてクリーンとは程遠かったし、彼はある種神経が図太いところがあったので、こういった駆け引きが苦痛ではなかったのだ。
もしも彼が根っからの善人で、純粋培養されたお坊ちゃまだったなら、こうした世界で生きることは、さぞかし苦痛であっただろう。けれどアルベールなら、皮肉にも、理想的な形でイヴを守り抜くことができる。
この唯一の武器である賢さを失ったら、捧げられるものが何もない。そう考えるアルベールに対し、イヴはどこまでもブレなかった。
「では一度、とことんまで落ちたらいい。落ちたら二人で一緒に考えましょう。ふたたび上がる方法を。――ねぇ、あなたと私なら、それができるでしょう? だって何年もずっと、そうやってきたんだもの」
落ちることなど万に一つもないとイヴには分かっているのだが、彼がそれを恐れるならば、いっそそうなってもいいじゃないと伝えたかった。最悪だと想定していることが起こったとしても、二人なら大丈夫。絶対に大丈夫だ。
「――ピンチはチャンス、挽回の方法はいくらだってあるって、私たちは学んできたじゃない。なんだってものは考えようなのよ、アルベール。私はこう思うの――自分の生活が充実していないのに、他人の幸せを願えるかしら、って。そんなの無理だわ。自分が満たされて初めて、他人に思い遣りが持てるんじゃないの? 私は幸せになりたい。そしてそれ以上に、あなたに幸せになって欲しいと思っている」
アルベールは彼女の告白を聞いて、胸が一杯になってしまった。いつもどこか冷めていて、何かが欠けていて、こんなふうに溢れるように、感情の渦に呑み込まれるようなこと、きっと自分にはないと思っていた。
けれどイヴは、アルベールがありえないと思っていたことを、いとも簡単に覆す女性なのだ。
「あなたと共に生きること、それが私の幸せです」
アルベールが静かに負けを認めると、イヴは悪戯っ子のような笑みを浮かべた。こういう顔をしている時が、彼女は一番綺麗だと思う。
――彼女以上に誰かを好きになることはないだろう。
「では観念することね。あなたが長年の思い込みから抜け出さないつもりなら、あなたは最も大切なものを失うことになるのだから」
アルベールは少し考えてから、温かな笑みを浮かべた。そうして穏やかに佇んでいると、彼は天使のように無垢な存在にも見えたし、酸いも甘いも噛み分けた、大人の男性にも見えた。
彼がイヴに尋ねた。
「お嬢様、そろそろ結婚なさってはいかがです?」
「相手によるわね。私を愛してくれる人でなければ」
「私は一途にあなたを愛し、この身を捧げることを誓います」
アルベールはとても穏やかな気持ちだった。あんなに悩んでいたのに、こうと決めたら、一本の道筋が引かれたように、くっきりと未来が輝いて見えた。
「――結婚してください」
心を込めて告げたプロポーズに対する、お嬢様の返答は――もはや語るまでもないだろう。
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