最終章-15 ジャンとイヴ


 イヴはヴァネル邸の書斎に軟禁されていた。


 寝返った警備兵たちは、別に裏稼業の人間というわけではなく、少し金を握らされて、ジャンの指示――(家宅捜索を行うことと、そのあいだはヴァネル嬢を自由にさせないこと)――を守るよう、言いつけられていただけであった。


 ここまでイヴを連行してきたのは警備兵であったが、そのあとは上手くアルヴァ殿下が采配を振るったため、書斎の警備は殿下の私兵にすり替わっていた。――つまりこの軟禁は、イヴを拘束するのが目的ではなく、彼女を外部の敵から守るためのものだった。


 だから当然、手荒な真似はされていない。こんな状況であったから、ジャンからすれば、彼女に急ぎ会わなければならない切羽詰まった事情も特になかったのだ。


 それにも関わらずこうしてやって来たのは、彼はなんだかんだ従妹のイヴに対して、親愛の情を抱いていたからだ。イヴは見た目もゴージャスで美しい女性だし、性格も素直で隠しごとができないとなれば、嫌いになるほうが難しい。


 イヴは昔からジャンのことを嫌っていたが、二人は互いにそんなに顔を合わせる機会もなかったので、ジャンのほうにはその気持ちが伝わっていなかった。それどころか、ジャンには都合の良い思い込みのようなものが働いていて、イヴは出来の良い年上の従兄に憧れて、気後れしているのだと考えていた。


 だから彼にとってイヴという女性は、可愛い妹のような、恋人未満の気になる異性のような、少し不思議な存在なのだった。


 成長したイヴと再会したジャンは、『美しくなったな』とドキッとさせられたものの、自分は婚約者のいる身であったので(もう今は破棄されてしまったが)、口説こうと真剣に考えたこともなかった。


 けれど元々憎からず思っていたわけだし、病気療養していた子供の頃と比べると、ぐっと女らしい身体つきになった彼女を見て、心がさざめくような感覚はずっとあったわけである。


 先日アルベールのことで噛みつかれて、彼女の秘めたる攻撃性に驚きはしたものの、これまたジャンは異性に対する気楽さを発揮して、あのことは簡単に水に流してしまった。


 だからイヴが心細く感じているだろうと気にかけていたのは彼の本心で、きっと怖がって震えているだろうから、早く真相を告げて慰めてやりたいという気持ちがあった。


 だというのに会いに行って早々、彼女が、


「アルベールはどこなの?」


 と『女』の目をしてそう尋ねて来たものだから、なんだかジャンは面白くなかった。


 ジャン自身は不利な状況になった途端、婚約者からすぐに婚約破棄されてしまった。あの女性が薄情だったと責めるつもりはない。しかし婚約中はあちらが熱を上げていると思い込んでいただけに、裏切られたような気持ちになったのは確かだ。


 ――けれどイヴときたらどうだろう。今夜の出来事が狂言だったと知らないくせに、まだアルベールを見限っていない。


 元々カンニング事件のあと、アルベールの評判が最悪だった時に、彼女は彼と親しくなったのだと聞いている。それからアルベールは心を入れ替えたかのように、真面目になった。


 しばらく会わないあいだに、十代の頃のどこか危うい雰囲気は綺麗に消え去り、彼が洗練された大人の男になっていたことに、ジャンは驚かされた。


 アルベールは元々頭が良かったが、昔は露悪的に振舞うという良くない癖があった。人を小馬鹿にしたような話し方をして、相手を試すようなところが。


 それが今の彼ときたら、頭の良さがそのまま教養に結びつき、物腰は優美で、まるで紳士の鑑のようではないか。これだけ貴族らしい貴族もいないだろうというほど高貴に見えるのに、実際のところ、彼はイヴ・ヴァネルの『従者』にすぎないのだ。


 イヴが彼を変えたのだと思うと、なんだか悔しいような、奇妙な感情が湧きあがってきた。まだ子供だった頃のイヴには、ジャンだって会っているし、『困ったことがあったら、なんでも言うように』と親切に声をかけてあげた記憶もあるのに、彼女はアルベールのほうに懐いたのか。


 ――イヴは一体どこまでアルベールを信じるのだろうか。健気なイヴをなんだかいじめたいような気持ちになってきた。


「絶望的だとは思わないか?」


 言葉を押し出しながら、自然と口元が歪むのが分かった。この喋り方では、イヴは馬鹿にされているように感じただろう。ジャンの態度にはコンプレックスが滲んでいて、小悪党としてはまったく堂に入っていた。


「旗色は悪い。カルネ婦人の懐中時計を盗んだかどで、アルベールは逮捕された。これで皆から犯罪者として見られるし、一度泥棒のレッテルを貼られてしまえば、エメラルド盗難事件だって、彼の仕業だろうと思われる。――なんせ彼はランクレ家の子供だ。それに君だって、昔の彼を知っているだろう? 素行は悪かった。――もしかしたら彼がやったと、疑っているだろう?」


 ジャンは、イヴがアルベールを疑えばいいと思っているのか、もしくは、信じ抜いて欲しいと思っているのか、自分でもよく分からなかった。


 これでもしもイヴが簡単にアルベールを切って捨てたら、ジャンは本格的な女性不信におちいるかもしれない。けれどイヴが盲目的にアルベールを信じ続けるなら、それはそれでジャンは傷つく。


 振り子が振れるように、ジャンの心は大きく揺らいだが、イヴはまったくもってシンプルに初志貫徹、何も迷いはしないのだった。


「――彼は絶対にやっていない」


 イヴの視線の強さにジャンはたじろぐ。


 彼女のしっとりした瞳は、普段は退廃的で夜の気配が色濃いが、こうして怒っていると、まるで炎を纏っているように鮮やかで豪奢だ。


 はっきりと自分の意見を告げる彼女には、王者のような風格があり、眩暈がするほど魅力的に映った。彼女はその恵まれた容姿を武器に、得がたい品格を身に着けており、男をひれ伏せさせるような、逆らい難い力を持っている。


「なぜ彼がやっていないと思うんだ? こういってはなんだが、彼は盗みくらいなら、罪悪感もなくやれる男だよ。普段やらないのは興味がないから――ただそれだけの話で、善良なわけじゃない」


 これは嘘偽りない本心だった。――というのもジャンは七年前にカンニング事件が起こった際、本当に彼がやったと信じていたからだ。アルベールにはそういう危ういところが確かにあった。


 ――その問いかけに対し、イヴは考える。


 確かにアルベールは、イヴの目の前で誰かの財布をすったこともあった。そういう時の彼は罪悪感を抱くでもなく、かといってスリルを味わうでもなく、ただただフラットだった。つまり自然体で、そういうことができてしまう人なのだ。それに彼はイカサマだって平気でする。


 だけど。


「彼は私を傷つけるような嘘は絶対につかない。エメラルドの宝石を盗むはずがないし、趣味の悪い懐中時計なんて、言わずもがなよ。彼は倫理観が邪魔をしてそれをしないんじゃないの――私の価値を下げるのが嫌だから、そんなことはしないのよ」


 これを聞いたジャンは胸がジクジクと痛むのを感じた。――自分のほうが絶対に品行方正に生きてきた。常に襟を正して。


 けれどその実、アルベールのほうが、いつだって自分よりも半歩進んでいたような気がする。恵まれていない環境で育ったにも関わらず、彼は勉強もできたし、器用だった。顔もとびきり良かった。


 性格は特別良いわけじゃない。誰かにゴマをするでもない。けれどそれでも、たまらなく人を惹きつける。


 そんなアルベールが注目を浴びるのは当然の結果で、これで有頂天になったりすればまだ可愛らしいものだったが、彼は他人の視線などまるで意にも介さず、いつだって飄々としていた。そんな佇まいが彼の雰囲気にとても合っていて、そのことにしばしば苛立ちを覚えたものだった。


 ジャンは彼を嫌いながらも、彼の姿を目で追うことをやめられなかった。――華があるというのだろうか。動作一つ一つにまで視線を奪われる。ついつい見てしまうから、苛立ちはいつまでも治まらない。


 もしかしてジャンは無意識のうちに、アルベールにはもっと泥水をすすって欲しいというような、薄暗い欲望を抱いていたのかもしれない。


 ジャンは子供に言って聞かせるように、イヴの瞳を覗き込んだ。


「彼は今、敵に拘束されているし、君が駆けつけたところで、なんの助けにもならないよ」


「彼はどこなの?」


 イヴがこの調子なので、とうとうジャンは居場所を教えてやることにした。


 アルベールを運んだ馬車には、腕っぷしの強そうな例の大男と、御者が一名いる。二人とも敵側の人間であるが、アルベールのことだから、ジャンが下車した直後にあっという間に車内を制圧しただろう。彼はそのまま隠れ家に向かったはずで、イヴがそこへ行ったとて特に危険はない。


 アルベールは今晩そこで姿を隠す段取りになっていたから、イヴが駆け込んで行ったら、彼は驚くだろうなとジャンは考えていた。


 ――やれやれ。僕はとんだピエロじゃないか? イヴに隠れ家の場所を詳しく説明したあと、


「ただし、行っていいのは君一人だ。誰か護衛でも連れて行こうものなら、アルベールは殺す」


 トドメの意地悪。このくらいは許されるだろう?


「分かったわ」


「じゃあ、君に見張りをつけよう」


 書斎の入口にいた騎士に目配せすると、騎士は一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに察してイヴについて行った。彼はアルヴァ殿下直属の部下であるから、何かあったらイヴを護ってくれるだろう。


 イヴに意地悪を仕かけていたはずなのに、最後の最後でいらぬお節介を焼いてしまった。


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