最終章-7 イヴ、彫刻家を脅す


 ほうほうのていでイヴがヴァネル邸に戻ると、玄関ホールの近くで、ジャンがベイツ卿から厳しく叱責されていた。


 滞在中のベイツ卿は落ち着いているように見えたのだが、怒りんぼう虫は死んでおらず、少し眠っただけですぐに起き出して、ああして癇癪を爆発させる習性があるらしい。


 彼らはエントランスから西側のシガレットルームへと抜ける通路に立っていて、大声で話しているので声がよく響いた。イヴは抜き足差し足で階段下まで忍び寄ると、二人からこちらの姿を見咎められないように気をつけながら、ベイツ卿が何に怒っているのか聞き耳を立てた。盗み聞きは下品な行為であるが、イヴはそういったことを気にしない図太い性格をしている。


 ベイツ卿はエメラルド盗難事件の捜査がまるで進展していないことへの不満、そして状況がこのままだった場合に、自分たちが負うことになるリスクを、こんこんと、時にループしながら怒鳴り続けた。挙句には、


「このまま結果を出せないようなら、お前の婚約話も潰してやるからな!」


 という脅し文句まで吐く始末だった。上昇志向の塊で、優秀なジャンのことだから、よほど条件の良いお相手との縁談なのだろう。きっとそのご令嬢は、家柄が良く、資産家で、見目も麗しいに違いない。


 この縁談が潰れたら、ジャンはかなりがっかりするだろうし、また見栄っ張りな彼のことであるから、不祥事が元で婚約が流れたりしたら、羞恥と怒りのあまり、発狂してしまうかもしれなかった。


 イヴはジャンのことがあまり好きではないものの、それにしたって今回のことで縁談が潰れるとなっては、なんだか気の毒になってきた。――とはいえ本件に関しては、イヴが出しゃばるような話でもないし、さらに言うなら、出しゃばってどうこうなる問題でもない。


 そこでそっと立ち去ろうと身を翻したのだが、振り返った途端、すぐ後ろに佇んでいたベイツ夫人にぶつかりそうになり、ぎょっとして飛び上がりそうになった。


 イヴの肝が座っていなかったら、『きゃあ!』と大声で叫んでいたところだ。イヴは鋼の自制心でもって、なんとか声を出さないようにし、胸に手を当てて深呼吸を繰り返した。


 ベイツ夫人はイヴの背中に手を添え、東側の通路のほうへといざないながら、何事か考え込んでいる様子で視線を彷徨わせていた。少したってから、ポツリと呟くように言う。


「前に話したと思うけれどね、夫は悪い人ではないのよ。けれど最近は様子がおかしいわ。ピリピリしているし、感情の起伏が激しくってね。心配だわ」


 イヴはそれを聞きながら、『悪い人ではない』と言われたところで、ああも頻繁に爆発するさまを見せられると、悪い人にしか見えないんですけれど、などと考えていた。十のうち八が悪人要素で、二に良心的な部分があるとしたら、その人物の評価は、やはり悪人であるということになると思うのだ。


 とにかくイヴは宝石店前で襲われた件で疲れ切っていたから、ベイツ夫人の夫に対する甘々な評価を、寛大な心で聞いてあげられる忍耐力を失っていた。


 ベイツ夫人のほうも、ここでやっとイヴの状態に気づいたらしい。


「なんだかあなた、元気がないわね」


 半歩身体を引き、ジロジロとイヴの顔色を眺めながら、そんなふうに言う。


 するとそこへ、


「――お嬢様」


 落ち着いた声がかけられた。見れば、アルベールが居間から出て来たところだった。


 イヴは彼の端正な姿を見た途端、緊張が解けるのを感じた。――もう隣国から戻ったのね。よかった。彼がそばにいてくれるなら、何もかもが上手くいくわ。


 イヴが朝起きた時には、すでに屋敷を発っていたようだから、明け方、あるいは夜のうちにヴァネル邸を出て、早馬を駆り、急ぎ用を済ませて戻ってくれたのだろう。ヴァネル邸が国境に程近い場所にあるとはいえ、日帰りの旅程はなかなか厳しいものだったに違いない。


 イヴはアルベールが隣国で何をしてきたのか気になったが、それよりも自分の身に起こったとんでもない不幸を語らずにはいられなかった。


「アルベール、聞いて頂戴! 実はあの『女神像』、壊れてしまったの」


「何かあったのですか?」


 アルベールが目の前に立ち、心配そうにこちらを見つめてくる。


 イヴはアルベールに気遣われて、なんだか泣きたいような、甘えて慰めてもらいたいような、不思議な気持ちになった。――彼はあるじが強盗に襲われかけたと聞いたら、胸を痛め、着いて行けばよかったと自分を責めるだろう。そしてしばらくのあいだは、つきっきりで甘やかしてくるに違いない。そのことがイヴにはすでによく分かっていたのだ。


 こちらが甘えたら、彼は想定していた倍、甘やかす――そんなことを想像してしまったら、なんだか妙に照れくさくなってきた。それで彼から『何かあったのか』と尋ねられたのに、答えをはぐらかしてしまった。


「詳細は少し落ち着いてから話すわ。――とにかくね、あの像が壊れてしまったものだから、私はその破片を必死に拾い集めて、彫刻家のアトリエに運び込んだのよ。ほら、『呪いの絵』の時に助けてくれた、例の彫刻家のところ」


 話すうちにアルベールに対する照れは消え、破片を拾い集めた際の、焦りや惨めさがぶり返してきた。


 聞き手のアルベールは、意外な人物が話に登場したので、戸惑ったようだ。


「なぜ彼を巻き込んだのですか?」


「なぜ、ですって?」


 イヴは突然声を荒げた。――普段イヴは感情的になることが滅多にないのだが、やはり自分で思っている以上に今は疲れていて、昼間のショックから立ち直れていなかったのだろう。


 それに先程耳にしたベイツ卿の怒鳴り声が、耳の中にこびりついているかのようだった。他者の苛立ちは伝染しやすいものだ。イヴのイライラは尻上がりに募っていった。


「――あなた忘れたの? あの『女神像』を壊してしまったら、私は眉毛が繋がったレミー子爵と結婚させられてしまうのよ! あなたは私に、夫の眉毛を毎日抜けというの? そんなの地獄だわ! とにかく私、レミー子爵と結婚したくない!」


「あの、お嬢様」


「黙って! いいから聞いて頂戴。――像は割れてしまった――それはもうどうしようもない。だから私、彫刻家に復元してもらうことにしたのよ。粉々になった材料をすべて持って行き、彼に渡して、正しく組み合わせてもらうの。糊でくっつければ、元のとおりよ。ええ、元のとおり。編みものと一緒ね――毛糸を一度バラバラにほぐしても、もう一度初めから同じように編み直せば、同じ編みものが出来上がるってわけ。彫刻家に頑張ってもらって、あの『猿のミイラ』もどきを元に戻してもらうのよ」


 それを聞いたアルベールは『到底無理だな』と考えていた。


 彼が微かに顎を引き、困惑したように瞳を逸らしたので、その肯定的とはいいがたい顔を見て、イヴはすっかりやさぐれてしまった。


「――あなた今、絶対に無理だと思ったでしょう。だけどね、私は今ひどく気が立っていて、無理だとか、不可能だとか、そういう否定的な言葉は聞きたくないの。だってあの彫刻家にも散々言われたんですからね! 私はもう彼の胸倉を掴むところまでいきかけたわ。こちらの鬼気迫る勢いと、報酬はいくらでも出すという餌に釣られて、彼も最後は首を縦に振ったの。プロが一度『やる』と言ったのだから、彼には絶対にあれを元どおりに戻してもらうわ。――ああ、もう、その顔をやめてよ。私を酷い女だと思っているわね? だけど考えてご覧なさいよ、粉々の破片をくるんだブランケットを抱えて、劇場の前を通り、薄暗いビルに入って行った私の、惨めな気持ちをね! あなたにあの心細さが分かって?」


 イヴが早口にぶちまけると、アルベールはなんだかいたわるような視線をイヴに向け、彼女が大好きなあの落ち着いた優しい声音で、気遣うようにこう言ったのだった。


「――お嬢様、何か温かい飲みものをお持ちします」


 彼の声にはいかにも思い遣りの心が込められているようであったが、アルベールは内心、『温かい飲みものが必要なのは、彫刻家のほうだろう』と辛辣なことを考えていた。


 イヴはイヴで考え事に忙しかった。


「あの彫刻家の腕に賭けるしかないわ。――伯母さまには、そうね、『あの像は宝石店に預けてきた』と話しておく。磨きに磨きをかけてもらっているから、と。――ああ、これが駄目なら私、眉毛が繋がったレミー子爵と結婚するしかないのね」


 ベイツ夫人は気の毒そうにイヴを眺め、親切に声かけした。


「何か私も協力できるといいのだけれど。――ええと、その、彼の眉毛を一緒に剃ってあげるとか」


 そんな手助けは求めていない。そして誰かに眉毛を剃るのを手伝ってもらったって、きっと数日もしないうちに、どうせまた繋がってしまうに違いないのだ。


 イヴは悲観的な気持ちになってきて、何をするのも億劫になり、部屋に直行してふて寝をしてしまった。


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