最終章-5 アルベールに口を塞がれる
お開きになったあと、イヴはアルベールを捕まえて、書斎に残るよう目線で訴えた。
腕をグイと引かれたアルベールは、イヴのほうに向き合いながら、詰め寄って来たあるじを戸惑ったように見おろしている。
「ねぇ、どういうことなの? エメラルドって、まさか、あの」
頭が混乱していた。――そう、イヴは国宝級のエメラルドが紛失したと聞き、西の国から贈られたという例の首飾りが関連しているのではないかと思ったのだ。
アルベールがイヴに盗品を渡すわけがない。それは分かっている。けれど裏に何か事情があるなら、ちゃんと知っておきたい。
アルベールは正直に答えてくれると思っていたのに、彼はイヴにそれ以上言わせてくれなかった。それは突然の出来事で――
彼は右腕をイヴの腰に回し、性急さと強引さ、それでいながら不思議とスマートさを兼ね備えた動作で、イヴを拘束してしまった。さらに空いている左手を持ち上げ、彼女の口まで塞いでしまう。
身体のどこにも痛みはないし、アルベールは力加減を完璧にコントロールしていたから、イヴは恐怖を感じることもなかったのだけれど、それでも彼がしたそれらの行為は、従者とあるじの関係から明らかに逸脱していた。
イヴは言葉を物理的な手段で遮られたために、
「むぐぅ」
とケーキを喉に詰まらせた食いしん坊のような呻き声を上げてしまう。
イヴは眉を顰め、すぐ近くにあるアルベールの端正な顔を、睨むように見上げた。しかし彼のほうは涼しい顔である。アルベールは謎めいた瞳でイヴをじっと見つめてから、注意を促すように、廊下のほうをチラリと一瞥した。
怪訝に思いながらも彼の視線を追えば、壁の向こうにジャンが身を潜めているらしいのが分かった。扉の隙間から、彼の肩が見えている。
――確かにジャンに聞かれるとまずい。イヴはこの場での追及を諦め、拗ねたようにアルベールを見上げ、『もう分かったから』と小さく頷いて見せた。
アルベールはイヴの唇を塞いでいた手を剥がし、なんだか心配そうに、彼のお嬢様を見おろした。
「――明日、私は野暮用で隣国に行って参ります」
この時、イヴの頭の中で話が繋がった。――もしかするとアルベールにとっても、この件は寝耳に水だったのではないか。褒章で貰い受けた首飾りが、どうやら盗品として扱われている。彼は詳細を確認するために隣国へ行き、アルヴァ王子殿下から話を聞くつもりなのではないか。
その点を確認したいのだが、ジャンが聞いているようなので、この話はできない。
アルベールはふっと肩の力を抜き、なんだか妙に優しい視線で、イヴを眺めおろした。
「お嬢様、明日はカルネ婦人につき添って、宝石店に行かねばなりませんね。あのおかしな像を持って」
そう言われた途端、イヴは馬鹿げた任務を思い出し、げんなりしてしまった。
「ああ、やだ、気が重いわ、アルベール」
「隣国に行ってしまうので、私はご一緒できません。もしもお嬢様がお望みでしたら、出立を一日延ばしますが、いかがいたしましょうか」
そんなことを言い出したら、明後日になればまた、別の用件でアルベールを頼りたくなって、『お願い、今日も行かないで』と頼み込んでしまいそうだ。だからイヴは彼を安心させるように、にっこり笑ってみせた。
「私は大丈夫だから、行ってらっしゃいよ。カルネ婦人のことはよく存じ上げないけれど、相手は富豪の老婦人ですもの、危険なんかありはしないわよ」
――それがまさか、あんなことになるなんて。この時点ではイヴばかりか、アルベールですら予想もしていなかったのである。
***
――翌日。伯母の言いつけに従い、イヴは宝石店にお使いに出かけた。
同伴者であるカルネ婦人は、小柄で上品な女性だった。冬の朝を思わせるような、青く透き通った瞳が印象的で、顔の造作もすっきりしている。婦人はさっぱりした気性で、意地の悪いところがなかったので、道すがら気まずい思いをすることもなく、目的地に着くまで楽しい時間を過ごすことができた。
二人が馬車を下り、高級宝石店に入ると、店主がイヴの荷物に気づき、
「お預かりいたしましょうか?」
と言って、恭しく手を差し出してくれた。
――実はイヴ、そこそこ重い例の『女神像』をブランケットにくるみ、腕の中にしっかり抱え込んでいたのだ。手提げカバンに入れて御者に運んでもらってもよかったのだが、『これを割ってしまったら、あの眉毛子爵と結婚させられる』と思うと怖くなり、身体から離せなくなっていた。
そして店主にこれを見られたことで、『宝石店で珍妙な像を抱えている自分』を客観視してしまい、羞恥が込み上げてきた。――というのも宝石店の内装は都会的で、すべてが洗練されていて素敵だったからだ。
こんな場所で『猿のミイラ』もどきを取り出すの? その滑稽な場面が思い浮かんだだけで、顔が赤くなってくる。動揺したイヴは、ブランケットにくるまれたそれをぎゅっと胸の中にかき抱き、
「いえ、結構ですわ!」
と強めの口調で断ってしまった。この淑女らしからぬ声の出し方に、店主は驚いたようだ。――しまった。慌てていて、ボリューム調整を間違った。罪悪感に駆られたイヴは早口に告げる。
「失礼いたしました。こちらは伯母である公爵夫人からお預かりした、大切なものなのです。くれぐれもわたくし個人の手で管理するよう、申しつかっておりまして」
そう苦し紛れの言い訳をすると、相手は『ああ、あの公爵夫人に言われたのでは、神経質にもなるというものだ』と言いたげに、同情するような視線をこちらに寄越した。
――そしてイヴは相手の反応から、伯母さまは『女神像』の磨き上げについて、事前に話を通していないのだと気づいた。ということは、イヴが申告しなければ、禍々しいこれはずっとおくるみの中にしまっておけるのだ。
これをどう扱うか、その全権を自分が握っている。そう思えばプレッシャーが増してくるし、その重圧から逃れようとすれば、何も考えられなくなる。現実逃避するようにイヴは提示される宝石類を眺め、半時ほどやり過ごした。
イヴはソファの横に置いた例の包みを、チラリチラリと眺めては、『勇気を出して渡さなければ』と考えるのだが、結局この和やかな空気を壊すことなど彼女にできるはずもない。カルネ婦人の用も済み、イヴはまた包みを胸に抱き込んで、店員に別れの挨拶をしてから店の外に出た。
――出てしまったわ。宝石店から外の通りに出た途端、暗い店内と明るい戸外の明暗差に目が慣れていなかったことと、腕の中にある『猿のミイラ』に気を取られていたことで、注意力が散漫になっていた。
イヴがよろけながら足を踏み出すと、
「――おっと」
すぐそばで声がした。――ふと気づけば、左手の死角から人が迫っている。
運動神経はさほど悪くないのだが、この時は上手く対処することができなかった。右の背後には老婦人がいるから、そちらには避けられない。イヴは身体のバランスを崩し、背を縮こませた。まるで小舟の上に二本足で立っていて、大きな波に煽られたかのようだった。
ぶつかる――
通行人と激突して、無様に通りに尻もちをつく自分の姿を想像したイヴであったが、気づいた時には、逞しい腕に腰を抱かれていた。
グイと身体全体を引き寄せられたイヴは、男の腕にすっぽりと抱え込まれてしまった。
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