最終章-3 生理的に無理
愉快な愉快なベイツ夫妻は、しばらくヴァネル邸に滞在することになった。彼らのことを好きか嫌いかは関係なく、屋敷に迎え入れているあいだは、ベイツ夫妻に楽しく過ごしていただくしかない。
晩餐を終え、男性陣はシガレットルームに消え、女性陣はサロンでカードゲームに興じることとなった。メンバーは、伯母さま、ベイツ夫人、イヴ、そしてイヴの母の四人である。
イヴは『女神像』改め『猿のミイラ』もどきを、テーブルの端ギリギリに置くことで、運良く肘が当たって、床に落ちて砕けないかしら……という、ささやかな望みに賭けることにした。そんな姑息な娘を、母は呆れたように横目で眺めている。
「――イヴ」
母が押し殺した低い声で囁きかけてくる。席順がイヴの隣なので、娘にだけ聞こえるように声量を調整しているところが如才ない。
「この絨毯、私はとっても気に入っているのよ。だからやめてね」
イヴがこのおかしな石像を落とそうとしていることに、いち早く気づいたらしい。意訳すると『変なものを、お気に入りの絨毯の上に落とさないでね』ということになるのだが、考えてみると、なかなかに酷い発想である。落ちた結果、辺りを汚すようなものならともかく、これは石像なのだから、あとで丁寧に掃き清めれば問題はないはずだ。
イヴの母は普段穏やかな笑みを絶やさず、良くいえば貞淑、悪くいえば存在感が薄い印象だった。つまりは毒にも薬にもならないと判断されるタイプなのだが、意外なことに、その内面は少しSっ気が強いのである。
時折イヴよりもぶっ飛んだことを言ったりやったりするくせに、前述のとおり貞淑の皮をかぶっているため、なんでも大目に見てもらえるという得な性分をしていた。
そんな母が邪悪なものを前にしたかのように、例の『女神像』を苦い顔で眺めおろしている。
イヴはどうしたものかと瞳を彷徨わせたあと、結局、その石像をもう少し外側に押し出した。母が怖い顔で睨んでいるが、無視だ。
するとこの攻防に目敏く気づいたらしい伯母が、カードを切りながら、迫力のある声でこう言った。
「――イヴ、あなた、その『女神像』を粗末にして壊すようなら、許しませんよ。罰として、レミー子爵に嫁がせますからね」
いきなりとんでもないパワハラを繰り出してきたので、イヴはビクリと震え、すっかり目が覚めてしまった。まじまじと伯母を見返してみるのだが、彼女は冗談を言っているふうでもない。
イヴの顔色が段々悪くなっていく。――何か言おうと口を開きかけたイヴは、ショックのあまり頭が働かず、陸に上がった魚のように口を開いたり閉じたりすることしかできなかった。
するとそれを見かねたのか、はたまた単に気まぐれを起こしたのか、S夫人ことイヴの母が、落ち着いた声音で口を挟んだ。
「――レミー子爵というのは、眉毛に特徴があったかしらね?」
この台詞はあまりに奇妙であった。娘の結婚相手として名前が挙がった紳士に関して、初めに出てきたワードが『眉毛』――財産とか、身分とか、年齢とか、人柄とか、語るべき点はもっとほかにありそうなのに、よりによってチョイスしたワードが『眉毛』――それがそんなに大事なことなのかと、常識のある人間がこの場にいたなら、眉を顰めたことだろう。――そう、眉毛の話題だけに。
とはいえ、それらの語るべき点を差し置いて、一番に『眉毛』と口にしたくなるほど、レミー子爵のそれは非常に特徴的なのである。
「そうね、彼を語る上で『眉毛』は切っても切り離せないものよね」
伯母は姪っ子が負ったダメージを横目で確認してから、満足げに頷いてみせた。
「なんせ彼ときたら、右の眉と左の眉が、切れ目なく一文字(いちもんじ)に繋がっているのですから」
あれはうっすら繋がっているとかいうレベルじゃない。同じ太さで、びっしりと真一文字に繋がっているのである。
「伯母さま、それはあんまりですわ」
イヴは弱々しい呟きを漏らした。大切にくわえていた骨を川に落としてしまった犬みたいに、しょぼくれている。
つまりはこういうことだ。――人は誰でも『生理的に無理』というものがある。イヴにとってはそれが『眉毛の繋がった男性』なのである。とにかく見ているだけで背筋がゾワゾワして、血の気が引いてしまう。
理由はイヴ自身にもよく分からない。幼少期に眉毛の繋がったオジサンに追いかけ回されたとか、そういった明確なトラウマがあるわけでもない。けれど駄目なものは駄目なのだ。どんなに顔がハンサムでも、話が面白くても、清潔感があっても、眉毛が繋がっているというこのどうでもいいような一点で、アレルギー反応を起こしてしまうのである。
「レミー子爵は立派な紳士ですよ」
伯母が口の端を片側だけ引き上げ、悪魔のように笑う。
「だから夫婦になったら、つながった眉毛は、イヴ、あなたが抜いてあげたらよろしいわ」
何がよろしいというのか。イヴは下唇を噛む。地団太を踏み、髪をかきむしって、叫び出したい気分だった。
「あんまりよ」
助けを求めるように隣席の母を見ると、彼女は片眉をクイッと上げ、『やれやれ』という顔で、こちらを見つめ返すばかりであった。
こういう肝の据わった態度を見るたび、イヴは母にSっ気があることを実感する。せめてもっとオロオロして『可哀想な私の娘(イヴちゃん)』みたいな態度を取ってくれれば、もうちょっと慰められると思うのに。
――駄目だ。ここには味方がいない。実母でさえ敵だ。
身内が辛辣というこの状況の中、まるで無関係なはずのベイツ夫人だけが、なぜか同情を寄せてくれた。イヴのほうを気の毒そうに見遣り、声をかけてくれる。
「お可哀想に。生理的に無理なことって、誰にでもあるわよね。――ちなみにわたくしは、爪の汚い男性が駄目ですの」
――なるほど、とイヴは思った。それも確かに嫌だわ。というか、よくよく考えてみると、イヴの近くにいる異性(アルベール)が身綺麗で清潔感があるものだから、それが当たり前になってしまっていた。知らず知らずのうちに、イヴの中で判断基準が跳ね上がっているのかも。
そしてつけ加えると、アルベールはイヴのことを滅多に叱らないし、いつも優しい瞳で話を聞いてくれる。
――なんてことだ。アルベールに価値観を狂わされた自分は、一生結婚できないかもしれない。嫌な予感がしてイヴが背筋を震わせていると、部屋に男性陣が入って来た。ジャン、怒りんぼベイツ卿、イヴの父、それからアルベールも。
ソファに移って少し話をすることになった。しばしのあいだ当たり障りのない雑談をしたあとで、伯母が頼みごとをしてきた。
「そういえばイヴ、明日お使いを頼まれてくれないかしら。一番街の宝石店に行って欲しいの」
「宝石を受け取ればよろしいのですか?」
公爵夫人の宝石ならば、さぞかし立派で、目の保養になりそうだ。ただしイヴがわりと乗り気だったのは、ここまでだった。
「私の宝石ではないのよ。友人のカルネ婦人がね、手直しに出していたネックレスを取りに行くのですって。私が同行を頼まれていたのだけど、ちょっと野暮用ができてしまって。だからあなたが代わりにつき添ってあげてくれない?」
カルネ婦人って誰よ。視線を彷徨わせ、脳をフル回転させた結果、小柄で上品な、メレンゲみたいな雰囲気のおばあちゃんが脳裏に浮かんだ。
――別に引き受けるのは構わないのだけれど、伯母の代理がなぜ自分なのだろう? カルネ婦人からしたら、ほぼ初対面の若い娘がやって来るわけだから、戸惑うのではないだろうか。
そうは思ったものの、無駄に伯母を刺激して、眉毛子爵をゴリ押しされてはたまらないので、イヴは二つ返事で引き受けることにした。
「承知しました」
ところが、である。
「ついでにね、その女神像を磨きに出しなさい。宝石店でやってくれるから」
これにはもう、開いた口が塞がらない。
「で、でも伯母さま、あの像は宝石ではありませんよ?」
「宝石くらい価値のあるものよ。店には私の顔が利くから、多少無理なオーダーであっても通るわ」
無理なオーダーという自覚はあるのね。
しかし店側が受け入れざるをえないのと、イヴがそれをゴリ押しせねばならないのは、まるで別の話だ。相手が『どうぞ殴ってください』と頬を差し出してきたからといって、遠慮なく叩けるのか? という話だ。叩くほうの手だって痛い。
嫌だわ、と苦い顔になるイヴ。まるで意に介していない伯母。ドライにため息を吐くイヴの母。同情的なベイツ夫人。女性陣のありようは様々であったが、男性陣のほうも色々ありそうだった。
ジャンはイヴの父に資産運用の話を持ちかけて、前のめりになっている。
――ベイツ卿に紅茶をサーヴするため近寄ったアルベールは、彼が物言いたげにこちらを見上げているのに気づき、話を伺う姿勢で少しかがみ込んだ。
ベイツ卿がこっそりとアルベールに囁く。
「……あれは『身代わり人形』だな」
ヴァネル邸に着いた時は、カッカと腹を立てるばかりだったベイツ卿であるが、今はすっかり落ち着きを取り戻している。当たり前の話なのだが、彼も人の子、始終怒っているわけではないのだ。自分の思いどおりにことが運ばないと、どうにも我慢ができなくなるタイプというだけで。
――『身代わり人形』だな、との卿の指摘に、
「ご存知でしたか」
アルベールは端正な物腰を崩さず、小声で応じた。
「私は外交であちこちの国に行くものでね。――しかしあれを女性が持っているというのは、変な感じだな」
そう、あの像は『女神像』などではない。あれはリヨサ国の中でも少し特殊な位置づけにあるもので、男児が十歳になった時に、息災を願って贈られる人形なのである。子供の厄を移す『身代わり人形』であるのだが、リヨサ国では男児は十歳で割礼を受けるという宗教的な決まりがあるため、そういった背景から、男性的な意味合いを含んでいるのだ。
とにかくあれは女性が持つような代物ではない。端的に言えば、伯母は現地人に騙されたわけである。アルベールはことの顛末を想像してみた。おそらくこんな具合に、不幸な勘違いが始まったのではないか。
――未開の地に、異国の身分ある夫人が来るとのことで、現地では歓待するため、幾つかの土産を用意していた。伯母は悪気はないのだが、ナチュラルに尊大なところがあるもので、もしかすると相手から反感を買ったのかもしれない。それで『身代わり人形』を『女神像』と偽られ、渡された。
――あるいは、伯母が通訳係に圧力をかけすぎて、通訳係が追い詰められてしまった可能性もある。現地人からおかしな像を渡され、ああだこうだと説明を受けたのだが、通訳係は何を言われているのかさっぱり理解できなかった。しかし『よく分からない』と素直に打ち明けられる状況でもなく、冷や汗をかきながら適当に翻訳したことで、伯母には『女神像』と伝わってしまった。
アルベールは物憂げな視線でベイツ卿を眺めた。
「真実をお話しになりますか?」
「まさか」
ベイツ卿はソファの背に寄りかかり、きゅっと眉を顰めた上で、呆れたような、なんともいえないユーモラスな表情を浮かべた。気難しいのは確かだが、彼は時折、こんなふうに砕けた態度を取る。
「ああいった女性の扱い方については、私は誰よりも理解している」
藪をつついて蛇を出すような真似はしないということか。――感情優先、いささか考えなしなタイプかと思いきや、意外と冷静に状況や人を見ている。
もしかするとベイツ卿には、気難しい親類でもいるのかもしれない。近しい関係であればあるほど、相手のやっかいな性分は、骨の髄まで染みるほど、影響を受けてしまうものだ。そしてふと気づけば、自分自身もその特徴を受け継いでしまっていることがある。
ベイツ卿は気難しい人間に振り回された過去(もしくは現在)があり、皮肉なことに、彼自身がジャンはじめ周囲の人間をうんざりさせているのだ。
――とはいえまぁ、彼がやっかいな人間だとしても、アルベールには関係がない。ジャンが苦労するだけの話だからだ。
アルベールは気分を切り替え、ベイツ卿に言われたことを考えてみた。――確かに伯母上に真実を伝えるのは、得策とはいえない。そこはまったく同感であったので、ベイツ卿の元を離れながら、口元に淡い笑みを乗せたのだった。
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