9-B 『成り上がった男』
とある酒場にて、二人の男が酒を酌み交わしていた。二人は仲の良い友人同士であったが、近頃は互いに多忙を極めていたので、こうして対面して話をするのは久しぶりのことである。
「お前に聞いて欲しい話があるんだ。俺の身に起きた、あの信じがたい、ドラマチックな出来事について、どうしても誰かに聞いてもらいたくてな」
そう切り出したのは、騎士服を身に纏った、そこそこハンサムな男だった。
対し、彼の友人である彫刻家の男は、ボサボサの長い髪をかき上げ、眠そうに瞬きを繰り返しながら、ため息交じりに応じる。
「実は僕も、君に聞いて欲しい話があってね。こちらはそうドラマチックな話でもない。つい最近、我が身に降りかかった、とてつもなくツイてない出来事について、すべて吐き出して忘れてしまいたい気分なんだ」
――不思議なこともあるもので、奇遇にも、互いにどうしても聞いてもらいたい話があるようだ。ならばと、彫刻家の男がポケットから古びたサイコロを取り出して、卓上に置いた。
「ではサイコロを振り、偶数が出たら君、奇数が出たら僕、というように、ゲーム感覚で話を進めていったらどうだろうか」
この提案に、騎士は賛同の意を示した。
***
サイコロは2の面、つまり偶数が出た。そこでまず騎士が語ることになった。
「お前も知ってのとおり、俺は貧乏貴族の四男坊で、財産もなければ爵位も継げない、冴えない身の上の一人だった。ところがある日、ひょんな偶然から美しい女性を助けたことで、俺は財産とひとかどの地位を、いっぺんに手に入れることになったんだ」
「そいつは確かにドラマチックな出来事だな。舞台化できるぞ」
彫刻家の男が乾いた笑みを浮かべる。それは友人の与太話をからかうような調子だった。
「まぁ、いいから聞いてくれ」
騎士が苛立ったように身を乗り出す。
「俺はこれまで生きてきて、彼女みたいに魅力的な女性には、お目にかかったことがなかった。しっとりとした艶のある声、くびれた腰、憂いを秘めた美しい顔立ち。――彼女ときたら背徳的で、それでいて気高く、手の届かない高嶺の花といった感じでな。まるで夜の女王だと俺は思った」
「なんだ、その女は娼婦か」
商売女に骨抜きにされただけかと、呆れた視線を送れば、騎士がむっとした様子でまくし立てる。
「失礼なことを言うな! 彼女は淑女の中の淑女で、まだ年若い乙女なんだぞ!」
それなら初めから『夜の女王』とか言うなよ。彫刻家の男はこっそり顔を顰める。――目の前の友人は決して悪い男ではないのだが、筋肉馬鹿というか、いつも少し考えなしなところがあるのだ。
「それで? お前がその夜の女王を助けたのか? 彼女、具合でも悪かったとか?」
「いいや、彼女が強盗に襲われかけたところを、俺が助けたんだ。彼女は伯母さんの使いで、ある宝石店に来ていた。伯母さんの友人にあたる、富豪の老婦人のつき添い役として」
「女二人で高額なものを受け取りに向かうとは、ずいぶん不用心だな。その場に護衛はいなかったのか?」
「彼女は普段、護衛役として、腕の立つ従者を連れていたらしいのだが、その日は色々な事情が重なって、従者は隣国へ行ってしまっていたらしい。その女性はちょっとばかり奔放なところがあるので、代わりの護衛をつけずに出かけてしまったのだとか」
「――従者が外国に行っていたというのか? なんなの? 彼女の家、貿易商か何かなの?」
彫刻家の男は意表を突かれた様子であったが、そんな疑問はどうでもよいことだと気づいて、先を促した。
「まぁ、いいや。それで?」
「偶然通りかかった俺が、成り行き上、二人を護ることになってね」
「お前は腕も立つから、見事やり遂げたんだろうな」
「謙遜はしない」
騎士は少し得意気に、口の端を上げてみせた。
「ところで、その富豪の老婦人のほうだが、俺とは浅からぬ縁でね。あとになって、遠縁関係にあると分かったんだ。その老婦人はつい最近、財産の相続人にあたる孫を、馬車の事故で亡くしたばかりだった。それでずいぶん気落ちしていたようなのだが、不運なことは重なるもので、伯爵位を持つ夫も、その後すぐに流行り病で亡くなってしまったのだとか。そんな訳で、老婦人は一刻も早く、親戚の中から養子を迎える必要があった」
「まさか――」
彫刻家の男が目を見張る。
「そう、そのまさかなんだ!」
騎士は両手を広げ、当時の興奮を思い出したかのように、大きな声を出した。
「暴漢を鮮やかに退治してのけた手際に感動したらしく、そのばぁさんは、この俺を相続人に選んでくれたのさ!」
「君ってやつは、なんてツイている男なのだろう」
彫刻家の男は、成り上がった友人を妬むでもなかった。彼には芸術家特有の浮世離れしたところがあったので、さっぱりした笑みを浮かべた。
「よかったじゃないか。君は昔から野心家だったし、率直だった。その前向きな姿勢が、幸運を呼び寄せたんだな。それに危険な目に遭いかけた女性を救ったという、成り上がったきっかけも、文句なしじゃないか」
「俺の身に起きた幸運は、まだ終わらなかったんだ。老婦人は危険な状況をくぐり抜けた若い男女――つまり俺と彼女の出会いに、すっかり運命的な何かを感じてしまったようでな。『二人には特別な縁がある。絶対に結ばれるべきだ』と言い始めた」
「ふぅん。それについて、彼女のほうはなんて?」
「彼女には婚約者がおらず、結婚相手を探しているところだった。そういった身の上から考えると、俺の出現は彼女にとって、望ましい出来事だったに違いない」
「しかし、解せないなぁ」
彫刻家の男は視線を巡らせ、物思う様子で呟きを漏らす。
「お前の話を聞くに、そのヴィーナスは、魅力的な容姿だけでなく、異性を惹きつける不思議な色気も持ち合わせているようだ。そんな女性にどうして結婚相手がいないのだろう?」
「それは俺も謎だと思ったんだが、彼女の家に行った時に、すべての謎が解けたよ。あの悪魔のような、あいつのせいで俺は――」
騎士はふたたび前のめりになりかけたが、ふとあることに気づいて、肩を竦めてみせた。
「――いや、なんだか俺ばかり話しているな。そろそろサイコロを振って、仕切り直そうか」
「まったく、いい所で話をぶった切ってくれる。でも、まぁいいか、僕も君に聞いて欲しい話があることだし」
彫刻家の男は気を取り直し、サイコロを振った。
***
次は1の目が出た。奇数なので、今度は彫刻家が語る番である。
「僕は彫刻家だが、仕事を選り好みしていられるほど優雅な身分じゃないのは、君も知っているだろう? 日々カツカツの暮らしをしていたのだが、ある日、なんとも奇妙で謎めいた仕事が舞い込んで来た。――今思えば、あれを引き受けてしまったのが、運の尽きだったよ」
彼がはぁと溜息を吐いてうな垂れてしまったので、騎士は意外な気持ちで、彼のつむじを眺めていた。――というのも、この友人は気が長いのが取り柄で、大概の事はおおらかに流す性分だったからだ。
「ヒキガエルみたいなご婦人の、裸婦像製作でも依頼されたのか?」
「いいや」
彫刻家の男が力なく首を横に振ってみせる。
「その仕事は彫刻ではなく、絵画の発注だった。劇場付近の風景画を仕上げてくれという依頼で、それ自体になんら問題はなかったんだが」
本職が彫刻家であるのに、油絵の製作を頼まれたことについては、彼は腹を立てていなかった。趣味で絵を描くこともあったし、それはいいのだ。
「とにかく納期がキツくてね。『時間が勝負』と急かされて、幾晩も徹夜で、その大きな風景画を仕上げた。それに加えて、あの奇妙な仕かけが」
「仕かけ?」
「まるで何かの陰謀さ。だって考えられるかい? 絵の下に別のものを――」
うっかり口を滑らせかけて、彫刻家はハッと我に返ったように口を閉じた。
「駄目だ、いけない。あれは顧客の秘密だから、これ以上は口にすべきではない」
「気になるな、いいだろう、別に」
「いいや、この部分は言えない。――とにかくだ、大急ぎで風景画を仕上げて、納品も済ませ、これでやっとこ寝られると安心していたら、またその客が間髪入れずに仕事を頼んで来たんだ」
「そんなに頻繁に来るなんて、そいつは美術商か何かか?」
「いやぁ、彼はなんといったらいいのか」
彫刻家の顔に困惑が広がる。
「不思議な男だったな。物腰は一見優雅で上品なんだが、有無を言わさぬ押しの強さがあった。――だけど声が大きいとか、当たりがキツイとか、そういうことではないんだ。なんといったらいいのかな――僕は彼を前にすると、百獣の王を前にした小動物みたいに、この男に逆らってはいけないと自然に思わされてしまうんだ。それにあの顔! あの特徴的な顔といったら、もう! 一度見たら、生涯忘れられないよ」
魂が抜けたかのように、彫刻家が呟きを漏らす。
騎士はそんな彼の様子を眺めながら、想像を巡らせた。この温和な友人をここまで放心させるくらいだ。相手の男は野性味のある、猪みたいなタイプに違いない。
彫刻家が、その猪みたいな男(※あくまで騎士の想像)から依頼された仕事の愚痴を、つらつらと話し始めた。
「――『猿のミイラ』の復元だとか、おかしな仕事も頼んできたっけなぁ」
「猿のミイラだって?」
騎士は豪快に酒を煽り、友人のセリフを笑い飛ばした。
「そんな依頼をしてくるだなんて、世の中には、まったく頭のおかしな男がいるもんだな」
騎士のコメントを聞きながら、彫刻家は『はて?』と首を傾げていた。――猿のミイラの件は、彼の依頼ではなかったっけかな? お嬢様のほうの持ち込みだったか? ――まぁいいか。納品先はどうせ同じ屋敷だ。
話に一段落ついたため、ふたたびサイコロを振る。次は偶数が出た。
彫刻家は騎士の話の続きを早く聞きたいと思っていたので、ちょうどよかった。
***
「その女神と俺の関係は、順調に進んでいたように思う。俺は彼女を抱きしめたり、髪を撫でたりしたこともあり、とても幸せだった」
あの素晴らしい感触を思い出し、騎士はうっとりと目を細めた。――実はこれには都合の良い脚色が入っているのだが、それを指摘する者はここにはいない。
彼女と過ごした記憶は、日がたつごとにドラマチックに、彼にとって都合のいいように、書き換えられつつあった。
「とあるパーティが開かれた日、俺は彼女にプロポーズするつもりだった。自惚れるわけじゃないんだが、俺がきちんとプロポーズさえしていれば、彼女は首を縦に振っていたはずだ」
彫刻家は気遣わしげに、親友のやさぐれた顔を眺める。――彼女が頷いてくれていたならば、親友は今こんな顔をしていないはずで、さらにいえば彼が新婚だったなら、こんな酒場でくだを巻いてはいないだろう。――ということは、だ。
彫刻家から向けられた憐れみを読み取ったのか、騎士はグラスを掲げるように持ち上げて、『お察しのとおりさ』と頷いてみせた。
「――彼女に横恋慕している、問題のある従兄がいたんだよ」
騎士の皮肉に満ちた物言いから、その親戚とやらをひどく軽蔑しているのが分かった。
「横恋慕ってことは、ストーカー気質の従兄かぁ。そいつは手強いな。それでその女神様は、従兄のことをどう思っていたんだい?」
「彼女のほうは男を嫌っていたよ。そいつが俺との仲を邪魔した時なんか、はっきり『意地悪』だと男を責めたくらいだ。けれどそいつとは親戚関係にあるわけだから、縁を切れずにいたのだろう。可哀想に。――彼女へプロポーズする予定だったあの日、俺はその男に毒を盛られてね」
「毒だって? そいつは穏やかじゃないな」
彫刻家は酔いから醒めたように目を丸くしている。――しかし『毒を盛られた』と言ってはいるが、こうして生きているのだから、死ぬようなものではなかったのだろうけれど。
「今、猛毒ではないと思っただろう。冗談じゃないよ。俺はあのあと意識を飛ばして、丸一日寝込んだのだからね」
「そいつは災難だったなぁ。それでどうなったんだい?」
「君はこれを、人生の教訓にしたほうがいい」
騎士は芝居がかった調子で、訴えかけるように両手を広げた。
「チャンスというものは、『ここだ』というタイミングでしっかり掴まないと、もう二度とやって来ないものなんだよ。とにかくあの毒物を摂取した瞬間が、俺の人生の分かれ道だった。あれですべてが変わってしまったんだ。俺がプロポーズできずに家で寝込んでいたあいだに、色々な事件が起こった」
「色々な事件とは?」
「あの夜会には、西の国の王子も来ていたんだが――」
話し始めた騎士は、まだ心の傷が癒えぬのか『ああ』と呻き声を漏らし、右手で目元を覆ってしまった。脱力したような肩のラインを見るに、まだ身を切るようにつらいらしい。
――というか、パーティに隣国の王族を呼ぶ力があるとは、女神の実家はずいぶん上級の貴族なのだな。彫刻家は変なところに感心してしまった。
無茶な仕事を頼んでくる『あの人』も貴族なのだが、どのくらいすごい家なのか、彫刻家はよく知らない。屋敷の広大さは、実際に見たことがあるので把握しているのだが、こちらは庶民の部外者であるから、たとえばあの家で開かれるパーティに、どんな人間が招かれているのかなんて、知る由もないのである。
「色々は、色々さ。――とにかく彼女は、ほかの人間とくっついてしまったよ」
彼にとって重要な事実は、ただそれだけ。――彫刻家は興味を引かれ、上半身を前に乗り出した。
「彼女は誰と結婚したんだい?」
先ほどの話の中で、唐突に『西の国の王子』とやらが登場したが、まさか?
「それはだな、驚くなかれ――」
騎士は彼女が結婚した相手を彫刻家に教えようと、口を開いた。――その瞬間、隣の席で若い男女がワッと歓声を上げたので、その後の言葉は喧噪にかき消され、対面にいる彫刻家にしか届かなかった。
彫刻家は意外そうに眼を瞬き、『なんとまぁ』と呟きを漏らした。
二人はなんとなくしんみりした気分で、グラスを触れ合わせて乾杯すると、今夜はとことん飲み明かそうと誓った。酒を傾けるうちに、ふと妙なことが気にかかり、騎士が彫刻家に尋ねた。
「そういえば、さっき君が言っていた、猿のミイラの話だけど――それって結局、復元できたのかい? なんだか難しそうだなと思ってさ」
すると彫刻家は口元を固く引き結び、何事か考え込んでしまった。
「……あれは僕の一世一代の大仕事だったな。始める前は、絶対に不可能だと思ったのだが、僕は見事やり遂げたんだよ」
「へぇ、すごいな。世界広しといえども、君だけじゃないのか? 猿のミイラを復元した男は」
「ところがだよ」
彫刻家はあの時のやりきれない気持ちを思い出し、グラスをドン! とテーブルに叩きつけた。
「僕が苦労して復元した猿のミイラは、謎の暴漢によって、叩き壊されてしまったんだ! 犯人はまだ捕まっていないのだが、あんなことをするやつは、血の通った人間じゃないと思う」
「なんとまぁ、酷い話だねぇ」
プロポーズをストーカー男(?)に邪魔された騎士は、作品を壊された彫刻家の心の痛みが、誰よりも分かるような気がした。
「もう一度、乾杯しようじゃないか!」
騎士がグラスを差し出す。
「何に乾杯するんだ?」
「俺は、失われた恋に」
友人の言葉を聞き、彫刻家は頷いてみせ、
「それじゃあ僕は、一世一代の大仕事に」
彼もグラスを差し出した。
「――乾杯!」
二つのグラスが触れ合い、涼しげで儚い音が鳴った。
***
成り上がった男(終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます