孤灯一穂

和山静香

孤灯一穂

「死んだ」

 目の前には、人のナリをした肉の塊。床は妙に光を反射している。私は、こんな輩の血でも光を反射するのか、となんだか小さな発見をした気持ちになった。

 手の中の包丁は、途中で得体のしれない色を纏っている。

 機械的にそれを放り捨てた。床ではねた包丁は、そのまま肉のそばに横たわる。少し残念に思った。

「逃げる」

 目的を達成したのだから、今すぐここを離れなければならない。捕まってはいけない。まだ捕まるわけにはいかない。

 しかし足が動かない。これがというわけではない。ただただ放心している。

 ぼんやりと肉を見つめる。

 当然のように、ソレは動かない。死んだのか、と改めて思った。同時に、どうして、とも思う。

「……さびしい」

 口から出た言葉は、頭の中でぐわんぐわんと反響する。

 寂しい。前は孤独でもなんとも思わなかったのに。今は耐えられない。一人でいたくない。あの日々がずっと続くものだと思っていた。

 思考の淵に身を乗り出したその時、右手を取られた。

 驚いて手に目を遣ると、誰かの手が私の手を包んでいた。振り返るれば男が立っている。

 ああ、なんだ、と肩の力を抜いた。

「道、わからなくなった?」

 問いかけに、一つ頷く。

 男は右腕を伸ばして、右の方角を指した。

「ホラ、光が見える。こっち」

 そうして歩き始めた。私は手を引かれるがままに後ろを歩く。

 男の言う「光」など、私の目には一切映らなかったけれど。

 男が言うことは、いつだって正しかったから。

 出口なんてなく、入口の明かりさえ届かない坑道の中。私はもうずっと、そこを彷徨っている。

 

 吐く息が白い。思っていたよりも時間がかかった。

 ギイギイと船が軋んでいる。

 右舷の落下防止柵に腰かけて、夜空を見上げる。

 今日、すべてを果たした。今日で終わったのだ。やはりいつもみたいに頭がぼうっとした。波の上下が手伝ってなおさらだ。

「終わった。……なにもない」

 誰も何も返してくれない。さっき船の同乗者は殺してしまったから、仕方がない。

 この広い海原で、たった独り。

「わっ」

 油断していた。

 視界が急降下する。手が滑り、気付けば海の中にいた。

 苦しい。寒い。何もできない。

 海水が呼吸器を侵す。藻掻こうにも、海水が冷たすぎて体がこわばって動かないし、服が水を吸って重い。まるで誰かが海底に引きずり込もうとしているようだ。

 ごぽ、と口から大きな気泡が解放される。自然とそれを目で追った。

 うすぼんやりとした月明かりが目に入って、満月だったのかと思い至る。

 そういえば、アイツはいつだったか言っていた。満月に願ったことはいつか叶うのだ、と。

 最期くらいなにか願ってやろうかと頭をよぎったが、やめた。願いは叶えたのだ。次に想うことは何もない。

 自嘲する。口に残っていた空気が海に溶けていく。

 目を閉じれば、完全な暗闇が訪れた。流れに逆らわず、身を任せる。

 沈んだら、どこへ行くのだろう。どうせなら、ポケットというポケットにこれでもかと石を詰めておけばよかった。誰の目にも留まらず死にたい。

 ハッとして目を開けた。月光を遮ってアイツがいた。私の手首を掴んで、アイツは確かにこう言った。

「ねえ、俺を置いてどこへ行こうと言うの」

 怒ったような、泣いているような声だった。


 薄っぺらい毛布にくるまって、床に寝る。

 背後に気配を感じたが無視をした。用があるなら話しかけてくるはずだから。

 案の定、アイツはしばらくして話しかけてきた。

「外が明るいよ。出てみない?」

 想定通りの内容だった。今は昼で、屋外だからといって寒く感じるほどではない。でも行く気はしない。

 たいしてずれてもいなかった毛布を肩に引き上げ直す。それを見た後ろのアイツがしゅんとする様子は容易く思い描けた。

 目を閉じていても、ボロ小屋の中が明るいとわかる。太陽から逃れるように積みあがった木箱の後ろにいるが、あまり意味はなかったようだ。

 私という人間が歩いていくには、あまりにも明るすぎる。

 アイツもそれをわかっているだろうに、どうして諦めないのか。

 諦めてくれれば、私はアイツの顔を見ることができる。アイツが諦めない限り、私はアイツの言うこと為すことに反応できない。だって反応すると、二言目にはきっと「俺のなんかのために」と言うから。

 私はそれを一番聞きたくない。復讐これはアイツのためではなく、私のためにやったことなのだから。

 早く諦めてよ。顔が思い出せないんだ。


 すぐそこで火が燃え盛っている。炎の音に交じって、不穏な音が至る所から聞こえてくる。

 体はもはや動きそうにない。たぶん足が潰されでもしたんだろう。痛覚がマヒしているからよくわからないけれど。

 ごうごう。バキバキ、と。

 衰えを知らない炎を見るともなしに見る。

 その内、バキンと一際大きな音が頭上からした。一拍後に大量の木材が落ちてくる。

 不意に、靴が視界に現れた。

 靴の持ち主を辿っていくと、やがて顔にたどり着く。いつものアイツだった。アイツは笑っていた。

「こんなに明るいなら、俺が手を引かなくても、もう迷わないね」

 笑っている。あの時と同じように、楽しそうな笑顔だ。

 ふと気が付いた。

 今初めて男の顔をはっきりと見たのだ。

 男は「アイツ」で、私の相棒の顔をしていた。私を孤独に耐えられなくさせた張本人にのくせにあっさり死にやがった相棒の顔。

 相棒は酷い死に様だった。顔が執拗に潰されていた。それは記憶の中の顔を綺麗に塗り替えてしまうほどだった。

 最悪なことに、顔を思い出せるものなんて何もなかったのだ。相棒は、写真を撮られるよりも撮るほうが好きだったから。

 顔が思い出せない、声が聞けない。そんな私が当てにしたのは、相棒の持ち物と電話の録音で。これらだけを頼りに、相棒の姿を必死に記憶にとどめてきた。

 再び相棒の顔に意識を向ける。

 しかし、相棒は去ろうとしていた。慌ててその手を掴む。相棒が尻もちをついたけど、気にしている場合ではなかった。

 言わなきゃ、また置いて行かれる。

「ねえ! 私を置いてどこへ行こうと言うの!」

 睨むように相棒の目を見返す。

 握った手に力を籠めた。二度と離したくない。アンタから欲しい言葉は「是」だけだ。

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