一般財団法人クリぼっち救済財団
山形在住郎
会計監査人と新人理事
「別れよう。」
たった一言でこの世から宇宙が一つ消滅します。幻想的な銀世界を手のひらの上に再現するスノードームは,短い冬の間情熱的な豪雪に見舞われたのち,忘れ去られ,いつの間にか日焼けしてセピア色の砂漠に変わり,お互いに見つめ合ってその小さな世界を手に取った者同士の感情のベクトルがすれ違うにせよ,衝突するにせよ,最後には粉々に割れて無残に溶け去ってしまいます。永遠に溶けない雪は存在しません。とっくに消え去った聖夜のヴァージンロードのようにひとつの愛があっけなく消え去りました。
「おかえりなさい,評議員会会計監査人。」
ああ...
また,ここに帰ってきてしまいました。
ここは恋山形駅1と1/2番線に秘匿された,選ばれしもののみがたどり着くことのできる聖域,一般財団法人クリぼっち救済財団事務所です。構成員は日々変動するので把握できませんが,8桁に達しているのですよ。
ん...ぐすっ...
ご,ごめんなさい。
一般財団法人クリぼっち...救済財団,英語名でアナッタカゥワイソウジェネラルインコーポレイテドファゥンデイションといいます。財団の構成員は生誕...交際... ...破局...によって自動で更新されます。あ,こちらが当財団法人の定款になりますので,もしご興味があれば,あっ,そうですよね。申し訳ございません。
私は当法人の評議会会計監査人を務めさせて頂いております。名前ですか,名前は,禁則事項ですのでお答えできません。
理事,監査人は全国の非モ...評議員から選出されます。任期は努力次第で変動します。ですが理事になった方は任期を全うされる方が多いですね。私は...昨年12/24日に評議員に再任され,25日付で会計監査人に任命されました。
さて,新たに理事に任命されたあなたの職務は,マニュアルに記載されている通り2つに大別されます。一つは,こほん,「元気出せって,今度奢ってやるから」に代表される腐れ縁の親友において定められた慰撫(イヴ)行為の実行と普及・啓蒙活動になります。
...ハンカチありがとうございます。私たちは恋愛によって幸福なるもう一つの宇宙を創造します。その小さくも強い力を秘めた球は二つの球の激しい衝突によって生じた塵から成りますから,遠目に見れば柔らかくひかって美しいですが,その実ただの岩と氷の塊です。そのうわべだけの玉などいくら損なわれても一向に,問題ありませんが,私たちが持ち合わせる真に美しい宇宙をこそ傷つけさせることは決して許してはなりません。
もう一つはクリスマス前後の労働になります。12/24日,すなわちクリスマスの夜から翌日にかけて,評議員は通常業務を離れ不足する労働力を補うために全国津々浦々で労働に従事するのです。みぞれで薄汚れた道を歩きながら学業や労働に勤しむ者たちの背中の美しさは,当法人が最も高い価値を認めるものです。
あなたは,これから理事としてこれらの過酷な任務にあたり,己の犠牲を顧みず周囲の評議員を救う義務を課されることになります。きっと,これまで以上の孤独とむなしさを覚えることでしょう。ですが安心してください。全国には数多くの仲間が存在します。私たちの同胞の目印は,「片手だけコートのポケットに手を突っ込んでいる」ことです。これは,「独り寒さに震える者の手を取る準備はいつでもできている」ことを示す評議会役員共通のジェスチャーです。さあ,あなたもやってみてください。
手袋がないと,やはり手が冷たいですね...あ,理事は持っていましたか。さすがですね。ここはたしかに私たちの事務所ですが,表は無人駅ですから,暖房もありません。毎年十二月下旬になると評議員,非評議員問わず多くの人の訪れる場所ですので多少暖かくなりますが,今は誰もいませんね。評議員たちは退任するために最後の追い込みをかけているのでしょう。
私ですか。私は...今は考えていません。責任ある地位についていますし,とても,充実していますから。
そう答えて深くついたため息は,雪となって天に降り注ぎます。美しい白銀の世界は,一年と持ちませんでした。いや,その前から,雪は踏み固められて鼠色になっていたのでしょう。会計事務所に勤務する私は,恋人との時間を取れませんでした。あの日,私は12月末決算の事業主への対応に追われていました。わかってくれると,そう思っていました。そう信じたかった。しかし,既に雪が固着し機能しなくなった私たちのスノーボールは,融解を待つのみだったのです。
クリスマスのご予定は?...そうですか。大変ですね。私もきっと当日は去年と同じように...。
「お先に失礼。よい聖夜を。」
あ,理事長,お疲れ様です。よい聖夜を。まだここから帰る方法をお伝えしていませんでしたね。この1と1/2番線ホームには評議員の運転する全国各路線の電車が停まります。あの電車は,横須賀線ですね。乗りますか?...そうですか。
駅のホームは,出会いと別れの場所ですから,従たる事務所が数多く置かれています。私が初めてここに来たときは,それは荒れていましたね。...私が。
失恋はよく,世界が色彩を失うだの,心にぽっかりと穴があくだのと表現されますが,いざ自分が体験してみるとそんなにさっぱりとした表現はできません。もっと有機的な反応が起こります。自己批判,自己防衛,自己矛盾。あとに残るのはぐちょぐちょしたみぞれのような嫌悪感と,固着した氷のような正当化された記憶です。この汚れは簡単にはとれません。
涙を流しながら最終電車に乗り込んで,気付いた時には桃色の駅舎にたどり着いていました。理事長に,ようこそ,と迎えられたとき私は思わず悪態をついてしまって,いい歳の大人が恥ずかしい。でも仕方ありませんよね!当日ですよ,振られたばかりのときに,ようこそくりぼっち救済財団へなんて言われた日には!...
電車,来ませんね。案内と引き継ぎは終わったので,もう電車が来てもいいころなのですが...。...いえ。なんでもありませんよ。
雪が,振ってきましたね...。今年もホワイトクリスマスになるかもしれない。
ふふ,確かに,準備はできていますね。まったく。
そうだ,実は,クリスマス勤務の翌日,年末の第九コンサートに行くのですが,もちろん独りで行くつもりで,でも,チケットは...
電車がやってきます。白銀のボディに山吹色のラインが映える,私の通勤電車。ちらちらと降る雪をかき分けて目の前に停まる。暖かい電車に乗り込み,席についてふと車窓から駅舎を見やると,
「まぁ元気だせって。」
「失礼な。本日付で君を解任する。とっとと行きなさい。」
うっすらと雪が積もる恋山形駅を後にします。理事長はコートのポケットに右手だけを入れて私たちを乗せた電車を見送るのです。
「当法人は,一般財団法人クリぼっち救済財団と称し,英文では Ann at the Cow why Sow General Incorporated Foundation と表示する。その理念は,見返りを求めない愛である。」
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