第29話 婚約破棄③


「私との縁談が纏まったとしても、クロード殿下に得があるとは思えないのですが」


 アレック殿下が信じられないくらい上から目線なので、パトリシアは頭が混乱してきた。それでつい、そんなことを口にしていた。


「ああ、パトリシアがそう思うのも無理はない。実はだな――君の嫁入りに際し、我が国は、ダウリング荘園を持参財として持たせるつもりなのだ」


「ダウリング荘園――」


 ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。パトリシアをこの国から出すために、あの肥沃な土地を渡してしまうのか? そのくらいのものを持たせないと、第四王子が受けてくださらないと踏んでのことだろう。しかしとんでもないことだ。よりによってダウリング荘園とは。どう考えても、パトリシアにそれだけの価値はない。


 ぞっとした。


 グレース王太后殿下はどうしてしまったのだろう? パトリシアに肩入れしすぎて、とんでもない間違いを犯そうとしているのでは? どうしてアレック殿下は国益の観点から、この決定に異を唱えないの?


 しかしアレック殿下は能天気なものだった。


「ダウリング荘園はかんがい農業を行っていないので、当国からすると邪道ではあるが、第四王子からすると、飛び上がるほど嬉しい贈りものだったようだね。土地が手に入って、鼻高々なのだろうな。きっとクロード殿下は、実父である国王陛下からも軽く見られていて、価値のあるものを何も与えられてこなかったのではないか? 不出来で、不細工な王子では、可愛がられようもないのだろうけれど」


 聞くにたえない。いい加減に悪口をやめて欲しくて、


「ですがアレック殿下は、クロード殿下のことをご存知ないのですよね?」


 と言ってみたのだが意味はなかった。たぶんアレック殿下はクロード殿下のことを、心の底から馬鹿にしているのだろう。本気でクロード殿下を憐れんでいる様子である。


「会ったことも見たこともないが、大体状況は分かるよ。今回の先方の対応を見れば、ね。この縁談に飛びついて、野良犬のようながっつき具合じゃないか? ――とにかく地味な男らしいからね――ああ、それは確かだよ。というのもね、アストリュック国の王族は皆、美形で有名なのだが、不思議なことに、クロード殿下だけは噂がほとんど流れてこないのだよ。ほかの王子は有名で、私も名前や評判は耳にしたことがあるのだが、第四王子だけはパッとしないんだよね。私が唯一聞いた噂は、ほかの王子とは違って、目立たないということだけ。それはつまり、容姿が優れないから、語るべき点がないということさ。そしてオツムのほうもあまり優秀ではないということだろう。――パトリシア、くれぐれも期待しないようにな。私と比べるようなことをして、がっかりしたからと、いつものように態度に出しすぎると失礼に当たってしまうから……」


 発言のどこもかしこも問題だらけなので、パトリシアは話をほとんど聞き流していた。


 今日告げられたことの中で重要なのは、『国を出られる』『アレック殿下との縁が切れる』、この二点のみだろう。


 どちらも昨日までの自分がまるで予想もしていなかったことだ。


 婚約破棄されたあとも、てっきりこの国に残るものと思い込んでいた。そうなってくると、どうしても聖泉礼拝がついて回るような予感がして、気が重くて仕方なかった。問題が起こったら、バックアップ要員として、いずれ引き戻されるのではないかと。――しかし隣国に出てしまうなら、さすがにその心配はしなくてよいだろう。


 ロザリーは優秀なようだから、上手いことこなすのだろうし。


 パトリシアはこのところすっかり自己肯定感が低くなっていたので、本心から、ロザリーがやったほうが、きっとそれが国のためになるのだと考えるようになっていた。だから変にこちらを巻き込まないで欲しい、とそれだけを願うのだった。


 とにかくこれで最悪の事態は免れたようだ。パトリシアは喜びに胸を震わせていた。――娼婦として一日に百人客を取れと申しつけられたら、自由が許されているうちに太い枝でも探して、首を括るようかなと考えていたのだ。太い枝を探す必要がなくなっただけで、とても嬉しかった。


 それに美形一族の中で、ほかとは違うという評判のクロード殿下に、なんだかホッとしている自分もいた。あまりに派手派手しい方だと、気後れしてしまいそうだから……。


 ――とはいえまぁ、喜ぶのは時期尚早というやつで、次の婚約者だというクロード殿下の人柄に問題がある場合、この先も苦労ばかりの人生になるのかもしれない。けれど今はそれを心配すべき時ではなかった。本人にお会いしてもいないうちから、ああだこうだと考えても、無駄なことだから。


 そして結局のところ、パトリシアはグレース王太后殿下のことを信頼していたのだろう。『もう会わない』と告げられても、それでも真摯に向き合ってきた過去が消えてなくなるわけではない。王太后殿下が進めた話ならば、そうひどいことにはならないのではないかと、前向きに捉えることができたのかもしれない。


 気が緩んだパトリシアは口元に淡い笑みを浮かべていた。これまでの緊張がひどかったぶん、緩んだ反動も激しかった。


 けれどこれはあまりよろしくない態度である。『アレック殿下と良い形で婚約破棄できて、ホッとしました。嬉しいです』と言わんばかりに、あからさまに笑みを浮かべてみせるのは、失礼に当たるだろう。


 それでパトリシアは『いけないわ』と自らに注意しなければならなかった。パトリシアはずっと正直であることを求められてきた立場だが、だからといってそれが、『あなたを嫌悪しています』というのを無駄にアピールしてよい理由になるわけではない。他者に悪意を向けるのは、単に衝動を抑えられなかった結果であるから、それは正直さの表れとはまた別のものである。


 パトリシアは自らの惨めな現状を思い出し、『追い出される身の上なのだから、それらしい振舞いをしなければ』と頭の中で繰り返すことで、やっと気の緩みを正すことができた。


 それでも頭の隅のほうはまだなんだかポワポワしている。端から見ても平素との違いは顕著であり、パトリシアらしからぬ隙ができてしまっていた。


 パトリシアは柔らかな視線でアレック殿下を見上げ、彼が語る今後の流れや細かい指示を傾聴し、小さく頷きながら同意を示した。


 ――アレックは、ある段階からパトリシアの空気がふわりと緩んだので、内心では激しく動揺していた。


 話の途中までは彼女はひどく緊張していたし、怪訝な目つきでこちらを見つめ返していたのに。それはアレックがよく知る、いつものかたくななパトリシアだった。


 ところがそれが百八十度変わった。


 アレックはパトリシアから、このように物柔らかな視線を送られたことが、これまでに一度もなかった。


 互いに十四歳で婚約が決まり、当初アレックはパトリシアの人柄について『とても朗らかなご令嬢です』と聞いていた。アレックは深刻な空気になるのが嫌いで、いつも楽しくしていたい性分であったから、それは嬉しい知らせだった。


 早く会いたいと楽しみにしていたのに、グレース王太后殿下の意向で、顔合わせは三月も先に設定されてしまう。――グレース王太后殿下曰く、『パトリシアには聖泉礼拝を先に習得させます。会うのは、彼女が仕上がってからに。そうすれば落差が少なくて済むでしょうから』とのことだった。


 そうして三月後顔を会わせたパトリシアは、事前情報とはまるで違っていた。彼女は笑わない陰気な少女という印象だった。これにアレックはひどくがっかりした記憶がある。それからずっとパトリシアはパトリシアのままだった。冗談一つ言わず、いつも静かで、一緒にいてもちっとも楽しくない。


 それが――どうして? なぜ、このタイミングで?


 パトリシアが優しく微笑んでいるのを初めて見た。五年のつき合いになるのに、これが初めてのことだ!


 まるで冬の終わりを告げられたかのような心地だった。陽光が雪を溶かし、その下から、花の蕾が顔を出していることに気づいたような。


 動揺しながらもアレックは話し続けた。ほとんど上の空であったが……。


 彼女は微笑んだことを恥じたのか、慌てて佇まいを正していた。けれどその後もふわりと緩んだ気配はそのままだった。肯定的に頷きながらアレックの話を聞いてくれて、彼女が可愛らしい顔でこちらを見ているのだ。アレックが平静でいられるはずもない。胸はざわざわと騒ぎっぱなしだった。


 さすがに話すことも尽きて終わりを告げると、パトリシアは従順に礼をして部屋から出て行った。


 騎士のマックスが近寄って来る。


 彼はパトリシアの背中側にいたので、彼女の朗らかな顔は見えていないはずである。マックスがアレックの異変に気づいたらしく、問うように見上げてくるのだが、上手く説明することができなかった。


 アレックはパトリシアが出て行った出口のほうに視線を遣り、しばしぼんやりと閉じた扉を眺めていた。


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