第36話 無知は罪である

 いつものようにゆったりとした時間は流れた。


 その時間の終わりを告げるように他の侍女たちがシルヴィアーナ様のお部屋に入室してきたとき、その手にはアネモネのお花が添えられており、先日世に出た『王宮ロマンス革命 〜歌唄いの薬箱〜』で過去を思い出すきっかけとして登場させたキーワードだっただけに心拍数が一気に跳ね上がったものだけど、無言のシルヴィアーナ様の手がそっとそれに触れたとき、心のなかでありがとうございます、と呟いていた。


 交代の時間がやってきたのだ。


 手に持つレディ・カモミールの手記を肩からさげたサコッシュにしまい、あとのことは他の侍女たちにお願いをしてシルヴィアーナ様のお部屋を出たわたしはそのまま執務室に向かい、シーツや布が詰め込まれるように置かれているかごを取り、外へ向かった。


 こんなにも良い日なのだ。


 洗濯のしがいがある。


 あまり使用人を置いていないシルヴィアーナ様の別邸では侍女たちが様々な業務を行っている。わたしもそのうちのひとりで、ここ数年、本当にいろいろなことができるようになった。


 お天気の良い日はこうして外へ行く。


 おひさまの光を盛大に浴びたふかふかのベッドで眠るのは本当に幸せなことだろう。


 途中でまんまるの石鹸バブルボールを数個、ポケットに入れ、足早に表に向かう。


 心なしか、足が弾む。


(ふふん♪)


 ほんの少し、ほんの少しだけど、シルヴィアーナ様の口角が上がった気がしたのだ。


 わたしの見間違いかもしれないけど、わたしがつらつらと自分の夢を語りだしたとき、ほんの少しだけ。


 それがとても嬉しくて、今にもお空に向かって飛んでいってしまいそうな心境になった。


 しかし、そんな平穏はすぐにぶちこわされることになる。


「術師が全員帰還したぞ!」


「行くぞっ!」


「続けぇぇええ!」


 けたたましい声が聞こえ、それに合わせるように怒涛の声が響く。


 な、何事なのかと振り返るものの、ここではなにが起こっているのかさっぱりわからない。


(やっぱり、何かあったんだ……)


 先ほどの違和感は間違いなかったのだ。


 見に行こうかという好奇心はあったのだけど、すぐにわたしは考え直す。


 何かあったら今言われた術師のみなさんや近衛団のみなさんがなんとかしてくれる。


 いち使用人であるわたしには関係のないお話なのだ。


 知ったところで何もできないのだし……


(違う)


 思いかけて、ふと顔をあげる。


(それは違う)


 最前線ではできないことばかりだけど、わたしにもできることはある。


 ふと脳裏にその言葉がよぎったときには無我夢中で走り出していた。


 勝手に持ち場を離れて!ときっとまたメリルさんに怒られてしまうんだろうな、と思ったんだけど、謎の正義感のほうが勝っていた。


 無知は罪である。


 知らなかったでは済まされないことが世の中にはたくさんある。


 わたしはそれをよく知っている。


 今では目を瞑ってきたことばかりだったけど、レディ・カモミールとして文章を書くことで様々な世界を見てきたのだ。


 この騒ぎ具合はただごとではない。


 本能がそう察していて、わたしのこういった勘はよく当たる。


(行かなきゃ……)


 シルヴィアーナ様の別邸にすべての情報が届くのはずいぶん遅れることが多い。


 ただごとではない。


 それだけに何かあってからでは遅いのだ。


 今、シルヴィアーナ様のおそばには他の侍女たちがいてくれる。


 だからこそ、この時間を自由に動くことができるのはわたしだけ。


 わたしにできることがあるのなら今しかないのだ。


 わたしは……無知ではいけないのだ。


 お守りしなくてはならない方がいるのだから。


 いつまでも受け身ではいられないのだ。


 知る必要のあることをこの目で確かめるため、わたしは相変わらずなかなか進まない足を引きずって、声のする方へ向かった。




 


 

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