忌み仏 9
「電話で聞いた住所だと……ここだね」
昼を少し過ぎた頃、二人は永徳寺に到着した。
静寂に包まれた境内は、隅々まで手入れが行き届いている。
落ち葉や雑草の類はほとんど見受けられず、手水舎に置かれた水は澄み切っており、柄杓は綺麗に並べられている。
いつ頃に建立されたものかは分からないが、拝殿は相当に年季が入っており木造の壁には黒いシミがいくつもできており、柱の根元にはうっすらと緑色の苔が生えていた。
訪れる者がほとんどいないだろうというのが、敷地に足を踏み入れた時点で何となく理解できる。
それほどまでに静かで、人の気配がしない場所だ。
境内を覆う竹林の間を風が吹き抜け、波の音に似た耳触りの良い音が鼓膜をなでる。
「待ち合わせの時間まで少しある、僕は少し歩いてくるよ」
義時は石造りのベンチに腰掛けた廻に声をかけたが、彼からの返事は無い。
運転と女のせいで疲れ果てた彼は、軽く手を上げて応えるのが精一杯らしく、手を上げて応えた後はぐったりとした様子でうなだれていた。
義時は一人で境内を散策する、静かで涼やかな空気は心地よく彼を包む。
これといって興味を引くものはない、特別見る価値があるものもない。だがそれで良かった、彼にとってはそれが良かった。
物に溢れた騒々しい世間から切り離され、時間も何もかも止まったような空気の流れるこの場所は、ひどく居心地が良い。
義時は歩きながら、黒い仏像と泣く女の事を考えていた。
なぜ自分には廻が見た女が見えないのか、逆になぜ彼は女を見てしまったのか。
全く見当がついていないわけでは無い、だがそれを明確に言葉にしたとしても今は何の役にも立たないだろうと彼は考えていた。
ややうつむき気味で歩く彼は、ふと足を止めた。
境内からやや離れた場所にある木の切り株が目に入ったのだ、炎に焼かれたように黒くなった古い古い切り株。
それを見た彼は、なぜか胸の奥を冷たく細い指でなぞられたような感覚に襲われた。
恐怖やそういった感情では無い、どちらかと言えば物悲しいような、夏の夕暮れに一人立つような感覚だった。
立ち止まっていた彼の耳に、地面を蹴る音が響く。
音の方を見ると、廻がやや小走り気味に義時の方へ走って来ていた。
万全ではない状態で走ったからか、義時の前で立ち止まった彼はぜえぜえと息を切らしていた。
「何かあったのかい?」
「住職さん、来たぜ。向こうで待ってる」
「分かった、すぐ行くよ」
それだけ答えると、義時は廻の後ろを静かに付いていった。
彼はちらりと切り株の方を振り返る、やはり切り株はどこか寂し気に二人を見送っていた。
「どうぞ楽にしてください」
作務衣を着た老人は、二人の前にお茶を置いた。
それだけではない、あまり食品の銘柄に詳しくない二人でさえ分かる有名な老舗和菓子店の箱を老人は持ってきた、
「あ、どうぞお構いなく」
「いえいえ、お気にならず。どうせ一人では食べきれませんから」
老人は先日電話で話したままの優しい声でそう言うと、二人の前に菓子を差し出した。
老人の名は
白髪頭で黒縁の眼鏡をかけており、年は七十代半ばという事らしいが、肌は瑞々しく老人とは思えないほどの活力に満ちている。
また彼の柔和な態度や、絹糸のような触りの良い声は非常に好ましいもので、初対面ではあるが彼に対する二人の評価は非常に高かった。
彼は正確には永徳寺の住職ではない、永徳寺は元々は青野家という一族が管理していたが跡継ぎがおらず親類縁者も管理に名乗り出なかったため、隣に住んでいた吉沢家を筆頭に地域ぐるみで管理する事となった。
永徳寺は檀家を持たない祈祷寺で、学問や家内安全といったご利益があるとされており、その事からも地域にはかなり深く根付いているため、住民たちはかなり永徳寺の管理については前向きらしく、永徳寺は荒れ果てる事無くその姿を保ち続けている。
「それで本日のご用件というのが……」
「電話でお話しした通り、安曇野怪奇譚の燃える女という話と仏像の関係性についてです」
廻は机の上に仏像の入った箱を置き、蓋を開けて一に仏像を見せた。
改めて見てもやはり仏像は薄気味が悪く、廻は正直触りたくも無かった。そんな仏像を一はあろう事か手に持ち、顔に近づけてまじまじと眺めはじめた。
その姿に驚いた廻は、思わずやめた方がいいという言葉が喉にまで出かかった。だがあまりにも真剣に仏像を見る姿に、彼はそれを口にする事なく静かに飲み込んだ。
「……ふむ」
一つため息を吐き、一は仏像を静かに机に置いた。
「どうですか? 何か分かりました?」
「恐らくですが……これは以前永徳寺に納められていたものでしょう。これと似た物を寺の管理簿で見ましたから」
「というと?」
「こちらです」
一は二人の前に、一冊の本を置いた。
その本が相当昔からあるものだという事は、すぐに分かった。
茶色く変色した表紙、現代のものとは違う漢字、それだけでその本がこの場にいる誰よりも長くこの世界に存在していたという事が分かる。
表紙には『永徳寺宝物図』と記されていた。
「お二人から電話を頂いて、私の方でも調べてみたんです。恐らくはこれではないかと」
一が開いたページには、墨のようなもので黒い仏像が描かれていた。
確かに彼の言う通り、見比べてみるとほんの少し微妙な違い以外はほとんどが三人の前にある仏像と特徴が合致する。
「これだ! 間違いないですよ! この仏像は元々永徳寺にあったんだ!」
やや興奮気味に声を跳ねらせた廻を他所に、義時は至って冷静に目の前の事実を受け入れていた。
目の前にある黒い仏像が、永徳寺の所有物だった事はもう間違えようのない事実だ。だが彼らが、というよりも義時が欲しいのはその先の話だった。
「吉沢さん、あなたはこの仏像と燃える女の話の関係を何か知っていますね?」
彼の悪気無く責め立てるような口調に押され、一は少し小さくなったように見える。そのまま自身の頭の中で、二人に話す内容を整理しているのを見るに、彼はあくまで仏像と女の話を知っているだけだというのはおおよそ見当がついた。
「私も詳しく知っているわけではないのですが……お二人は永徳寺の敷地内にある切り株を見ましたか?」
「切り株? いえ……俺は見てないです」
「僕は見ました、あの境内から少し奥まった所にある焼けた切り株ですよね?」
「ええ、それです。この仏像は、あそこにあった木を材料に造られたのだと言われています」
そこまで言って、少し暗くなった彼の顔を見た義時は待ってましたとばかりににやりと笑う。
「そしてその木には、何かよろしくない謂れがある……とか?」
「ええ、実は……」
そうして一が語り出したのは、ある一人の女性の悲劇についてだった。
明治の初め頃この辺りに、とよという女性が住んでいた。
彼女は貧しかったが、心根の優しい女性で周囲から好かれるような人柄だったという。
そんなある時、とよはひょんな事から華族の青年と知り合い二人は恋に落ちた。
だが二人の身分はあまりに違いすぎる、当時の価値観の中では二人を手放しで祝福する人間はほとんどいなかった。
周囲からの激しい反発、だが愛し合った若い二人は止まらなかった。
このままでは一緒にいる事はできない、そう考えた二人はお互いに家族も家柄も捨てての駆け落ちを企てた。
待ち合わせ時刻は草木も眠る丑三つ時、集合場所は永徳寺にあった大きな檜の木の下。
家を抜け出し、駆け出した青年はこれから訪れるであろう愛しい人との生活に心を弾ませていた。
だが二人が出会う事は二度と無かった。
永徳寺にやってきた青年が見たのは、炎に包まれ燃え落ちていく檜とその根元で鼓膜を引っかくような声を上げながら炎に包まれている、とよの姿だった。
騒ぎを聞き付け近隣の住人たちが続々と集まって来る、そしてその場に居合わせた全員が理解してしまった。
とよはもう無理だ、と。
それでも青年は炎の中に飛び込もうとしたが、それを周りの人間たちが必死で押さえつける。
泣き叫ぶ青年の前で、とよは燃える影のようになりながら、すがりつくように木によりそいそのまま焼け焦げていった。
その後、住人たちの消火活動により火は消し止められたが檜は焼け焦げ、根元のとよはほとんど炭になってしまっていたという。
後に火の原因は、青年の婚約者の仕業である事が判明した。
駆け落ちの話を聞いた彼女は、とよを少し脅かす程度の気持ちで木の下にいた彼女の周りに火を放ったらしい。
だが火の勢いは彼女の想像を超え、木ととよを焼き尽くしてしまった。
それ以来、とよの死んだ丑三つ時近くなるとすすり泣く女が木の焼け跡に現れるという話が立ち始めた。
「そしてそんな彼女を慰めるために、誰かは分かりませんが焼け焦げた檜の木を使って、この仏像を造ったのではと言われています」
「製作者は不明なんですか?」
「焼けた木がいつ倒れるか分からず危険だったため、当時の住人たちは檜の木を切り倒したそうです。一日か、二日か置いている間にその一部を持ち去った者がいたらしいのです。物好きな人間もいるなと、話をしていた頃にいつの間にか拝殿にぽつんと置かれていたそうです」
これではっきりとした、廻が見た女は悲劇の死を遂げたとよに違いない。
確かにそれだけの事があれば、夜な夜なすすり泣いてもおかしくはないだろう。
「それからは永徳寺に保管されていたようですが、泥棒に盗まれたのかある日忽然と姿を消してしまったのです。まさかこんな形で戻って来るとは……」
廻は、少しばかり肩の力が抜けたよう気がした。
焼かれて惨い苦しみを味わいながら死んでいったとよの無念、それを最期に受け止めた木を材料に造られた黒い仏像。
それらの事実を知った事で、彼の中にあった恐怖は若干ではあるが薄まった。
その時になって彼はようやく、義時が言っていた言葉を理解できたような気がした。
「どうしたんだい廻、そんなに難しい顔をしてさ」
「いや……何だろうな、なんか気の毒だなって思ってよ」
過去を知った彼が抱いたのは、とよに対する同情の心だった。
その言葉を聞き、一はにこりと優しく笑う。
「あなたは、とても優しい方なのですね」
「いえそんな事は……」
「いいえ、そう謙遜なさらず。どうかその心持を忘れるないでくださいね」
廻は少し照れながら、浅く頭を下げた。
彼の目に映る仏像は、以前のような不気味悪さが薄れているような気がした。
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