第4話
夜のうちに不足している材料がないかをチェックして、足りない材料を買い揃えておく。そして久しぶりに祖父のレシピノートを開いた。二人が朝食で食べる分量を計算して、手順を一つひとつ思い出していく。祖父が亡くなってからはじめて作るパンだった。
翌朝、いつもよりかなり早く起きる。制服はパン屋で働いていた頃の作業着に近い組み合わせにした。元々オシャレなカフェ店員っぽい雰囲気の制服だったので、自然とパンを焼くのだという意識が高まっていった。今日作ろうと思っているのは祖父から合格をもらっていたパンだ。
材料を計り、生地を捏ね、時間を測って熟成を待つ。そうしていると行方不明だった『やる気』がやっと帰ってきたような感覚がした。
熟成を待つ時間に掃除や洗濯を進めるとかなり効率よく朝の時間が使える。こうすれば日中、お嬢様が学校に行っている間の時間をかなり自由に使えるようになりそうだ。
お嬢様を起こして髪を梳かし、お嬢様がご自身で身支度を整えている間にサラダやオムレツ、飲み物を準備する。そして、焼きあがったばかりのパンを皿にのせてテーブルに置くと、ぴったりのタイミングでお嬢様が席に着いた。
お嬢様は上品な仕草で、まだ熱いパンに手を伸ばして小さくちぎると口に入れた。私はその様子を立ったままじっと見つめている。
「まずい。下手くそ」
それが久々に作ったパンへのお嬢様の評価がそれだった。ガッカリしながらそのパンを下げようとすると、お嬢様はスッとパンの乗った皿を引いた。
「食べないとは言ってないじゃない」
そして表情を変えることなく続けた。
「これからも毎朝パンを焼くのよ」
「えっと、もう少し練習して上手く焼けるようになってから……」
「そんなことを言ってたら、一生上手くならないでしょう。いいから毎日パンを焼きなさい」
そう言われて私は反論することができず、その日から毎日パンを焼いている。お蔭で「まずい」から「おいしいとは言えない」程度まで評価は上がっていた。
かなりうまくパンが焼けるようになっていたけれど、まだ祖父の味には届かなかった。
移動販売の常連だった由華子さんなら、今の私のパンを食べて何が足りないのか的確に指摘してくれるかもしれない。
そういえば祖父が倒れた日以降、爽さんと由華子さんに会っていない。今でも仲良くパンを分け合って食べているのだろうか。いや、もう分け合う必要はなくなっているだろう。それでもあの頃と同じように一緒にいてくれたら良いなと思う。
「何をニヤニヤしてるの? 気持ち悪い」
隣を歩いていたお嬢様が少し私を見降ろして言う。出会った頃は私よりも背が低かったお嬢様は、すくすくと成長して今では私より少し背が高くなっている。
「少し昔のことを思い出していたんです」
「そうやってニヤニヤするのは頭が悪く見えるから止めてもらえる? 私の品位まで疑われるじゃない」
「はい。すみません」
私が謝罪した次の瞬間には、お嬢様は軽く笑みを浮かべた清楚な表情に変わる。これは私に向けたものではない。学校が近づいてきたため、よそいきの表情をまとっているだけだ。
清楚で品がよく優秀で誰からも好かれるお嬢様が一瞬にして出来上がる。
お金持ちで何の不自由もない暮らしができるお嬢様のことを、最初のころはうらやましいと思っていたけれど、そう感じたのはほんのわずかな期間だった。家から一歩外出れば常に人目を気にして気を張っていなくてはいけないお嬢様が気の毒にも感じた。
校門の前まで来て私は足を止める。
「いってらっしゃいませ」
私は深々と頭を下げてお嬢様を見送る。
「ありがとう、いってきます」
お嬢様はよそいきの笑顔と言葉で私をねぎらって玄関へと歩いて行った。玄関の中に入り、お嬢様の姿が見えなくなるまで見送って、私は踵を返す。
今日は帰ったらもう一度パンを焼こう。三年近く毎朝パンを焼いて、まだ一度もお嬢様から「おいしい」と言われていない。
祖父の味を再現できているとは思えないけれど、私自身が祖父の味を美化しすぎている可能性もある。だから今の目標はお嬢様に「おいしい」と言わせることになっていた。
食材は揃っていたので真っすぐに家に帰り、パンを作りはじめた。レシピはすっかり頭に入っていたけれど祖父のノートを開いてもう一度じっくりと読む。
何かが欠けているから祖父の味に及ばない。それはきっとレシピには書けない何かなのだ。
今日は空気が乾いている。少し水分を多めにしてみよう。それから少し長めに熟成させることにした。
いつもより少し時間をかけて作ってみたけれど、昼前にはこんがりとパンが焼きあがる。
焼きあがったばかりのパンを頬張った。おいしいと思う。おいしいと思うのだけど、やっぱり何かが足りない。
焼きあがったパンをカゴに入れてキッチンの端に置いておく。
お嬢様へのパン作りをはじめてから、パン教室にも通って基礎を覚え直した。一通りのことはできるようになっているはずなのにどうしてうまく行かないのだろう。
ソファーに座り一息ついていると電話が鳴った。
電話の主はお嬢様の実家の使用人だった。今日の夜、実家主催のパーティーが催されるから、学校が終わった頃に迎えをよこすとの連絡だった。
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