第2話

― 七年前 ―


「いらっしゃいませ、こんにちは!」

 私は荷台を開いたボックスタイプの車の前に立って、見知った二人連れに挨拶をした。

「おつかれさま。寒くなってきたね」

 ビシッとスーツを着た女性は人懐っこい笑みを浮かべつつ言うと車の荷台を覗き込む。

 すぐあとからやって来たオフィスカジュアルの女性も「こんにちは。今日は何にしようかなぁ」と言いながら荷台を覗き込む。

 二人は私が販売しているパンを毎日のように買いに来てくれる常連さんだ。二人が覗き込んでいる車の荷台にはいっぱいのパンが積んである。

 私は少し前に会社を辞めてパンの移動販売をはじめた。売っているパンはすべて祖父が焼いたものだ。

 私の両親は離婚をして私の育児を放棄した。そんな私を引き取って育ててくれたのが母方の祖父だった。

 幼い頃は両親がいないことが寂しいと思っていたし、食事のほとんどが祖父の焼いたパンの売れ残りだったのが嫌だった。

 祖母は私が赤ん坊の頃に亡くなったそうで写真でしか顔を知らない。男手ひとつ、しかも高齢の祖父が女の私を育てるのは苦労があっただろう。

 そのことは十分に理解していたし、祖父にも感謝していた。だけど私は大学を卒業して家を出ることを選んだ。

 朝早くからパンを焼き、一日中働いてもたいした売上にはならない。そんな祖父の後ろ姿を見ていて、パン屋を継ぎたいなんて思えなかった。

 無事に大学を卒業して、就職もできたけれど働き続けているうちに私の心はすり減っていた。忙しさで我を忘れ、人間関係で戸惑い、私は疲弊しきっていた。

 休みの日、私は思い立って久々に祖父の家に立ち寄った。

 香ばしく焼けたパンの匂いが懐かしかった。そして久しぶりに食べた祖父のパンの味は、この世のものと思えないくらいおいしかった。

 食べ慣れた味だったからとか、心が疲れていたからという理由もあったと思う。けれどそれを差し引いても祖父のパンはおいしいと思った。

 その日から、時間を見付けては色々なパン屋のパンを食べ歩いた。それでも祖父のパンよりもおいしいと思えるものはなかった。

 それほどおいしいのに祖父のパンは売れない。祖父のパン屋は古ぼけた佇まいでおいしいパンを売っているようには見えない。改装すれば幾分かましになるかもしれないが、高齢の祖父が借金をしてまで改装することは難しい。私にも改装費用を出せるほどの貯金はない。

 だから私は会社を辞めた。

 朝は祖父の手伝いをしながら祖父の味を引き継ぐためにパン作りの修行をして、日中は祖父のパンを車に積んで売り歩く。

 会社員をしていた頃より体力は消耗するけれど、心は穏やかで充実した毎日が送れるようになっていた。

 パン作りの修行はまだまだ時間がかかりそうだったけれど、移動販売は常連さんも増えてきて徐々に売上が伸びて来ていた。

「由華子(ゆかこ)、今日はどれにする?」

「んー、そうだなぁ。今日はコロッケパンの気分だけど……」

 私とさほど変わらない年齢であろう二人は真剣な表情で語り合いながらパンを物色している。微笑ましい二人の姿を見ているとるついつい頬が緩んでしまう。

「じゃあコロッケパンにしよう。すみません、コロッケパンをひとつ」

「爽(さわ)もコロッケパンでいいの?」

「うん」

 爽さんは小銭入れからパンの代金を取り出して私に差し出す。

「いつもありがとうございます」

 私は代金を受け取って爽さんお手にコロッケパンを乗せた。

「いつもちょっとしか買えなくてごめんなさい」

 爽さんはパンを受けとりながら申し訳なさそうな顔で言う。

「いえいえ、そんなことありません。いつも来てくださってうれしいです」

 私の言葉に笑顔を浮かべた爽さんは、早速パンの袋を開けて半分にちぎる。

「はい、由華子」

 由華子さんはパンを受け取ってひとくちかじると、幸せそうな笑みを浮かべた。その顔は最高の賛辞だ。

 二人はいつも一つのパンを分け合って食べている。そして爽さんはいつも大きい方のパンを由華子さんに渡していた。

 爽さんは会社の社長さんらしい。二年か三年か前に起業をしたけれど、まだ軌道に乗らないという。お金のほとんどは会社を運営するための経費で消えてしまうから、自分たちの食費をできるだけ削っていると言っていた。

 それほど食費を削るのならば、ウチのパンよりも安いものがあるんじゃないかと、ついつい言ってしまったことがある。そうしたら由華子さんが「おいしいな、幸せだなって思いたいから」と笑顔で言った。

 それは祖父が焼くパンを食べると幸せな気持ちになれるという意味だ。やはり祖父のパンの味を残さなくてはいけないと改めて強く思った。

「あ、そうだ。よかったらこれを食べてみてくれませんか?」

 二人が味わいながらコロッケパンを食べ終えるのを見届けてから、私は陳列台の奥からクリームパンを二つ取り出す。

「え? いえ……」

 爽さんが戸惑った顔をした。隣の由華子さんも同様に困った表情を浮かべている。

「これ、私が焼いたパンなんです。まだ修行中で祖父からも合格点がもらえていないんですけど……。常連のお二人に試食をして感想をお聞きできればと」

「試食?」

「はい」

 祖父の味にはまだまだ遠く及ばない。だからこそこの二人に試食をしてもらって、率直な意見を聞いて見たかった。

 爽さんと由華子さんは一瞬顔を見合わせてから、ゆっくりとクリームパンに手を伸ばした。

「じゃあ、頂きます」

 爽さんはそう言ってクリームパンに豪快にかじりつく。

「これ、まだ合格じゃないの? おいしいと思うけど」

 爽さんのクリームパンはあっというまに消えていく。

 一方の由華子さんはパンを二つにちぎり、断面をじっくりと見て匂いを嗅いだ。そしてひとくちかじってじっくりと味わう。

「生地がちょっと硬くてボソボソしている感じ。あと、パンの味とクリームの甘みのバランスが悪いかも」

 そうして由華子さんはゆっくりと味わいながら的確に味の欠点を上げていく。

「由華子、ちょっと厳しくない? 普通においしかったよ」

「私も普通においしいと思うわよ。だけど、お姉さんが目指しているのは、おじい様の味なんですよね?」

 由華子さんが少し首を傾げて私を見た。

「はい。そうです」

 私ははっきりとした口調で答える。私が目指すのは『普通においしいパン』ではない。

「そっか」

 爽さんも納得したように微笑んだ。そして元気よく続ける。

「会社が軌道にのったら、ここのパンをいっぱい買ってパンパーティーをしますから。そのときには、お姉さんが焼いたパンもいっぱい食べさせてくださいね」

「はい。ぜひよろしくお願いします!」

 私が答えると、二人は笑顔で手を振って去って行った。

 爽さんと由華子さんがたくさんのパンを買いに来てくれる日が待ち遠しい。そしてそれまでに一個でも二個でも、私が自信をもって披露できるパンを焼けるようになりたいと思った。

プルルルル

 携帯が揺れて着信を知らせる。画面に表示されたのは知らない電話番号だった。

 少し迷ってから私は電話に出る。

「はい?」

― あ、紗雪ちゃん?

 それは近所に住んでいる女性の声だった。

「はい、紗雪です。えっと、どうされたんですか?」

― あなたのおじいさんが倒れたの。今、救急車で運ばれて……

 目の前が真っ暗になった。

 動揺しながらも女性から詳しい話を聞き、私はすぐに病院に駆け付けた。

 祖父は脳梗塞だった。倒れたとき、パンを買いに来ていたお客様がいて、早い対応ができたため一命をとりとめることができた。

 それでも後遺症が残る可能性があるらしい。もうパン作りはできないかもしれない。

 処置を終え、容体が落ち着いたのを見届けて私は一旦家に帰った。

 翌日、いつものように早朝に目を覚まして作業場に立ったけれど、祖父のいない作業場でパンを作ることができなかった。

 祖父の入院に必要なものを揃えて病院に向かって車を走らせる。だけど不安が次々と押し寄せで叫び出したい気持ちになった。私は車を止めて外の空気を吸い込む。

 こんな顔を祖父には見せられない。

 幾度か深呼吸を繰り返すと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。

 そのとき何かがガバっと私に抱きついた。驚いて見下ろすと、それはかわいらしい制服に身を包んだ女の子だった。

 その制服には見覚えがある。幼稚舎から短大まである名門女子高の小学校の制服だ。この近辺ではちょっと有名な学校だった。

「えっと、どうしたの?」

「助けて」

「え?」

「追われてるの」

 一瞬ドラマのワンシーンでも見ているような気になったけれど、私はすぐに辺りを見回す。あやしい人影はない。

 そんなことがあるのかとも思ったけれど、名門小学校に通う児童ならば、何か庶民の私には分からない事情があるのかもしれない。

 私は後部座席を開けて少女を車に乗せる。後部座席は目隠しがされているから見つからないだろう。そして私も乗り込んで鍵をかけた。

「何があったのか、聞いてもいい?」

 私はできるだけやさしく声をかけてみた。だけど少女は俯いたままで何も話そうとしない。

 どうしようかと思っていると、少女が「いい匂い」とつぶやいた。

 車には昨日のパンがそのまま積まれている。私は手を伸ばしてケースの中からパンをひとつ取り出す。

「昨日焼いたパンだけど、まだ大丈夫だから」

 だけど少女はジッと私の手の上のパンを見つめるばかりで動こうとしない。

「いらないの?」

「知らない人からもらっちゃダメって。それに何が入っているか分からないから、信頼できる人の食べ物しか口にしちゃいけないって」

 少女の口ぶりからすると、添加物とかの話ではないようだ。もしかして毒を盛られる可能性があるような生まれなのだろうか。

「食べ物のアレルギーはある?」

 私が聞くと少女はパンをジッと見つめたまま首を横に振った。

「じゃあ、このパンをあなたが二つにちぎって片方を私にちょうだい。それを私が食べたら安心でしょう?」

 そう提案すると、少女は私の顔を見上げてしばらく思案した。その表情は小学生には見えないほど大人びている。一体どんな環境で育ったらこんな表情をするようになるのだろう。

 そして少女はゆっくりとパンに手を伸ばすと、私が提案した通りパンを真ん中から二つにちぎった。それから左右のパンを見比べて右手に持ったパンを私に差し出す。

「じゃあ、いただきます」

 私はそう言ってパンにかぶりつく。そして昨日から何も食べていなかったことに気付いた。

 私がパンを食べるのを見て、少女もパンを口に運ぶ。一口食べると目を見開き、パクパクとすごい勢いで食べきってしまった。

「もっと食べる?」

 少女はコクリと頷く。私は先ほどとは違う種類のパンを取り出して少女に渡す。すると少女は先ほどと同じようにパンを二つに割ってひとつを私に差し出した。

 パンを食べ終えると、少女はすっかり落ち着いたようだった。事情は気になるが、これ以上踏み込まない方がいいと考えて、私は少女を小学校まで送り届けた。

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