15-3

翌日、通夜の前に母の死化粧を施すことになった。

「化粧品の類って結構あったんですね」

「これでも少ない方よ?」

「そうなんですか?」

「まあ男の子はあんまり縁がないものねぇ、これでもほぼスキンケア用品だけだけどやらない人は本当にわかんないわよね」

施設から引き取った母の化粧品が詰まったメイクボックスを開き、叔母と葬儀社から派遣された納棺師の人と合同で母の身体を清める事になった。

脱脂綿で身体を拭うと、肌の潤いを足すためにベビーオイルを刷り込む。

たった1日で随分と乾いてしまった母の体に油を刷り込むと微かに柔らかさが戻る。

体のケアを終えると母の顔に化粧が施される。

メイクは専門外だが、叔母と専門家の手で美しく彩られる母の顔を見ているとひとときばかり蘇ってきたようにも思えて来る。

母の顔が春の風によく似合う温かな色味に整えられると、叔母がふと俺を見てこう告げる。

「春彦くん、口紅塗ってあげてくれる?」

「口紅ですか?」

「普通に塗ってあげるだけでいいから」

「……わかりました」

叔母から渡された口紅はほんのりとオレンジかがった赤で、それをほんの少し出してからくちびるに塗ってみる。

それだけで母の顔が明るく華やかに映ってくる。

(こんなに綺麗な化粧をして貰ってるのになんで起きてくれないんだろうな)

ふとそんな事が脳裏をよぎる。

まだ生きてるみたいに美しい母がもう目を開けることはないことはわかっているはずなのに、そんなことを考えてしまう自分が馬鹿みたいだった。

不意にポケットに入れてあった携帯電話がバイブ音を立ててくる。

中座して確認すれば相手は飯島だった。

(……そうだ、伝えておくのを忘れてた)

少し息を整えてから電話を取ると「真柴か?」と声がかけられる。

「いまどこだ?」

「自宅だ、いま通夜の準備をしてるんだ」

それで全てを察したらしい飯島は「そうだったか」とつぶやく。元々母の危篤は飯島経由で俺のところに来てるからある程度予想してたのかもしれない。

「そういう事だから悪いがしばらく戻れないと嘉神達に伝えておいてくれ」

「了解。親の忌引きだから戻れるのは7日後か、まあ葬式終わったらゆっくり休んどけ。申請は俺の方で代わりに受け付けとくからさ」

「助かるよ」

そんな話をして電話を切るが、こんなに嬉しくない休みがこの世にあるのかと思うとなんともいえない気持ちで息を吐いた。


***


その日の夜の通夜には近所の人のみならず母の知り合いもよく集まった。

まだ70半ばだから母と同年代でも矍鑠とした人は多く、叔母を通じての連絡が容易であったのだ。

お焼香の匂いの漂う部屋で近所の寺の僧侶の話を聞き流し、ご近所さんや母の知人からのお悔やみのことばに軽く頭を下げているとひとり意外な人物がいた。

「ひさしぶりです、先輩」

「こちらこそ久しぶり」

喪服に身を包み茶髪混ざりの黒髪をシンプルに束ねたその女性はこの近くの個人病院の3代目で俺の中学の後輩であり、彼女の父は我が家の掛かり付け医だった。

母が施設に入ってからは顔を合わせる事が無かったが、まさかわざわざ来てくれるとは思わなかった。

「この度はご愁傷さまでした。真生子さんはどうでしたか」

「最後まで俺と父の区別もつかずに死んでいったよ」

この後輩は母が俺と父を混同し始めた時、母を施設に入れることを最初に勧めてくれた相手だった。

『混同されることに苦しみながら介護するのは先輩自身も不幸になる』と言ってくれなかったら、俺は母と一緒に共倒れになっていたかもしれない。

「母親を手放しても良いと言ってくれた事には感謝してるんだ」

「大した事はしてませんよ、手放すと決めたのは先輩自身です」

あの時、俺は母親を手放して俺は1人の時間という自由を得た。

そしていま俺の前にあるのは1人きりという孤独だった。

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