5500円の恋人

三森電池

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 彼女はいつもと変わらない、甘い匂いをまとっていた。

 なあ、どうしてこんな仕事をしているんだい、とは聞けなかった。傷んだ茶髪と安っぽいワンピース、ベッドの脇に放り出されたボロボロのブランドバッグが全てを物語っているような気がしたからだ。ドアを開けて入ってきた彼女は、ぼくの顔を見て驚いたように大きな瞳を見開いたが、すぐに笑顔に戻って、ぼくの知らない名を名乗り、隣に座ってきた。百二十分でよろしいですね、と、昔よりも随分化粧の濃くなった顔でぼくを見上げる。その引き攣った笑顔に、胸が痛む。

 甘い香水の匂いだけが昔のままだった。ぼくと彼女は、とても衝動的に別れたので、その後の動向などはまったく掴めていなかったが、二年の間にいったい何があったのか。ただ無気力な大学生だったぼくとは違い、彼女は芸術の大学に通い、将来やりたいこともはっきりと決まっていた。それは決して雲をつかむような夢ではなく、実力も才能もある上に努力を惜しまない性格であった彼女なら、ほぼ確実に成し得たであろうものだった。

 あの大学は辞めてしまったのか。そういえば、とことん馬の合わない教授がいて、よくぼくに愚痴をこぼしていたっけな。今もあいつは、生徒の作品に尽く理不尽な文句を吐いて回っているんだろうな。

 違う、こんなことを言いたいんじゃない。ぼくは、こんなことを言うために縁もなかった風俗店を予約して、昔付き合っていた彼女を指名したわけではない。

 居心地の悪い沈黙の中、ラブホテルのBGMだけが控えめに流れている。

 彼女の方も、とっくにぼくの正体に気づいている。それでも健気に、シャワーを浴びましょうと擦り寄ってくる。それが仕事だからだ。このホテルを出ない限りぼくは、昔付き合っていた恋人ではなく、客でしかない。

 彼女の腕を掴んだ。二年前より随分と痩せ細っていた。


 「どうして、こんなところで働いてるんだよ」


 彼女はやはり困ったような顔をした。ぼくだって困っている。どうして救ってあげられなかったのだろうと思っている。付き合っていた頃、ぼくと彼女の間に肉体関係はなかった。それはお互いがはじめての交際相手だったこともあるが、彼女は結婚するまで綺麗な体でいたいと言っていたので、ぼくはそれを尊重した。就職活動を頑張って良い会社に入ってたくさん稼ぐから、早く結婚しようとぼくが言うと彼女は嬉しがって笑っていた。そんな記憶ばかりが蘇ってくる。

 彼女は、すぐに作り物の笑顔に戻り、ぼくに言った。


 「留学しようと思って」

 「うそだ。そんなこと言ってなかっただろ」

 「二年も経てば人の気持ちなんて変わるものだよ」


 甘い香水の香りは昔のままで、それだけが二年前の名残だった。そしてぼくは、未だ二年前の彼女を追い求めている。変わってしまった彼女が、悲しげにぼくを見ている。

 それは本当かともう一度聞いた。本当だと彼女は言った。なんのための留学だろう。伸びた爪とネイルアートを見る限り、前のように芸術に真剣に取り組んでいるとは思えなかった。


 「そんな顔しないでよ。私をわざわざ見つけて、指名したのはきみでしょ」


 ぼくは、大学を卒業して普通のサラリーマンになった。就職活動は同期の中でも比較的上手くいった方で、稼ぎこそそれほど良くないものの、安定した生活を送っている。このまま行けば、あと数年後には家庭も持てるだろう。その時隣にいるのは彼女ではない。じゃあ彼女は、どうなるんだ。

 余計なお世話であることは、指名した時から自覚していた。ただ一言、やり直せと言いたかった。まだぼくらは二十代の前半だ。修正なんていくらでもきく。


 「・・・・・・無責任なこと、言うんだね。きみと別れて私は、自暴自棄になって体を売って、芸術の才能もないって言われて大学も辞めたのに」

 「・・・・・・」

 「きみは立派な社会人になれて、よかったね。私はこんなんだから、もうまともに働けないし結婚もできないよ。三十になるまでたくさん稼いで、世界一周旅行でもして、そのまま、死ぬつもり」


 あぁそうだ、留学なんて話は聞かなかったが、世界一周旅行がしたいというのはたまに聞いていたな。

 ぼくは彼女から目を逸らした。救ってやれなかったのはぼくだ。当時はお互いに足りないところがあって突発的に交際を解消するに至ったが、こんなになってしまうなら、せめて、その後気にかけてやればよかった。死ぬつもり、と至極明るく言った彼女は、もう人生を諦めていて、彼女が死んでもぼくは気付きもせず生きていくんだ。ぼくらが一緒に過ごした時間など、そんなものだったのだろう。彼女からは甘い香りがする。ぼくらはこのホテルを出たら、別々の道を進んでいく。無意識のまま、ごめんと口に出していた。


 「ねえ、そうやって同情するなら一緒に死んでよ、ここで」


 そう言うと彼女は、薄いカーディガンのポケットからライターを取り出した。

 ぼくにはそれを止められなかった。目の焦点すら合っていない彼女が、もう殺してくれと懇願しているように思えた。彼女が持つピンク色のライターに、ぽっと小さな火が灯る。彼女を止める権利などぼくに無いように感じた。

 でも、ぼくはまだ生きたかった。

 殺される。そう確信して、ベッドの横にあった自分の鞄を手に取った。人間、窮地に追い込まれると恐怖で何も出来なくなるものだと思っていたが、火事場の馬鹿力とでもいうものなのか、案外簡単に彼女から距離をとることができた。ソファーの上に一人残って、傷だらけになってしまった手首にライターの火を当てる彼女は、ぼくを見て、さいごに、嘘つき、と言葉をこぼした。泣いているように見えたが、ぼくにはそれをちゃんと確認する余裕はなかった。

 逃げるように部屋を出た。律儀なことに、部屋に入る時渡された鍵がきちんと手に握られていた。


 「きみは、真面目だからねぇ」


 記憶の中の彼女がそう言って笑う。こんなの今更思い出してなんになるんだ。もう彼女はぼくのものじゃない、いつも甘い香りをまとっていた、素敵な彼女じゃない、消えろ。

 ラブホテルの狭い廊下をしばらく無心で歩いて立ち止まり、改めて一連の流れを思い出すと、体がぞくりとした。死んでしまうかもしれない。しかし不思議なことに罪悪感はあまりなくて、それはぼくもぼくでおかしな人間で、恐る恐る振り返ってみても部屋のドアは開かないし、煙が出ているとか異臭がするとかでもない。どうか死なないでくれと願った。まともに生きているぼくに、あらぬ被害が及ぶのはごめんだ。気付けば彼女の事ではなく、自分の保身ばかり考えている。もう彼女は、ぼくには救えないことを痛いほど知る。ぼくがあの部屋で何をすればよかったかがわからない。そもそも興味本位で元彼女の情報を探り、風俗店で働いていることを知り、指名してみたのが間違いだった。何かが変わると思っていたのはぼくだけだった。

 エレベーターのドアが、ゆっくりと閉まる。下へ向かって動き出す。

 無愛想な受付に鍵を返してホテル代を払った。この辺は安い風俗店が多く、ひとりで部屋に入る男性客もたくさんいるので、特に怪奇の目では見られなかった。自動ドアの前で一組のカップルとすれ違い、互いに見ないふりをして歩き去る。外に出ると、冬の冷たい風が体を包みこむ。そういえば、コートを部屋に忘れてしまった。

 街は喧騒に満ちている。馬鹿騒ぎをする若者達が、ぼくのすぐ前を通り過ぎていく。念のため、もう一度振り返って部屋の方を見てみたが、発煙してはいなかった。彼女が生きているのなら、その安っぽいワンピースだけで夜道を歩くのは寒いだろうから、ぼくが忘れてしまったコートを着て帰ってほしいと思った。そして、寒さを少しでも凌いで家に辿り着けたら、すぐに捨ててほしい。かつて付き合っていた冬の日、薄着でデートに来た彼女にぼくの気に入っていたマフラーを巻いてやったら、あったかいねと笑顔を浮かべていた。彼女はあの時も、甘い匂いをまとっていた。

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