第45話
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翌日、朝から引っ越し業者がきて荷物を梱包していた。
前のアパートより広いこの部屋に合わせ物も増えて、前のアパートと同じ部屋の大きさならかなり捨てなくてはいけないけれど、ここでは何も捨てるものを選ぶことが出来ず、とりあえず全て荷造りしてもらうことになった。
考えてみたら色々家電や生活雑貨も必要だ。
でもここで家賃など支払わなかった分貯蓄に回せたので、かなり楽に揃えられるだろう。
既に物が片付いてしまった広い部屋を見回し、朱音は冷静にそんな事を考えていた。
「朱音」
後ろから声がして振り向くと、健人が部屋の入り口にもたれかかっていた。
「俺が今日一日付き合う。買い物もあるだろうし。
晩飯も抜かないように見張る」
朱音はそんな健人に苦笑いを浮かべる。
「見送りもしないで逃げる男なんて忘れてしまえ」
朱音の側に来て真剣な顔でそう言った健人に、朱音の表情が泣きそうになって俯く。
「そうは言っても簡単には無理だよなぁ」
俯いた朱音の頭を大きな手が撫でれば、大きく包み込む優しさが手から伝わるようで朱音は唇を噛みしめ涙を堪えた。
引っ越した先は最寄り駅から徒歩約十分、十二階建ての立派なマンションで朱音は部屋に入って驚く。
既に家電製品もカーテンもあり、今回は布団を買おうと思っていたのにシンプルなベッドまで置いてあった。
朱音は大きなリュックを抱えたまま周りを見回す。
こんな立派なマンションの広い部屋があの家賃では無理なことを物件を探して回ったからこそわかる。
冬真が多くの気遣いをしているのは、朱音への餞別なのだろうか。
「ふぅん、1LDKの角部屋か。トイレ風呂別でまぁまぁの広さだな。
どうすりゃ既に家電製品とか買って先にセッティングしておけるんだよ。
金か、金にものを言わせたな、あのエセ紳士」
呆れた声を出しながら健人は部屋の隅にある段ボールを横切り、大きな窓にかかるカーテンを開けた。
健人が手招きしてその横に朱音が行けば、窓の外にはみなとみらいの夜景が広がる。
目の前にあるマンションよりこの部屋の方が高いため周囲のマンションが高い割に思ったより景色を邪魔されなかった。
ぼんやりその景色を見ていると、健人がそんな朱音の頭をぺしりと叩く。
「ほら、その貴重品袋置いて飯食いに行くぞ」
朱音の抱えている大きなリュックには、自分を支えてくれたKEITOのイラスト集、誕生日にもらった絵やそして冬真がくれたルビーのネックレスが入っている。
洋館を出て行く日、朝目覚めるといつもラブラドライトのネックレスの入っていたケースの中に小さな袋が二つあり、一つにはラピスラズリの欠片、もう一つはネックレスの台とチェーン、そして少しだけラブラドライトの欠片が入っていた。
朱音はそれも大切にリュックに入れて、それだけは業者にも持つと言ってくれた健人にも断って自分で持ってきたのだ。
健人に誘われた小さなイタリア料理の店は既に予約をしていたようで個室に二人は入った。
「ここは誰かさんが全て持つようだから高いの頼め。俺はそうする」
健人は戸惑う朱音に気にせず高いワインと前菜の盛り合わせなど色々頼み、先に飲み物が届いて朱音のグラスにジンジャーエールがつがれ、スタッフが個室のドアを閉めると健人はワイングラスを持つ。
「朱音の再出発を祝って乾杯」
健人がそう言うと朱音は崩れそうな表情を堪え、健人はワインを口にした。
「全く何考えてるんだか」
健人が前菜の野菜と魚介がふんだんに入っているマリネを摘まみながらそういうと、朱音がジュースを飲みながら俯いていた顔を上げる。
「すぐに出ていけと言って早朝から自分はいない癖に、立派なマンションに必要なものも揃えておいて晩飯先まで全部予約してあんだから。
いちいちメールで俺に進行状況の確認や命令しないで自分でやれっていうんだよ」
「そうなんですか?」
そんな事が起きているとは思わず驚いた朱音に健人がひらひらスマートフォンを振った。
「思ったよりすぐに決断したな。
そんなにあいつの側にいるのは辛かったか?」
『朱音さんが明日出て行きます』
あの事件の翌日、健人の部屋にやってきて冬真は告げた。
あの状況からいつか言うだろうと思っていたが、まさかそんなに早く言い出すとは健人も思わなかった。
冬真の表情からは何もわからないが、健人は、そうか、とだけ答えると、冬真は部屋を出て行ってその後姿を見ていない。
朱音に不自由させないよう、冬真が色々動いたのはわかる。
それが冬真の懺悔なのか、最後の保護者としての仕事なのかはわからないが。
「辛い・・・・・・いえ、思ったより辛くは無いです」
朱音は考えながら、でも最後は言い切った。
「まだ実感が湧かないからかもしれないんですけど」
そう言って左手の包帯に視線を落とす。
「でも、トミーさんも冬真さんも生きてるから。
生きているならいつかまた、会えるかもしれないですし」
手の痛みはほとんどない。
だから手の包帯を見てもあの日のことは夢だったのではと思えてくる。
そんな朱音を見て、健人はしばらく口を閉じていたが笑みを作った。
「そうだな。まぁあいつは早々死ぬような男じゃ無いから放っておけ。
俺は気分転換に外で食べるのが好きだから今後も付き合えよ?
それとも俺じゃ嫌か?」
「まさか!そんな事思ってないです!」
あわあわと手を振って朱音が言えば、
「ふーん、一度でも断ったら今度のイラスト集やらんからな」
「え、イラスト集が出るんですか?!買います!」
急にファン全開の顔をした朱音に健人はニヤッとする。
「買わなくていい、やるから」
「いえ、買います!」
「自腹で買うならサイン入りやらんぞ?」
その言葉にうぐっと朱音は言葉を詰まらせたが、顔を引き締めた。
「それは保存用にします。なので別に自分でも買います」
「お前結構強情だなぁ。
よし、三冊やるから買うなよ?その金は昼飯代の足しにしろ」
あぁっ!と身をよじりながら頭を抱えている朱音を、健人は面白そうに眺める。
「まぁお兄ちゃんはお前の味方だよ」
ワインを自分でグラスに継ぎ足しながら健人は笑った。
それを見て、健人からの温かな心に胸が一杯になりながら朱音も明るい笑みを浮かべた。
*********
朱音は目を覚まして天井、そして周囲を見る。
ここに引っ越してきてそろそろ一ヶ月が経ちそうな土曜日、朱音は天井を見ながらため息をついた。
未だにあの洋館で住んでいた景色が目を開けると見えるのではと思うが、一度もそんなことは無い。
住民票は未だにあの洋館の住所のまま。
郵便物の転送は既にしてあるが、役所に行く時間が無いしと言い訳しながらずるずる住民票の手続きは伸ばしていた。
少しだけでも繋がりを残したいと思っていたのが本音だが、会社への説明を考えるとさすがに限界かもしれない。
確か今日は役所の窓口がやっているはずだからあと少しだけ寝てから行こうと、朱音は再度毛布を被った。
カーンカーンカーンという高い音が夢の中で響く。
遠ざかるような、近づくようなその音がサイレンだと思いながら朱音は目を覚ました。
身体を起こすとベージュ色のカーテンが明るいオレンジ色に染まっていて、気が付けば夕方になっていたのかとちょっとホッとしている気持ちがありつつ役所は今度行こうとベッドから降りてカーテンを開ける。
だが朱音の視界に飛び込んできたのは夕陽ではなく、立ち上る炎と黒い煙だった。
健人がリビングでビールを飲んでいると、リビングにある電話が鳴る。
「あぁいい、俺が出る」
キッチンにいるアレクが来ようとしたのを見て健人がそう言って電話に出ると、その相手は朱音のマンションのオーナーからだった。
「おい!!」
仕事部屋をノックせず蹴破るような音で入ってきた健人に、冬真はパソコンから顔を上げると呆れたような顔をした。
「何ですか」
「朱音のマンションが火事だ!」
その言葉に冬真の表情が変わる。
「朱音さんは」
「オーナーが部屋を確認しようにも消防隊に入ることを止められて、今消防隊からの捜索状況の報告を待っているそうだ。
朱音の携帯にかけてるが繋がらねぇ」
スマートフォンを持ったまま健人が固い声で言う。
「確か昨日の夜、あいつ飲み会に行ったはずだ。
もしも酔っていてまだ眠ったままだったら」
「アレク」
既に健人の後ろにいたアレクに冬真は命じる。
「元の姿で朱音さんの様子を見てきて下さい」
「おい、車の用意をしろ」
「かしこまりました」
アレクは身を翻し、冬真はアレクが自分の命令では無く健人の言葉に従ったことに思わず席を立つ。
「アレク!」
「お前が行け」
再度呼んでも使い魔は戻らず、困惑したような顔の冬真に健人が言う。
「心配なら健人が行けば良いでしょう?今も連絡取り合っているんですし」
「拗ねてる場合か。
俺はオーナーの連絡を待つからここで待機する。
いざとなれば魔法でも何でも使ってお前が朱音を助け出せ」
冬真はその言葉を聞いて口を真っ直ぐに結ぶと、健人の目を見て頷き急いで部屋を出た。
健人は静かなこの洋館の前を黒い車が走っていくのを見送り、リビングへ戻った。
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