第29話
今年の夏も変わらず暑さは厳しいのだが、この洋館の中は割と涼しい。
だがそれは一階だけで、二階で仕事をしている健人はクーラーが無ければパソコンと俺が死ぬ、と深刻そうな顔をしていた。
この洋館は高台にあるせいもあるのか緑の多い裏庭から一階には風が通って、冬真も二階では無くリビングや仕事部屋で仕事をしているようだが、いつも長袖でシャツの第一ボタンを外すくらいで一切汗をかいていない。
それに比べ健人はいつも通り夏の正装であるタンクトップに短パンで朱音の前に出てきて、朱音は目のやり場に困っているのに気が付いた冬真がいさめたが、健人の辛そうな表情と朱音の説得もあり健人は今後も夏の正装で過ごすことを許された。
自室から出てきた朱音は、階段を降りてきた健人に気が付く。
朱音も前のアパートではTシャツ短パンで過ごしていたがここでは恥ずかしいので、つるんとしたノースリーブのロングワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていて、健人はTシャツに短パン、そして大きめの布製バッグを肩にかけている。
「おでかけですか?」
「ジムで一泳ぎしてくるわ」
ギリギリ仕事を終えた健人は、首に手を当て大きく動かしながら疲れたようにそう言った。
朱音は自分なら疲れたら絶対寝るのになぁ、と思いながら近くに来た健人を見上げる。
「どうだ、一緒に来るか?」
「私泳げなくて」
「教えてやるぞ?」
「いえ、遠慮しておきます」
じりじり面白そうに詰め寄っていく健人に、朱音は焦った顔でじわじわと身体を後ろにのけぞらせていく。
健人がニヤッとした後突然しゃがんだかと思ったら、朱音のロングワンピースの裾をまくしあげ、左足のふくらはぎを揉んだ。
「全然筋肉ついてないのにガチガチじゃねーか。
デスクワークの弊害だな、運動しろ、運動」
そういって見上げれば、朱音は呆然とした顔で固まっている。
あまりに流れるような健人の行動に、悲鳴を上げることも出来なかった。
「・・・・・・健人」
静かな声に健人と朱音がそちらを向けば、冬真がきっちりとしたスリーピースを着て笑みを浮かべている。
笑みを浮かべているが、目は一切笑っていない。
隣にいるアレクが無言で何かを差し出し、冬真はそれを見ずに左手で受け取ると口元に持ってくる。
それはてのひらより小さいメダルのようなもので、図形が刻まれていた。
「昨夜、タリスマンを作ったのですが、こんなに早く試す機会に恵まれるとは」
そう言ってそのタリスマンに軽く口づけ口角を上げた冬真を見て、ばっと健人が立ち上がり降参するように両手を挙げた。
「それが何かはわからんがやめてくれ、誤解だ」
「タリスマンとは精霊の力を宿らせた護符のようなものです。
呼び出す精霊と目的を決め、その精霊に応じたシジル、記号のようなものをこのような金属や紙に刻み、精霊を召喚してこの円形の金属に力を注いでもらえばタリスマンの完成です。
ちなみにこれは、わいせつ行為をする人間を消し去ることを目的としています」
笑みを浮かべロビーにいる健人に冬真がゆっくりと近づけば、健人は慌てて朱音の後ろに隠れた。
健人がいくらしゃがんでも大きすぎて何も隠れてはいないが。
「俺はわいせつな事なんてしてないぞ!
単に筋肉量を確認しただけで!
第一そんな護符、朱音にやれよ!」
「残念ながらタリスマンは自分で作って自分で使う物で、人に渡す物では無いんです。
なので実験しますね」
「お前にその護符が必要になる意味がわからん!」
大きさでは健人が冬真より上なのに、冬真の方が熊か虎で健人が尻尾の下がった大型犬のようだ。
朱音はその間に挟まれオロオロする。
「あ、あの、私は大丈夫です、びっくりしただけで」
「OK. He is guilty.」
「お前がネイティブに英語話すと怖いんだよ!」
朱音はフォローしたつもりだったが、冬真はすっと目を細め低く呟き、健人がより怯えている。
「市中引き回しの上獄門、の方が良いですか?」
「俺が悪かった」
何故か日本流の古い刑罰を言い出され、健人が再度降参して謝罪した。
「僕はこれから仕事なんです。
帰りは遅くなりますから、健人、わかってますね?」
冬真がアレクにタリスマンを渡しため息をつきながらそう言うと、健人はやっと朱音の背中から出てきた。
「晩飯は朱音と食べれば良いんだろ?
わかってるよ、これから言うところだったんだ」
「いえ、私は一人で何か買って食べますし」
「この流れでお前を独り飯なんてさせたら、俺は市中を引き回されるんだよ、わかってくれ」
朱音は深刻そうな表情の健人に言われ、苦笑いで頷いた。
冬真はアレクと車ででかけたが、朱音には内容をやはり知らされていない。
この頃は冬真が宝石を一般の人らしき人に販売しているのを付き合ったくらいで、久しぶりに魔術師らしい冬真を見た気がするなぁと朱音は部屋で一人ぼんやりする。
健人とは冬真を見送った後、五時にJR石川町駅の改札前で待ち合わせしてその後ご飯に行くことになった。
JR石川町駅はJR根岸線と横浜線が通っており、東京駅から桜木町駅、横浜スタジアムに近い関内駅の次の駅になる。
この駅から元町や中華街に出られ、そして坂を上がれば朱音たちの住む横浜山手洋館地域がある。
朱音は仕事では地下鉄みなとみらい線を使い、反対側にあるこのJR石川町駅側に滅多に行くことは無く、少し早めに洋館を出てぶらつきながら向かうことにした。
日曜日と言うこともあり、夕方でも観光客は多い。
メイン通りの名前は山手本通りというのだがそんなに広い通りでは無く、歩道も割と狭いので余計に人が多く感じる。
朱音も引っ越してきたときは洋館を見て回ることを楽しみにしていたが、いざその地域に住んでみると案外行くことが無くいつも洋館と駅の往復ばかりで、以前行ったイギリス館を除けば洋館地域の中でもほんの一部分しか動いていない。
朱音はいつも歩く方向とは逆の道を進み、キョロキョロしながら完全に観光客気分だ。
以前生プリンを目指して向かったエリスマン邸を右側に見つけ懐かしい気持ちになりながらふと左を見れば、可愛い洋館を見つけた。
そこには朱色で縁取られた木の看板に『ENOKITEI』と書いてあり、その上に小さく『ホームメイドケーキ えの木てい』と書かれている。
「・・・・・・」
朱音はぽかんとその建物を見た。
白亜の壁に朱色で窓が縁取られ、なんとも可愛らしい小さな洋館だが、その建物の手前はオープンカフェで多くの人がケーキや紅茶を楽しんでいる。
春先にこの前のエリスマン邸に来たときは一切このお店に気が付かなかった。
もし、もしもあの時このお店に気が付いていたら、喜んでこの素敵なお店に入って、冬子に会うことも無ければ、あの洋館に住むことも無かったことになる。
ここで自分のその後が全く変わってしまったのかと思うと、朱音はぞっとし、やはりあのラブラドライトが繋げてくれたこの素晴らしい縁にただ感謝しながら歩き出した。
先に地図で確認をしていたが、段々両端には立派な邸宅ばかりで本来曲がる道を越えてないか焦りながら歩いてると、右側に行く道路の角に『石川町駅 山手イタリア山公園』という看板を見つけ、朱音はホッとしながらそこを右に曲がる。
道を少し下った先に、門が開いていて白い壁に埋め込まれた石に『山手イタリア山庭園』と刻まれていて、中に入れば左側に薄い茶の壁に濃い緑の屋根と窓の縁を覆う『外交官の家』がある。
『外交官の家』は、ニューヨーク総領事などをつとめた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、東京渋谷の南平台に1910年に建てられた。
この内田邸は、海外暮らしが長かった定槌氏の意向を反映し、当時の日本人住宅としては珍しく徹底した洋風化が図られ、木造二階建てで塔屋がつき、アメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残している。
1997年定槌氏の孫から横浜市がこの館の寄贈を受け、この山手イタリア庭園に移築復元され一般公開となった。
そしてもうひとつここに移築された館が『ブラフ18番館』だ。
白壁に窓やドアは濃い緑で統一され、屋根のフランス瓦はオレンジのような明るめの茶。
元々は関東大震災後に山手町45番地に建てられた外国人住宅で、戦後は1991年までカトリック山手教会の司祭館として使用されていた。
震災前に建築された山手45番地住宅の一部が震災による倒壊と火災を免れ、部材の一部として利用していたことが解体時の調査で判明し、横浜市が部材の寄付を受け、1993年に移築復元した。
朱音は庭園の中に入り、ちょうど二つの洋館の間あたりで腕時計を確認する。
ふらふら見ていたせいか気が付くと待ち合わせまであと二十分くらいしかない。
綺麗に整った庭園には水や花壇が幾何学的に配置され、所々にあるベンチに座っている人もいて朱音はもっと早めに出てくれば良かったと後悔しながら、ブラフ18番館の裏に回る。
そこには下の道へ出る階段があってそこへ行けばかなり急な下り坂で、雪が降ったらどうなるのだろうと思いながら朱音は石川町駅へ向かった。
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