第12話
横浜山手地区は外国人居留地の面影が残る地域で、週末ともなると観光客が押し寄せる。
まだ朝早い時間はさすがの観光客もおらず、犬の散歩やランニングをする地域住民、朝練に向かう学生などがいるくらいで、特に冬真が所有するこの洋館はメインの通りから少し入っていることもありとても静かだ。
冬真にここに住むことを誘われた朱音は、冬真が紹介してくれた引っ越し業者にこれまた格安でうけてもらい無事に引っ越しを終え、この屋敷に住むようになって一週間ほど経った。
朱音は喉が乾いて目を覚まし、時計を見ると朝の六時前。
せっかくの休みの土曜日、飲み物を飲んでからまた二度寝しようとベッドから起き上がった。
あのアパートに住んでいた時にはヨレヨレのパジャマを着ていたが、ここではそういう訳にもいかないと淡いピンク色の長袖の部屋着を着て、身体のラインが見えないように軽い長めの上着を羽織ると部屋を出る。
前の家は小さな冷蔵庫が備え付けてあったため冷蔵庫は買っていなかったが、やはり部屋には小さめの冷蔵庫くらいあった方が良さそうだ。
ペタペタとスリッパでロビーを抜け、キッチンのドアを開けるとそこには何故か、ミケランジェロが作ったあの有名なダビデ像らしきものが後ろ向きにあった、どどーんという効果音が聞こえそうなくらいに。
正面から朝日を浴び、神々しいほどにバランスのとれた肉体美が腰に手を当てた状態で何かをグビグビ飲んでいる。
逆三角形の筋肉が美しい背中、引き締まったお尻。
女神の次は筋肉の神が降りてきたのだろうか。
朱音はドアに手をかけたままその銅像を呆然とみていた。
だが、何故かその銅像が振り返った。
当然だが背中に何も着ていないなら、前が何かで覆われているはずは無い。
ダビデはぽかんとした顔をして、あ、と呟いた瞬間、洋館中に朱音の悲鳴が響き渡った。
「朱音さん?!」
悲鳴を聞きつけた冬真が二階から素肌に羽織ったシャツの前ボタンを閉めながら駆け下りキッチンに入ると、足下には目を見開き震えながら座り込んでいる朱音、目の前には真っ裸の男が立っていた。
冬真はすぐさま朱音の後ろにまわり、彼女の目を手で覆う。
「Three、two・・・・・・」
「わかった!わかったから!!」
突然三秒前からネイティブな英語のカウントダウンが始まり、ダビデは一目散にキッチンを出ると、どかどかと二階へ上がり、バタン!とドアが閉まった。
「大丈夫ですか?」
そっと手を外し前に回った冬真が心配そうにのぞき込むと、朱音は口を開けたまま真っ赤になっている。
「すみません、朝から住人がとんでも無いことを」
朱音は叫んだもののその後は言葉が出ずに、困惑したまま冬真を見た。
「朝食後に挨拶させますから。
あ、会うのも嫌なら排除しておきますよ?」
なにげに物騒な言葉を交ぜながら冬真は朱音に提案をし、朱音は呆然としたまま頷いた。
ここの洋館に引っ越してきて朱音がまともな朝食を取ってないことに気が付いた冬真は、ほぼ強制的に朝食を一緒に取るようにさせた。
晩ご飯もアレクがきっちり用意をしており、朱音は食事代などを払うと冬真に申し出たのだが、費用はたいして変わらないと笑顔で断られ、以前より遙かに豪華な部屋と健康に配慮した食事を取っている。
朝食にさっきの男は同席せず、目の前には焼きたてパンに目玉焼き、カラフルなサラダなど盛りだくさんの内容が並ぶ。
冬真は家にいるときは基本紅茶しか飲まないため、今朝も朱音と冬真には紅茶が出ている。
アレクがオリジナルで組み合わせた茶葉もかなりあるため、朱音は毎朝どんな紅茶が出てくるのかも楽しみの一つだ。
冬真と向かい合い、たわいないおしゃべりをして食事をするのだが、まだイケメン過ぎるハーフを前にして食事をするというのは朱音にとっては緊張するものがあり、朱音はパンを手で小さめにちぎって口に運びながら早く慣れますようにと心の中で願っていた。
*********
「さっきは本当にすまなかった」
食事が終わり朱音がリビングにいると、アレクに付き添われて先ほどの男が入ってきた。
黒のTシャツにジーンズ姿だが、鍛え上げられた上半身に着ているTシャツは窮屈そうで、盛り上がった筋肉がわかってしまう。
髪は少し脱色しているような薄い茶色、長さは短めで身長はアレクと変わりない180センチほどありそうだが、もの凄いマッチョでは無いものの体つきがしっかりしているせいかとても存在感がある。
印象としてはスポーツマン、というのがぴったりだろう。
その男は神妙な顔で朱音の前のソファーに座ると、開口一番頭を下げた。
「い、いえ、こちらこそ叫んでしまってすみません」
「朱音さんが謝ること何も無いですよ。
裸で家の中を歩かないように何度も注意しているのにそれを破った彼が悪い」
「ところでこの嬢ちゃんは誰?」
男が不思議そうに冬真に尋ねると、冬真はその男に笑顔を向けるが目が全く笑ってないので男は内心やべぇと焦った。
「まずはあなたが自己紹介をするべきでしょう?」
「あ、そうだな。
俺は橘健人。二階の住人で冬真とはまぁそれなりの付き合いだ。
気軽に名前で呼んでくれ」
「初めまして、相良朱音と申します。
先日こちらに引っ越してきたのですがご挨拶が遅れてすみませんでした」
「あーいや、俺がこっちに戻ってきたのが昨日で少々不在だったから気にしないでくれよ」
そう言うと、白い歯を出して健人は笑う。
朱音は、最初の出会いこそ驚くような出来事だったとはいえ、この太陽のような笑顔をする健人に不思議と好感を抱いた。
「で、お前の親戚か何かか?」
「新しい方が入ることはメールと念のためドアのところにも手紙を刺してお知らせしてたんですが、何も見てないんですね」
「悪い悪い」
苦笑いで答えた健人に、冬真はため息をつく。
「僕の親戚でも無く、ごく普通の方ですよ。
僕の不注意で本業の仕事中に朱音さんを危ない目に遭わせてしまいまして。
そして急に部屋を探さないといけないという話を聞いてあの部屋をお貸ししたんです」
「へぇ、お前が魔術師だって気づかれるようなミスするなんて珍しいな」
「朱音さんには本当に怖い思いをさせてしまいました」
「いえいえ、もう気にしないで下さいって!」
未だに気にしている冬真に、慌てて朱音が止めた。
彼も冬真が魔術師と知っている、ここの住人はきっと冬真が慎重に選んでいるのだろうと思うと、朱音は妙に嬉しさが沸いてしまう。
「なぁ、嬢ちゃんいくつ?」
「23歳です」
「あー、なら男の裸くらいみたことあるだろうし、最初が俺じゃ無くて良かった」
あっはっはと笑いながら唐突に健人からそんなことを言われた朱音はぽかんとし、段々と顔が赤くなって思わず俯く。顔だけじゃ無く耳まで赤い。
「え」
それを見た健人が今度は一言だけ発し、横に座っていた冬真が健人の脇腹に鋭い肘鉄を食らわせた。
いくら肉体を鍛えていても痛いものは痛い。
健人が脇腹を押さえつつちらりと横を見れば、冬真が心底軽蔑するまなざしを矢のように浴びせている。
「あーそれは、実に申し訳なかった」
朱音に交際経験があるかはわからないが少なくとも最後までの経験が無いことを知り、健人が隣からの鋭い視線に気が付いてそちらを向けば、真顔で、もっと謝れとの圧力を醸し出している冬真に、これはいつものこいつなりの気遣いなのか、それとも他に何かあるのかが引っかかった。
「本当に悪かった。
そうだな、何か詫びが出来ると良いんだが」
「いえ、そんなことは」
「俺はただの絵描きだからなぁ。
もし絵が好きならやるんだが」
困ったように頭をかいている健人の隣で冬真が、
「健人はかなり有名な画家というかイラストレーターなんですよ。
KEITOってご存じないですか?」
と話すと朱音は目を見開き、突然立ち上がると走ってリビングを出て行った。
冬真と健人が顔を見合わせていると、パタパタとスリッパの走る音がして朱音が現れた。胸にとある本を抱えて。
「ファンです!!」
突然大きな声で興奮気味に健人の横に行ってその本を両手で差し出し、健人は驚きながらもその本に視線を落とした。
「これ、俺が最初に出したイラストの画集じゃねーか」
「はい!初版本です!
以前本の表紙で見かけて以来のファンなんです!
てっきり女性が描かれているものと。
KEITOさんは一切表に出てきませんし、プロフィールも謎なので」
「別に性別を隠してたんじゃないが、絵の雰囲気からか気が付くと女と間違えられているようになっちまった。
元々表に出る気は無かったし、まぁイラストレーターとしてはそれで良いかと思ってな。
だから直接ファンと会うことはまず無いから嬉しいよ」
そう言うと、健人は笑顔を浮かべる。
健人の絵は優しげな色合いが多く、漫画っぽくもなく、かといっていかにも絵画という訳でも無い絶妙な雰囲気が男女問わず人気で、本の表紙からポスターまで幅広く手がけている売れっ子だ。
「これならお詫びが出来そうですね」
冬真の言葉に健人も頷く。
「そうだな。
どうする?サインいるか?」
「いります!これにお願いします!」
気が付けばアレクが健人のすぐ後ろにいて黒のサインペンを差し出し、画集の表紙を開くと余白に慣れたようにサインをした。
「後で好きな絵をやるよ。
データだからな、好きなサイズで印刷してやっから。
そこに名前入れてやろうか?」
「光栄です!!」
サインの終わった本を大切そうに抱えて朱音は未だ興奮気味に返事をすると、健人は目を細めて大きな手を伸ばし、わしわしと朱音の頭を撫でた。
「よろしくな、朱音」
「はい、健人さん!」
「健人にはすぐ名前呼ぶんですね、ずるいな」
少し寂しそうに冬真が言って、朱音が慌てるように取り繕うのを健人は内心驚いていた。
確かにこの家に住まわせた人間を冬真はとても大切にするが、あまり女性をからかったりすることは無い。
住人への扱いでは無い、何かもっと違う感じを受けて、じっと健人は冬真を見る。
その視線に気が付いた冬真は、少しだけ笑みを浮かべた。
『俺の違和感は気のせいじゃ無いのか』
へぇ、と健人は面白そうに冬真を見たが特に動じることも無く、また朱音と話しているのを健人は温かい目で見ていた。
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