【三章】ホットチョコレート
いつもの様に凛は目を覚ました。そしていつもの様に顔を洗い朝食を食べ、身支度を整える。杏はその様子を心配そうに見守りながら、先に学校へ向かう。杏の学校は電車で数駅の所にある。だから必然と凛より先に家を出る事になるのだが、不安そうにドアを閉めている事に凛は気付かない。
(チョコ、持った。だいじょうぶ、だいじょうぶ……!)
いつもの様に身支度を整えていたが、どうも手足が絡む様な感覚で、髪もちゃんと結わけないので今日は下ろして行く事にした。そうしているといつも家を出る時間で、「行ってきます!」と慌てて家を飛び出した。駆け足でバス停へ向かい、丁度来ていたいつものバスへ慌てて乗ると息を整える。そうして学校の最寄り駅に着くと、大きく息を吐きながら校門を潜った。
教室に入るといつもと違う雰囲気で、中には友達にチョコを渡している女子達もいて、凛は自分の席に着いても落ち着きがなかった。ちらりと葵の席を見てもまだ登校していないのか席に姿は見当たらない。
「おはよう。今日は雰囲気違うな」
「楓おはよう! あ、えと、時間なくて……」
「ふーん、あ、今のうちに渡しておくわ」
そう言って笑いながら楓は正方形の梱包された箱を渡してきた。去年もくれた友チョコだ。
「ありがとう! あ、私からのも良かったらもらってくれる?」
「え……ありがと。……ふーん中々可愛いじゃん」
「えへへ、ほとんど杏が作ってくれたんだけどね」
「ああなら安心だわ」
悪戯に笑う楓に口を尖らせながらも凛は嬉しそうに笑った。
「三田さんチョコ貰ってください……!」「わたしからも!」「私が先よ」
そんな声が教室の前から聞こえて、視線を向ければ葵が群がる女子たちにチョコを渡されていた。優しく微笑んで全部受け取っていて、持っている紙袋には沢山のチョコが入っていた。
「す、すごい……!!」
「まあ去年もそうだったみたいだしね。廊下で何度か見かけてたけどこれまでとは」
「……ほぉ」
「でもまあ、今年は特別だろうね」
そうやって楓は面白そうに凛を見つめると、言葉の意味を理解して顔が赤くなっていく凛がいた。タイミングを見て渡しに行きたいが、女子の群れは中々減らずに眺める事しか出来ない。
「……え?」
凛は葵と視線が交わったが、でもすぐに逸らされてしまって、それからずっと葵が凛の事を見る事は無かった。何人もの女子からチョコを受け取っていて、気が付けばHRが始まるチャイムが鳴る。葵は自分の席に向かったがじっと視線を送る凛を見る事はなかった。
その後も授業の合間の休みに葵は教室を出て行ってしまい、授業開始間際に戻って来る事が続いた。
そうしていれば昼休みになり、いつもの様に凛の席で三人での昼食が始まる。筈なのだが、葵は教室を出て行ってしまい楓と二人で唖然としていた。
「楓ごめん、今日はお昼一緒できないかも……!」
「気にしないで行ってきな」
「うん、ありがとう!」
凛は弁当の入ったランチバックとチョコの入った紙袋を持って教室を出て行く。葵が出てから左程時間は経っていないので、見渡せば姿が見える筈だ。
「まって……!」
階段を上って行く葵の姿を捉えて、凛は追いかける様に走り出す。
「葵、まってッ!」
「……ッ」
凛の声が聞こえて葵は駆けて階段を上って行った。三階より上は屋上だ。だが屋上は立ち入り禁止でドアに鍵が掛かっている。だから上りきってしまったらそこで行き止まりになる。息を切らしながら凛は葵の背中を見つめていた。
「葵……こっち向いてくれない?」
「……今凛に見せられる顔してない」
「じゃあ、見せなくていいから、受け取ってくれる?」
そう言って背を向けたままの葵の手にチョコを渡した。葵はちゃんと受け取ってくれて、チョコの包まれた袋をじっと見つめていた。
「……去年も楓に渡していたの?」
「……ううん。今年初めて渡したよ」
「……」
凛はどうしてそんな事を聞くのか判らなかったけど、事実を告げると少しだけ葵の身体が揺れた気がした。
「あ、でもね、楓のとは違って、葵のは特別なんだよ。えっとね、デコレーション?が違ってね」
「……ッ!?」
凛のその言葉を聞いて葵は振り向いた。驚いた様な、でも泣きそうな
「えへへ、久しぶりに目が合ったかも」
「あ……、ごめん……」
葵の顔はいつもと違ったけれど、でもちゃんと葵の顔だった。
「チョコに付いてる丸いのが特別なの」
「うん……ありがとう」
「あ、でね、こっちは杏からの分! 私料理できなくてほとんど杏が作ってくれたんだけど……」
「杏さんからも? 嬉しいな。大切に食べるね」
嬉しそうにチョコを受け取る葵を見て、凛もつられて笑顔になる。そんな凛を見て葵はまた嬉しくて笑みを見せた。
「あの……僕からのも、受け取ってくれる……?」
「え!? いいの!?」
「凛の好みに合わせて作ったから、受け取ってくれると嬉しいな」
「えへへ、ありがとう!」
満面の笑みでお礼を言われて、葵は顔が赤くなって行く。いつもと違う髪型の凛はとても可愛くて、吸い込まれる様に見つめてしまう。
「髪下ろしてるの珍しいね」
「あ……えっと、緊張して上手く結べなくて……」
「可愛い」
葵の瞳と凛の心が揺れた気がした。葵の赤い顔は凛の心を熱くする。今は夏だったかなんて思う程に熱くて仕方ない。
胸まである髪を撫でる様に触られて、そのまま頬に手を添えられた。じっと見つめる先にある熱から感じる感情はとても心地が良いと凛はゆっくり目を瞑った。一瞬だけ驚いた
「……今日はここでお弁当食べてもいい?」
「うん……勿論」
葵は一人で弁当を食べるつもりだったのでランチバッグを持っていた。凛は葵と昼食を一緒にするつもりだったので、床に座って二人で弁当を広げた。
屋上前に隠れる様にして、二人だけの時間を過ごしていく。
いつもと変わらない楽しい時間。だけど今日は特別な時間だった。
*
放課後になる頃には葵が受取ったチョコは紙袋二つになっていて、凛と楓は驚きの声を上げていた。
「毎年そんななの?」
「うんまあ、有難いよね」
「食べるの大変そうね……」
「甘いものはあればあるほどいいんだよ!」
紙袋二つのチョコを見て、各々感想を述べながら教室を出て行く。凛はバイトへ、葵と楓は部活へ向かうため廊下で別れる事になる。楓は音楽室へ向かうため教室前で別れて、凛と葵は一階へ降りていく。
「またね!」
「……凛」
靴箱の前で笑顔で手を振る凛に葵は顔を近付ける。
「ホワイトデー楽しみにしててね」
葵は微笑んで手を振り、部室へ向かって行く。その後姿を唖然と見つめていた。
紙袋に入れた葵からのカップケーキを見つめながら、凛は高鳴る鼓動を抑えるのに必死だ。
(これ以上のものをくれるなんて……幸せすぎて死んじゃうかも……)
あんなに沢山のチョコを貰う葵が渡してくれたチョコのカップケーキ。葵が贈る恋人へのプレゼント。それだけで嬉しいのに一か月後が楽しみになってしまう。
「私も……葵を幸せにするよ」
一か月後のホワイトデーに贈るものを考えるのが楽しみになってしまう。葵が喜んでくれるものを贈りたいと思いながら、幸せな気分で校舎を出て行く。
一年に一度のお祭りは、一か月後のお返しの日まで続くのであった。
<八話へ続く>
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます