61話 閑話4
その日巻き込まれた事件について、彼女はやはりなにも思わない。
思考を他者にわかるかたちでまとめるのが苦手だった。
生まれつき備わっていない機能なのか、後天的に失われた機能なのかはわからない。
けれど、文字や言葉をしたためると、肉体からすさまじい力が出て行ってしまい、息は荒くなり、心拍数は今にも止まりそうなほどに弱まり、だんだんとまぶたが重くなって、最後には『ぶつり』と意識を失ってしまうという体験を、彼女は幾度もしていた。
コミュニケーションがとれない。
それは致命的だった。
いかなるケースにおいても、社会というものに身をおく限り、コミュニケーションは必須だった。
だから彼女は特段の努力を自分に強いて、どうにか『普通』たらんとしたけれど。
「無理はしなくていいんだ。お前がつらくないように、やりなさい」
父にはそう言われている。
つらい、とはなんなのか、彼女はたびたび悩む。
こうして誰とも会わずに、部屋に閉じこもって、ぼんやりと死んだように生きれば、たしかに、体はつらくない。
けれど、心は?
未来に帰るために努力をする人たちを横目に、ただ漫然と、なにもせずに過ごす日々は、確実に心を削っていった。
役に立ちたい、なんていう高望みはしないけれど。
せめて、『普通』になりたかった。
時代が変わるのを、時代を変えた人たちの真横で見ているうちに、何年もの時が経ってしまった。
変遷していく歴史の中で様々な『普通』が生まれては消えていった。ほんの数年のあいだにも様々な模様を見せた『普通』の変遷は、でも、彼女に自信も勇気も与えてくれない。
いろいろな『普通』を見ていて、やはり『普通』になるにはコミュニケーションが大事だということを思い知らされるばかりだった。
人と交われない者に、人の平均になる望みはない。
……次第に、それでもいいかなという思いも、頭によぎり始める。
甘やかされるまま、守られるまま、誰とも交わらず、ただ植物のように生きていく。
豪華な部屋の中で、あたたかい服を着て、窓の外に浮かぶ雲をながめて過ごす。
村でのあくせくした暮らしを知っているから、それがどんなに幸福な暮らしなのかはわかっているつもりだ。
だから、これ以上を望むのはワガママであって、役に立たない自分がワガママまで抱いては、完全にお荷物でしかないのは、わかっている、つもりだ。
わかっている、つもり、だったのに。
きっと、『つもり』であるだけだったのだろう。
「お迎えに上がりました。我らが王……女王よ」
閉じられた扉を音もなく超えて、誰かが部屋に入ってきた。
父の立場もあって、今の自分は要人という扱いだ。
誘拐や暗殺の危険ぐらいはあるだろうことはわかっていたし、そういう時、大声で助けを呼べない自分が、狙うに易しいターゲットであることも充分に理解していた。
だから、ナイフは持っている。
父が護身用に与えてくれたものだ。
自分は、自決用に持っているつもりのものだ。
それで胸を貫けば、自分は足手纏いにならずに済む。
彼女に迷いはなかった。むしろ、役立たない生き物だった自分が、最後に父の足手纏いにならないよう行動できたのだという誇りさえあった。
胸に刃を突き立てる動きは力強く正確だった。
……部屋に侵入した相手がなんなのかという確認さえせずに、即自決を選ぶあたり、彼女の中には最初からこういう願望があったのかもしれない。
父のために死ぬことで、役立つ願望。
それぐらいでしか、役立てないという確信。
役に立つという、いつのころからか自然と自分の中に生まれた、存在意義。
……子供のころ、生きる理由なんか考えもしない時間はたしかにあった。
ワガママがだいたいすべて許されると思えた無邪気なころの話だ。
自分が生きているのは当然のことで、自分が守られるのは当然のことで、自分が甘やかされるのは当然のことだというふうに思っていた時代の話。
被庇護者の立場に甘えて、ただ生きているだけで自分は素晴らしいのだと、なんの疑いもなく前提にしていた、あのころ。
けれど年齢を重ねると自分の生きる意味とか生きてる理由とかが気になり始めてしまって、そして、コミュニケーションをとれない彼女の世界には、自分と、父と、母のような立場の女性しかいなかった。
だから迷いはなかった。
自分でも大事な人のために行動ができるのだと、この自決によって示せるのが、誇らしかった。
でも。
刃は、心臓にとどかなかった。
「その程度の刃物では、もう、あなた様を傷つけることは叶いませぬ」
そいつは……
姿を目の前にしっかりと捉えているのに、まったく記憶できない、不思議なその存在は、老婆のような、老爺のような、『しわがれている』ことしかわからない声で言う。
「さあ、五百年続く戦争を始めましょう。今度の五百年こそ、我らが勝利するのです。……まいりましょう、魔王様」
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