第6話


 地下鉄を下り、駅から出て少し歩くと、灰色の薄汚いビルがあった。中に入ると、薄暗い階段が地下へと続いていて、どうやらバーはそこにあるらしかった。僕は時間を確認し、三十秒待つと階段を降りた。

 幅の狭い階段を降りると右横に扉が見えた。扉を開いて中に入ると、白のコートを羽織ったスミカがカウンターに座って、薄く氷の浮くカクテルを飲んでいるのが目に入った。僕は彼女に近づいた。バーテンの男が薄く微笑みをかけ、ああ、彼女の連れね、という顔をした。そういうわけではないんだけどな、と僕は否定したくなったが、もちろん何も言わなかった。そのような行為には、何の意味もないからだ。

「・・・・・・どうしたんだ、いきなり」

 僕は彼女の隣に滑り込むようにして座ると、そう言った。

「どうした、って?」

「いや、ええと、だから、どうして僕を呼んだんだ」

「さあ?」

「さあって、なんだよ。でも、何も理由が無いのに呼ぶってことないだろ、だって、僕らそういう関係でもないし、それに・・・・・・」

「飲み物、頼んで」

「・・・・・・は?」

「一杯飲んだら出るから。だからショットバーにしたの、わからない?」

 彼女の態度には腹が立ったが、僕は黙って酒を頼むことにした。「何か、アイラのシングルモルト、トワイスアップで」と僕は乾いた声でバーテンに言った。本当はウィスキーなど飲みたくなかったが、下手によくわからないカクテルを頼んで失敗するよりはいいだろうと思った。僕は彼女を見、これでいいだろう、と言った。彼女は何も言わず、ただ前を見ていた。目線の先には洗ったグラスが並んでいて、それがチラチラと間接照明を反射させていた。

「で、どうして僕を呼んだのかをまだ聞いてないな」

「・・・・・・早く飲みなさい」

「なあ、まだ届いてもいないよ」

 スミカは深くため息をついた。それから僕を横目で見、周りを見て、と小さな声で言った。僕はその指示に従い、周りを見た。が、特別目の引くものはないように思った。彼女が何を意図してそのような指示をしたのか、僕にはよくわからなかった。

「若くて、ラフな格好をしている人ばかりでしょ」

 僕はもう一度周りを見て、確かにその通りだと思った。実際、店内も普通のショットバーとは違って、少々騒がしかった。しかし、それが一体何だと言うのか、わからなかった。

「それがどうしたんだよ?」

「あとで言うわ」と彼女は不機嫌そうに言った。「早く、飲んで」

 ウィスキーが届くと、僕はすぐにそれを飲み干した。そういう飲み方は嫌いだったが、スミカの視線が痛く、とても悠長に飲んではいられなかった。お前は飲まないのか、と少し残ったカクテルを見て言ってみたが、彼女は返事をせず、ただスマートフォンの画面を眺めているだけだった。その時ふと、「お前」という言葉は、酷く男性的なものだと思った。緊張から思考がどうでもいい方向へと走ったらしく、僕はしばらく、「お前」という言葉の響きについて考えた。

 スミカはとどめを刺すように残りのカクテルを飲み干し、立ち上がった。僕は彼女に千円札を渡し、会計は頼む、と言った。先に店を出て、外で彼女を待った。彼女が来るまでの短い間に、幾つかの人間が流れていくのを見ていた。僕は通り過ぎていく彼らの歩んできた人生を考え、そこに勝手にピリオドを打つのを想像した。気怠そうに歩いている金髪の男、お前は明日突然道路から突っ込んできた車にはねられて死ぬんだ、といったように。イヤフォンを耳に差し込んだ女、お前はそれなりに幸せな結婚をするが、息子が八歳の時に乳がんで死ぬな、可哀そうだけど、幸せには賞味期限がある、当たり前の話だろ、脂っぽい髪がおでこに張り付いている男、その身なりじゃ、周りのみんなから嫌われているだろうけど、お前みたいなやつに限って長く生きるんだ、だから、きっと老衰だろうな、理不尽だよな、早く死ねばいいよ、お前なんて、そうだろ、おい、ゲラゲラ笑いながら歩く下品な女、お前はきっとロクな死に方じゃない、そうだな、きっと男にぼろ雑巾みたくされて、薬漬けになった挙句、五年後に自殺だ、うん、まあ、どうでもいいけどな、でも、いつかお前ら全員死ぬよ、いつかな、本当だよ、僕は嘘はつかないんだ、いや、まあ、つくけどな、でも、これは本当だよ、僕はそういう嘘はつかない、うん・・・・・・。

「行こう」

 と、突然声がした。僕は驚き、振り返った。すると、そこにはスミカが立っていた。彼女は僕を睨み、何よ、と言った。いいや、なんでもない、と僕は首を振った。心臓が不自然な鼓動を打ち鳴らしていて、それを止めるのに時間がかかった。

「どこに行くんだ?」と僕はやっとのことで言った。「場所は決まってるのか?」

「ねえ」

「・・・・・・何?」

「私、あそこで売春したの」と彼女は言った。「・・・・・・だから、若い人が多いって言ったのよ、あそこはね、セックス屋さんなのよ、本当よ」

「なんだよ、だから僕をあそこに呼んだのか? 」

「嫌だった?」

「嫌っていうか・・・・・・」僕はその先の言葉を探したが、上手い具合に言葉は見つからなかった。「なんていうか、そういうわけではないけど。なんだろう、よくわからないというか・・・・・・理解しがたいんだよ、わかるだろ?」

 すると、スミカは突然、迷いなく歩き出した。彼女の進む先はどうやらホテル街だった。おそらく彼女はそこで売春をしたのだろう、と僕は考えた。先に見える、夜の帳が下りた街で妖しく煌めくホテル群は、確かにその中で売春が行われていてもおかしくない感じがあった。金を受け取り、汚い男に抱かれる若い女を想像した。賢い女は後払いを約束に売春はしない、と僕は聞いたことがあった。やり逃げされたところで、彼女らは売春をしている時点で、警察に相談などできないからだ。彼女らは先に金を手に入れ、その後どういう気持ちで男に抱かれているのだろう、と僕は考えた。が、そんなことは考えるだけ無駄なことだとすぐに思った。僕には僕の論理があり、彼女らには彼女らの論理がある、たったそれだけのことだ。

 ピンク色のそれらしい光を放つホテルを通りすぎると、スミカは立ち止まった。僕はそのすぐ後ろを歩いていたので、突然のことに反応できなく、彼女の背中にぶつかった。どうしたんだよ、と僕は言った。が、彼女はそれを無視し、ただその場に立ち尽くしていた。僕はもう一度、どうしたのかと訊いた。彼女は黙っていた。僕は腕を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。

「やめて」

 スミカは冷たい声で言った。僕はそっと手を放し、引いた。彼女の衣服の感じと、その下にある細い腕の感触が、掌に残っていた。

「なあ、どうしたんだよ、こんな場所で止まって」

「別に」

 もしかすると、僕はこれから、彼女が用意した用心棒か何かに殴られるのかもしれない、と思った。それならば連絡先を交換したことにも納得できる、と思った。僕は、先の建物と建物の間の暗い路地を見、そこに誰かが隠れていることを思った。白い息を吐き、思考を粘土のようにまとまらせた。寒さのせいか、それとも恐怖を感じているのか、震える声で僕は言った。

「・・・・・・いまだにお前の目的もわからないしさ。・・・・・・なあ、なんのために僕を呼びつけたんだよ? 鬱陶しいストーカーを懲らしめるなら、もっと裏の路地みたいな場所を選べよ、そこなら男を隠せるし、暴行も見つからないだろ・・・・・・なんだよ、それとも――」

「勘違いしないでほしいけど」と彼女は僕の言葉を遮って言った。「別にあなたを懲らしめようってわけではないから」

「だったら目的を言ってくれよ、じゃなきゃ意味がわからないよ」

「ただ、なんとなく呼んだだけ。別にいいでしょ、あなたなら絶対来るの、わかっていたもの」

「いまいちよくわからないな。なんとなくで呼ぶほど僕たちって・・・・・・」

「ねえ、私、友達っていないの。なんとなくわかるでしょ」

 スミカはそう言い切り、向き直った。彼女の背中が、僕を睨んでいると思った。ホテル街の端で、辺りは薄暗かった。若い女が、くたびれたスーツを着た中年の男の手を引き、歩いていた。女の口は笑っていたが、目は芯が腐っていた。僕はそれを見て、スミカとその女を重ね合わせた。しかし、彼女は、一人とたまたまそういう関係になっただけだ、と話していたことを思い出した。僕は、彼女は嘘をついていただろうか、と考えたが、よくわからなかった。彼女を理解しようとすることは、宇宙を知ろうとすることに等しいように感じられた。僕の中には、想像で補われた彼女が、宇宙のように存在していると思った。そして、それは限りなく真実に近い形をしているのだ。

「・・・・・・友達がいないから」と僕は言った。「だから、僕を呼んだのか、その、つまり、寂しい夜を過ごさないために?」

 そう言ってから、自分が馬鹿らしくなった。僕は彼女の背中を見つめながら、ははは、と笑った。僕の乾いた笑いは、冷たい空気にいつまでもこびり付いていた。

「・・・・・・あなた、お金を払ってセックスをしたこと、ある?」

 スミカは振り返り、そう言った。

「・・・・・・は?」

「女の子を買ったことがあるかって聞いているの」

 静かに息をし、それから言った。

「・・・・・・ソープに行ったことなら、あるけど」

「どうだった?」

「どうだったって?」

「初めてそういう場所に行ったとき、何も思わなかったの?」

 そう言われ、僕は初めて風俗に行ったときのことを思い返した。そして、思いついた言葉を少しずつ吐き出していった。

「・・・・・・初めて行ったときは、ひどい気持ちだった」と僕は話し始めた。「・・・・・・いいや、別に金を払ってやるのが嫌ってわけじゃない。なんて言えばいいのかな、ただ、相手の女が奇麗だったんだ、驚くほどに。値段も安かったし、なんでこんなきれいな子が、と思った。・・・・・・なあ、だってそんな奇麗な子なら、体を売らなくたって幸せになる方法はいくらでもあるだろう、実際? ・・・・・・で、いざやるとき、気付いた、腹に傷があるんだ。・・・・・・多分、帝王切開の痕だ。その女、子供がいるか、過去にいたか、そのどっちかだったんだ。・・・・・・それで、嫌な気になった。その子供が生きているかなんてわからないし、いいや、多分死んでいただろうな、なんとなく、そんな気がする。僕はさ、誰かの母親を抱くなんて、嫌だったんだ、でも、やらないわけにはいかなかったし、お金も払っていたしさ、それで・・・・・・」

 僕は息をついた。

「・・・・・・そんなところだ。・・・・・・なあ、なんでこんなことを訊く?」

 僕はスミカの目を見つめ、そう尋ねた。彼女は僕の足元あたりを見つめ、黙っていた。口をついて出かかった言葉を嚥下するように、喉が上下するのがわかった。

「・・・・・・今日、寝る予定だったの、男と」そう言うと、スミカは鼻で笑った。「・・・・・・でも、キャンセル。予定があるの思い出したって。別にいいけどさ、少し手持ち無沙汰だったのよ。だから、あなたを呼んだの、なんとなくね」

「その、前言ってた、関係を持った一人か?」

「ええ」

 スミカは頷き、それから白い息を吐いた。

「この先に、公園があるの」とスミカは言った。「・・・・・・そこまで、歩かない?」

 公園、という言葉に、僕の心よりも早く、体が反応した。内臓が重たくなったように感じ、毛穴が縮んだように感じた。冷たい汗が流れ、喉が渇いた。ああ、と僕は返事をしたが、声は自分のものと思えないほど、震えていた。

「公園の近くに、私の家があるから。だから、行こう。・・・・・・でも、寝ることはないから、・・・・・・そこはわかってほしいけど」

 僕は自分の持っている五万円のことを考え、もちろん、わかってるさ、と言った。ポケットの中で小銭入れを弄んだ。ポケットの中で三万と少しの金が揺れていると思い、僕はそれが不思議だと思った。僕は自分の抱えた汚い欲望や、期待を振るい落とすように、体をゆすった。それが寒さに震えるような恰好になり、滑稽だと思った。

 僕らは歩き始めた。冬だからだろうか、夜は一秒ごとに深まっていくように感じた。星の輝きが大きくて、空は明るいように感じた。が、その光の影となった路地に、夜は確かに存在していた。夜の底に沈殿した濃密な闇が、まるで何かの暗喩のようだった。

 コンビニエンスストアを通り過ぎ、住宅街に入った。僕は赤子を見つけたあの日のことを思い出した。家々の、カーテンを閉めた窓から漏れる僅かな光を見た。僕は素早く瞬きをし、その光を網膜に閉じ込めてしまおうと思った。が、それは上手くいかない。目をつむっても、そこには暗闇しか残らなかった。

「セックスフレンドは、どうあればいいのかな」とスミカは突然言った。「・・・・・・だって、今日も、ドタキャンでしょ。・・・・・・ねえ、でも、それを嫌だって言ったら、捨てられる運命だと思わない? だって、セフレなんて、都合のよさだけが取り柄だし」

「さあ・・・・・・でも、それが嫌なら今の関係を――」

「一度、お金は要らないから、やろう、って言ったことがあるの」スミカは僕の言葉を遮った。「・・・・・・で、なんて言われたと思う?」

「さあ・・・・・・」

「『金を払わずにお前は抱けない』だって。『金を払わなかったら、愛してやらなきゃいけない。・・・・・・俺とお前は、そういうんじゃない。俺たちは、これ以上踏み越えるべきじゃないよ』ってね」

 僕は先に続く道と、それをぼんやりと照らす街灯を見、それからスミカを見た。

「僕にはわからない。・・・・・・でも、確かに、それ以上を望むべきじゃない、というのは、そうかもしれないな。いや、わからないけど、でも、そんな気がする」

「やっぱ、そうよね」

「・・・・・・あくまで、僕の意見だ、あまり流されない方がいい」 

「そうだけど、それは私もずっと思ってきたことだから」

「そうか」と僕は適当に返事をした。首を振り、前髪を揺らした。

 僕もスミカも、黙っていた。僕らの間には二メートルほどの間隔が空いており、そこには重たい沈黙が敷き詰められているように思った。

「そこ、左に曲がったら、公園。・・・・・・公園の向かいに、私のアパートがあるから」

 僕は何も言わず、ただ彼女の後ろを歩いた。言われたように道を左に曲がると、赤子を見つけた公園よりも少し奇麗な公園が現れた。しかし、子供のいない公園というのは、ただ薄気味悪く、その実状よりも幾らか錆びれて見えた。

「ほら、あそこ」とスミカは白い壁のアパートを指さした。

「ああ」

「・・・・・・セックスはしないからね、わかってるよね」

 スミカは、もう一度、念を押した。

「わかっているさ」

 僕は彼女に言うというよりは、自分に言い聞かせるようにして、そう言った。

 ふと、彼女の中には、雨の中を静かに燃える森のような、静謐な怒りがあるのだと思った。そして、その炎は消し難く、しかし明確な形を持たないまま、少しずつ自らを燃やしていくのだ。

  

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