第18話 見習い天使は夢の中

――「お母さん! 見て見て見てー! ほら、わたし、天使になるんだよー!」

――「結愛、あんなに元気だったのに……、うううっ」

――「お母さん! ねえねえねえ! なんで泣いてるの? こっち見てよー!」

――「おねえちゃーん、えーん、バレエ教えてくれるって言ったのにー。うわーん」

――「ユノ! わたし、ここにいるよ! バレエ教えてあげるから! 泣かないで!」

――「おねえちゃん、なんで死んじゃったの?」「結愛ー!」

――「ユノ! お母さん!」



――「教官……」

――「どうした、ユア。いつもの元気がないじゃないか」

――「わたし、天使になれたのに、……喜んでくれなかったんです。お母さんも、ユノも。せっかく天使になれたのに、お母さんもユノもわたしの写真の前で泣いてばっかりなんです。……わたしが声かけても、気づいてもくれなかったんです。……わたし、どうしたらいいか、わからなくなっちゃったんです。ぐすん」

――「ユア! 君は人間界に行ったのかね! まだ見習い天使六級になったばかりなのに!」

――「天使になれたよー、って言いたかったんです。みんなの願いをかなえられるんだよー、って伝えたかったんです。でも、でも、泣いてばっかりなんです。お母さんもユノも泣いてばっかりなんです! わたし、悲しいです。天使になれたのに、悲しいです!」

――「なんてことをしたんだ、ユア! それは天上界では重罪なんだぞ。こりゃいかん。アリス、今から熾天使卿に謁見に行く。すぐアポを入れてくれ」


 ◇


――「サイオンジくん、ユアの今回の行動は、天上界規則チャプターF40の11Bで禁じられた『見習い期間中の人間界への接触行為』の疑いがある。違反者はチャプターF41の定めにより冥界送りだ」

――「ま、待ってください、熾天使卿! ユアは必ずいい天使になります。純粋で、まっすぐで、人の願いを一番に考えています! 何百体もの見習い天使たちを教えて来た私が保証します! ですから、冥界送りだけはお赦しいただけないでしょうか」

――「決まりは決まりだ。天上界のルールをそう簡単に変えるわけにはいかないことは君も分かっているだろう」

――「熾天使卿、では、ユアは……」

――「サイオンジくん、なぜ見習い天使たちは二級になるまで人間界に行ってはいけないことになっているか、知っているかね」

――「見習い天使になってからしばらくの間は、生前のしがらみが残っていることがあるからです」

――「そうだ。前世の因縁に縛られてしまっては天使としての活動が公平にできないからだ。見習い天使二級になるころには、生前のしがらみは大方消えている。それまで人間界には接触しないのがルールだ」

――「ユアは母親と妹が自分の生前の写真を見て泣いてばかりなのを、気にかけていました。他はなにもせずに戻ってきたと申しています。ユアは人間界の誰とも接触していませんでした」

――「そうか。であれば、罰しなければいけない理由はどこにもない。見習い中の天使が、特定の身内だけが有利になるように能力を使うこと、天上界規則チャプターF40の11Bはそれを禁じているのだからな」

――「ということは、ユアは冥界送りにはならないのですか! ありがとうございます、熾天使卿!」

――「天上界規則チャプターF40の11Bの決まり通りだ。余が礼を言われる筋合いはない。ただし、天上界規則チャプターH18の25Xの『見習い天使の活動可能ディシジョンの制限』違反であることには違いない。天上界規則チャプターH35の定めにより、ユアの生前の記憶は完全抹消コンプリートデリートしなければならないぞ」



 人間界のとある街。そのマンションのリビングには、乳白色の靄がかかったソフトな光を放つ不思議なライトが取り付けれていました。

 そのダウンライトの下で、天上界の琥珀色のお酒をちびちびと飲みながら、サイオンジ教官はバリトンの声を響かせて話しました。上着を脱ぎ、ベストにネクタイのリラックスした服装です。学ランの石塚健次郎くんとセーラー服の柊木千紘さんの前には、マグカップのコーヒーが湯気を立てています。

 ケンジローくんと柊木さんは、体力切れで倒れてしまったユアをおぶって天使のすみかに戻ってきました。天使のすみかに帰りつくとすぐ、アリスはユアを連れてお風呂に入りに行き、ケンジローくんと柊木さんは、リビングのソファーに腰かけて、サイオンジ教官と軽く挨拶を交わした後、話を聞いていたのでした。


「それでユアちゃんは生前のことをなにも覚えていないのですね」


 柊木さんが納得がいったという風に相槌を打って、マグカップのコーヒーに口をつけました。石塚くんも横で頷いています。


「ああ。天使たちの生前の記憶は、いずれ薄れて消えていくものだ。むしろ生前の記憶が強く残りすぎていると、人間界の実地研修中に重度のホームシックにかかって地縛霊のようになってしまう。それで天上界に戻ってこられなくなる見習い天使も多いのだよ。だからその時は、それぐらいの罰で済むのなら、と私は思った。しかし、ユアのためにそれで良かったのかどうかは、定かではない」


 石塚くんと柊木さんは神妙な顔をしています。石塚くんはおもむろに教官に尋ねました。


「冥界送りって死んでしまうことなんですか?」

「うむ、人間界で言うところの精霊に近いものになってしまう。しかし、天使の籍はなくなり天使としての活動は永遠にできなくなって、それはもはや天使とは言えない存在だ。天使としては死ぬのと同じだな」

「それなら、ユアは今、ひたむきに天使になろうと頑張っています。生前の記憶がなくても天使になれた方がいい、と俺は思います。サイオンジ教官やアリスさんも、今も生前、人間として暮らしていた時のこと、覚えてるんですか?」


 教官はグラスの氷をからんと揺らして、中の琥珀色のお酒を一口含みました。それで唇を湿らせてゆったりと答えます。


「覚えているぞ。もはやうっすらとしか思い出せないがな」


 そこへ長い髪をタオルで拭きながら白いパーカーのラフな格好で、お風呂上がりのアリスが戻ってきました。少し上気した顔でテーブルを囲む教官たちに言います。


「教官は生前はチャラ系凄腕エリートビジネスマンだったのですよ。信じられないかもしれないでしょうけどね。そんな教官の部下として働いていたのが、私。懐かしいですわね。今では思い出す機会もすっかりなくなってしまいましたわ」

「おお、アリス。ユアはどうしてる」

「『いやしの天上界入浴剤 ほっこりなごみの湯めぐり紀行』のおかげでバイタルは正常値に戻りましたわ。やっぱり有馬が一番効きますわね。ただ、まだ少し疲れが残っているみたいなので寝室で眠らせています。この分だと完全に回復するのは九時ちょっと過ぎになるかもしれません」

「そうか。しかし、相変わらずユアは無茶をする。ターゲットをよく調べないで、デビルイレイサーをぶっ放すなんて、前代未聞だよ」

「ユアもユアですけど、教官も銃火器で悪魔に対抗するのは最後の手段だ、とちゃんと教えていなかったのではないですか? ちょっと見習い天使育成カリキュラムの第四ステップを修正しないといけませんね」


 アリスは長い髪をふわりと振りながら言いました。


「悪魔に魂を食べられたり、悪魔の種を吸い込んでしまった人間には、まずはエンジェル・コンタクトから試してみるもんなんだがな。でもそれはユアたちにはちゃんと教えたぞ?」

「一回教えたぐらいで見習い天使たちが覚えているわけないじゃないですか。次からはエンジェル・コンタクトのレッスンを増やしましょう」


 アリスはケンジローくんたちの前に置いてあったタブレット端末を「ちょっとごめんなさい」と言って手に取ると、くるくると何か操作をし始めました。


「さて、じゃあ、次は私が風呂に入ろうかな」


 そう言ってサイオンジ教官は立ち上がりました。黒いドクターバッグの中から巾着に入った着替えを取り出すとアリスに声をかけます。


「何をしている、アリス。君ももう一度風呂に入るのだぞ、私と一緒に」


 サイオンジ教官がそう言った途端、轟音とともに稲光が走り、教官の身体がばちばちとスパークしました。


「うぎいいい、ア、アリス、冗談だよ、冗談。いきなり雷撃とかしないでくれないか」

「あら、教官、申し訳ございません。ちょっと手元が狂いましたわ。健全な青少年の前でクソくだらない冗談を言わないでいただけますか。二人は九時に学校に行かなくてはならないんです。教官は後にしてください。ケンジローくん、柊木さん、ちゃちゃっとお風呂入ってきてちょうだいね」


 にっこり微笑むアリスの言葉を聞いて、柊木さんははた目にはっきりわかるほど狼狽します。


「あ、あの、お風呂って、わ、私たちも入るんですか? な、なんでですか? アリスさん」

「あなたたち今から、悪魔と対峙するのよ? しかも今晩は満月の夜。お風呂に入って体力付けておかないともたないわ。大丈夫。あなたたちにもちゃんと天上界特製入浴剤の効果はあるから」

「で、でも、私、今日、なにも持っていません。ワセリンも、綿棒も……」


 戸惑う柊木さんのセリフを聞いて、アリスはニヤリと妖艶に笑います。


「柊木さん、誰もケンジローくんと一緒にお風呂に入れとは言ってないわ。順番に交代で入ればいいのよ。ざぶんと湯船につかるだけでいいからね」

「あ、そ、そうなんですか。よ、よかったです」


 そういうわりには少し残念そうな雰囲気で柊木さんは「じゃ、わたしが先に行ってくる」と言って立ち上がりました。そそくさとリビングを出ていこうとする柊木さんの背中に、ケンジローくんの叫び声が響き渡りました。


「待て、柊木! おまえ、俺と風呂に入って何するつもりだったんだよ!」

「柊木さん、ワセリンはないけど『天上界特製ローション 愛のエンジェルシルキーオイル』ならあるわよ? 使う? 綿棒は歯ブラシで代用できるんじゃないかしら?」

「アリスさん、そういうヤバいことを言って柊木を煽らないでください!」


 ◇


「アリスさん、お風呂、いただきました」


 お風呂から戻ってきた柊木さんは、ソファに腰かけてタブレットを操作しているアリスに声をかけました。ケンジローくんは柊木さんと入れ違いにお風呂に入りに行っています。教官はユアが眠っている寝室を覗きに席を外しています。リビングにはアリスと柊木の二人だけでした。


「柊木さん、これ、『初心者でも安心 悪魔退治グッズ・ベーシックパック五点セット』。ユアが目が覚めたらすぐ追いかけるけど、その前にドンパチが始まっちゃったらこれでしばらく耐えてね」


 アリスは、リビングの隅に置いてあるトランクから大きなビニール袋を取り出して柊木さんに渡して言いました。柊木さんはそれをそっと受け取ります。


「あ、分かりました。でも、悪魔と直接やり合うことはないと思うんですけど。私たち、悪魔を飼うのをやめるよう話をするだけのつもりですから」

「いいえ、悪魔は、飼っている人の周囲にわんさか出てくるわ。それを全部避けて悪魔を飼っている人とだけ話をするのは、まず無理。悪魔を飼っている人はえてして感情が大きく歪んでいるから、話がまともに通じると思ったらダメよ。この悪魔退治グッズベーシックパック、使い方は中に説明書が入っているけど、まあ、だいたい見れば分かると思うわ」

「分かりました」


 アリスの指摘は柔らかい表情に反して厳しい内容でした。柊木さんは緊張した面持ちでビニール袋の中身を改めます。


「そんなに難しいものはなさそうですもんね。バットとスプレーが二種類とほかにもいくつかグッズがありますね。ありがとうございます」


 アリスから渡されたビニール袋の中には、悪魔退治グッズが入っています。スプレーやバットは柊木さんも使ったことがあるものです。


「がんばってね。まあ、これも練習だと思って」

「あ、それなんですけど、私、ずっと不思議だったんです。どうして私と石塚にだけユアちゃんやアリスさんや教官が見えるのか」

「あら、ユアから聞いていないのね。あなたたち二人はノミニー候補者なのよ。だから私たち天使が見えて当然」

ノミニー候補者というのは天使になる候補者、ということですか」

「そう。言わば次に見習い天使になる人たち。見習い天使の見習い、みたいなもの。見習い天使はノミニー候補者を見つけてくるのも研修課題の一つなのよ。教官や私のような高位の天使が直接見つけることもあるんだけどね。ユアを見つけたのはサイオンジ教官よ」


 アリスは長い髪を払いながら答えます。柊木さんは常々疑問だったことの解答を得て、納得顔です。


「……やっぱり、そうなんですね。川田結愛さんのお母さんが言っていました。結愛さんは生前『一人でいるときも誰かと笑い合っているようだった』って。結愛さんはそのころからサイオンジ教官のことが見えていたのですね」

「そう。ユアは生前からずっと『人の願いをかなえる天使になりたい』と言っていたわ。ユアはある意味数百年に一人の、素晴らしい天使になれる素質を持つ少女。教官が惚れこむのも当然かもしれないわね」

「アリスさん……あの、私の推測が正しければ、もしかして、私たちももうすぐ……」


 アリスは手を止めて柊木さんをまっすぐ見つめなおしました。柊木さんの得た解答は、自分たちが天使のノミニー候補者であることでした。そしてその解答は、取りも直さず、ある一点に行きつくことになります。

 アリスはふうと軽く息をつくと、柊木さんのセリフに続けて答えます。それは柊木さんの推測に対する肯定でした。


「……おおむね柊木さんの推測通りよ。いずれユアがあなたたちに話をすると思うけど、聞いてあげてね」

「……そうだったんですか。やっぱりそういう運命、なんですね。……分かりました。アリスさん、一つお願いがあるんです。願い事、かなえていただけるんですよね?」



 天使のすみかの玄関でケンジローくんはスニーカーの靴紐をきりっと結び、立ち上がりました。その傍らで柊木さんがローファーに靴ベラを入れました。アリスがかまちに立って二人を見送っています。


「気を付けてね。小さい悪魔は大したことないけど、大きい悪魔が出るかもしれないから。それは私たちに任せて。ユアが目を覚ましたら私たちもすぐ行くわ」

「分かりました」


ケンジローくんが凛と答えます。


「悪魔退治はユアに任せます。その前に、俺が、直接ケリを付けておきます」

「石塚、覚悟は、できてる?」


 柊木さんが靴ベラを壁のフックに戻して言いました。その手にはアリスからもらった悪魔退治グッズ。


「もちろん。じゃあ行ってきます。行くぞ、柊木!」

「オッケー。行ってきます、アリスさん」


 石塚くんと柊木さんは軽くグータッチを交わすと、勢いよく天使のすみかのドアを開けて、月夜の外に出て行きました。

 二人の後ろ姿を見送ったアリスはドアを閉めてつぶやきます。


「ふふふ、いいコンビね。あの二人。この先、楽しみだわ。教官! いつまでお風呂に入ってるんですか! 二人とも行っちゃいましたよ!」




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