第12話 見習い天使の雲隠れ (1)
その場所は、俺にとって非常に居心地が悪かった。
かつてないほどの尻のすわりの悪さだ。思いあたる理由はいくつもある。
でかくてきれいな家の、オニのように広い、それこそ二人並んで踊れるほどの広さのリビングに通されたこと。
それが一つめの理由だ。川田さんの家は、モダンでシンプルな外見からは想像もできない広さだった。奥行きのあるリビング、高い天井、センスのいい家具、落ち着いた照明。ちょっとゴージャスすぎんじゃね?
そして、お上品な紅茶を飲み、上等そうなケーキを食べていること、それが二つめ。
華やいだ雰囲気の川田さんのお母さんが「あら、由乃がお友達を連れてくるなんて珍しいわね。ゆっくりしていってちょうだいね」とにこやかに迎えてくれて、広いリビングに通されたのはさっき言ったとおりだ。
そこで出されたケーキが、見た目どおりとてもおいしかったのだが、俺が食べるにはあまりにファンシーで場違い感が半端ない。
うーん、なんというか、先輩女子の家にほいほい入ってしまった俺も俺だが、なんの抵抗もなく「お友達」のひとくくりで俺たちを迎え入れたお母さんもお母さんだと思うんだよな。柊木も最初は「わあ、すごいおうちですね」と驚いた様子だったのに、ものの数分で馴染んでしまって、今は涼しい顔をしてフォークでケーキのいちごを突き刺している。
さらに三つめは、目の前の書棚に、これでもかと並べられた金や銀のトロフィーと賞状の数々に威圧されたこと。なんだか、とにかくすごい。いくつかは昨年のダンスの全国大会のものだろうことは容易に想像がつくが、それにしても大量だ。トロフィーもあるし賞状もある。
それに加えて四つめに、ソファーに川田さん、柊木、俺の順に並んで座っているところで、柊木が少し動くたびに腰やふとももがときどき俺にあたること。
なんとなれば、むにむにという感触とともにシャンプーの匂いとかが漂ってきたりして、いや、ちょ、あんま近寄んな、柊木、とか慌ててしまう。そんなんで意識してしまう俺もたいがいアレなんだが。
そして極めつけの五つめ、一番俺の居心地を破壊しているのが、川田さんと柊木がきゃあきゃあと嬌声を上げながら見ている薄い漫画本。
「ほらほら、これ。ちひろちゃん、見て見て見て! このシーンとか刺激マックスじゃない? やっぱ触手だよね? ね? ね?」
「いやあん、触手かわいいですっ!」
お母さんが紅茶とケーキを出してくれている間に、川田さんは自室に着替えに行った。白のスウェットパーカーを来て戻って来たときにいっしょに持ってきたのが、パンフレットと呼ぶ方がイメージに近い、薄い本だった。その表紙には筋骨隆々のガチムチだったり、スリムで背の高いイケメンだったり、年端のいかない少年だったり、熊のような毛むくじゃらだったり、いろんな男子の裸の絵。つまり女子向けのエロ本だった。なに考えてんですか、川田さん! 触手がかわいいとか、どういうことだよ、柊木、説明しろ! あ、いや、やっぱやめとく。説明してくれなくていい。
二人は俺の存在を完全に無視して「うわー」とか「きゃー」とか「なにこれー」とか言いながら、嬉々としてページをめくり続けていた。こいつら、ヤバい。ガチで。
「うわー、これ、すっっっごいです!」
柊木が感嘆の声とともに、まじまじと穴があくほど本を見つめた。なにがすっっっごいです、だ、柊木! エロ本読んで興奮するのは男子だけだと思っていたが、大きな間違いだった。川田さんも、柊木もいい加減にしろよ。
女子二人で盛り上がっていて、しかもそれが男子禁制の題材であるなら、必然的に俺は手持ち無沙汰にならざるを得ない。書棚に並んだトロフィーと賞状の数々を眺めるともなしに眺めていた。
「平成〇年度 第〇回 クラシックバレエコンクール小学生の部 銀賞 川田由乃」
へえ、川田さん、クラシックバレエで銀賞取るほどの腕前だったのか。他のダンス部員と身のこなしが違うなあと思ってたけど、どおりで。なるほど、納得できる。
しかし、書棚をよく見ると、同じコンクールの賞状が二枚ずつあるように見える。一枚は手前に出してあるが、もう一枚は少し後ろに隠れるようにひっそりと。トロフィーも同じ形の色違いが二本ずつあるように見えるのだけど、もうちょっと近寄らないと細かい字までは読み取れない。俺はそこまで視力よくない。
「あのー、これ何冊かお借りしたらいけないですか?」
ごく丁寧にお願いしているが、柊木が手に取った薄い本は、畳に敷かれた布団の上で切れ長の瞳の美少年が、全裸でしなを作っている表紙。そこに書かれていたタイトルを目にして、俺はぴしりと凍り付いた。
ーーーオニ! 鬼畜! 外道! 地獄の柔肌尿道攻め!
「おい、ひ、柊木! お、おまえ、そんなの読むのか!?」
柊木が手にしているカラー表紙のあまりのインパクトに、俺は思わず声をあげてしまった。柊木は上気した顔で俺をにらみつける。しばし視線が合った柊木が生唾をのみ込んだのが分かった。そして、視線は俺の胸から腰へと降りていく。
ぞぞぞぞぞ、と悪寒が走った。柊木が俺をなめるように見回して、ぼそっとつぶやいた。
「石塚も、……案外行けるかも。ちょっとひいひい言ってみようかな、とか思わない?」
「や、やめてくれ、柊木! 今、俺を見て何想像した? 正直に言ってみろよ!!」
「……なんでもない」
「嘘つけ!」
少し正気を取り戻した柊木が、あわてた様子で顔を赤くして、今さらながら恥じ入った。
「なによ! 男子だって女子見てエロいこと妄想してるんでしょ! それぐらい、いいじゃない!」
ついに柊木は逆ギレしだした。いや、たしかに女子のエロい姿妄想はよくやってはいるが、いざ自分がやられてみるとキモいなんてもんじゃないな。おぞましい。
「あー、ちひろちゃん、それの主人公、えーきちくんっていうの。気に入った? いいでしょ? いいでしょ? いいでしょ? えーきちくんの受けが好みなのね? 攻めは誰がいい? カップリング固定なの? 右固定なの? 左固定なの? どれでもあるわよ! 持ってきてあげるね!」
川田さんは俺には理解できない問いを発して、柊木の返事も聞かずに、嬉々としてリビングを出て行ってしまった。まさに踊るように。
この人、ヤバすぎる。悪魔退治スプレーの副作用だとしても、このヤバさは突き抜けている。
後に残された俺たちは無言。お互いを視界の端に留めながらも、器用に視線を合わせなかった。すごい気まずい。柊木もさすがに俺を直視できないのか、ぷいと横を向いたままぞんざいにつぶやく。
「石塚、あの、ご、ごめん。私、ちょっと調子乗りすぎた、かも」
「……まあ、いいけどさ。普段はあんま公にしてない趣味で、同好の士が見つかったんだ。嬉しくなるのは分かる」
「私、この趣味のせいで中学生の時にクラスでキモがられてさ。川田さんとまさかこんなにオープンにBLのこと、話せるとは思ってなくて。うちの学校のイラ研でも、わりとみんなまじめなイラストしか描かないから」
「ああ、それでなんとなくみんなを避けてた感じだったのか。まあ気にしないでいい。だけどさ、それ系の本と俺の裸、想像上だけでもオーバーラップすんの、マジやめてくんない?」
柊木はそっぽを向いたまま首筋を赤らめて頷いた。
「それは、ホント、ごめんって。でも男子も女子見てそういう想像してるんでしょ?」
「まあ、やってないとは言い切れない」
柊木は少し伏し目がちに視線を俺に戻した。しばらくぶりに柊木と目が合った。
「じゃ、それでおあいこ。それよりさ、石塚。ユアちゃん、どうして一緒に来なかったのよ。いつの間にかいなくなってるし」
「さっきここに来る途中でまた悪魔が出たんだよ。ごく小さいのだったけど。それを退治したら、気になることがあるって言って先に帰ったんだ」
「そうなんだ」
会話が途切れると、どうにも気まずい沈黙が俺たちを包む。あー、苦手なんだよなあ。こういう間。どうしようかと思って柊木に目を向けると、柊木も同じことを考えていたのだろう。「あのさ」とだけ言って、慌てて視線を外した。
そんな俺たちの致命的にこわばったシチュエーションを救ってくれたのは、川田さんのお母さんだった。俺たちが何もない空間に向かってばらばらに顔を向けているところに、お盆を持って入ってきたお母さんは「お紅茶、もう一杯お持ちしましょうか?」といいながら、丁寧な仕草でケーキ皿を片付け始めた。
「あ、いえ、ありがとうございました。おいしかったです」
柊木が居住まいを正して礼を言った。俺も「ごちそうさまでした」と頭を下げる。なんにしろ、間を持たせてくれてよかった。
考えてみたら、柊木とはここのところ一緒にいる時間が激しく増えたとはいえ、これまでさほど接点があったわけではない。そんな柊木と二人になって、俺が上手く場を持たせられるわけがない。そこまで俺にコミュ力を求めるのは酷だ。今までなんとなく場が繋がってたのは、俺と柊木の間に必ずユアがいて、常に何かしらの会話を提供してくれていたからだ。
「由乃はお友達を置いてどこへ行っちゃったのかしらね。あの子、どちらかというと引っ込み思案だからいろいろ心配なのよ。お友達が来てくれて私も嬉しいわ」
へえ。川田さん、引っ込み思案なのか。ここまでを見た限り、とてもそうは思えないが、あの大暴走会話は悪魔退治スプレーをもろに浴びた副作用なんだろう。柊木が慌ててテーブルの上に散らばるケーキ皿を三つ取りまとめてお盆に返した。カチャとフォークが音を立てている。
「まあ、手伝ってくれてありがとう」
お母さんはにっこり笑ってうなづいた。そう言えばよく見ると川田さんの面影がある。あ、逆か。川田さんにお母さんの面影がある、だな。お母さんの動作は一つ一つが優雅で、それに加えて貫禄があった。
「いえ、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
柊木が殊勝なことを言っている。柊木の清楚な面立ちによく似合った上品さではあるが、俺はすでにこいつの本性を知ってしまっていた。ネコかぶりもはなはだしい。
とはいえ、俺もここでなにかスモールトークを入れておくべきだ。俺はとっさに思いついた話題を振ってみた。
「あ、あの、川田さんって、クラシックバレエやってらしたんですか。トロフィーがたくさんあって、すごいなあと思って。俺、尊敬しています、川田さんのこと。学校でもダンス部の四天王と言われて、有名人ですから」
「ふふふ、あの子、イマドキのダンスの方が向いてたのね。クラシックバレエでもコンクールでよく賞を取ってはいたけど、どうしてもお姉ちゃん、由乃の姉、には勝てなかったのよ。あそこの書棚にあるトロフィーの半分以上はお姉ちゃんのものなの」
「あ、そうなんですか」
へえ、川田さん、お姉さんがいるのか。姉妹でクラシックバレエ。優雅だなあ。そんな話をしているところに、ぱたぱたと踊るような足取りで川田さんが戻ってきた。手には怪しげな薄い本を十数冊抱えている。
「ちひろちゃん、ほら、これ! まだ他にもあるけど、とりあえずおススメだけ持ってきたよ! 特にこの『執事の菊門は甘美すぎて』はイチオシ! この執事がね、渋坂先生に似てるの!」
「こら、由乃。またそんなに漫画を持ってきて。ごめんなさいね、この子、漫画が好きで」
お母さん、漫画が問題じゃないんですよ……。
「いいえ、お母さん。私も漫画好きなんです!」
いや、柊木、お前が好きなのはただの漫画じゃないだろう!
お母さんはお盆をテーブルに残し、書棚の中から一枚の写真たてを取り出してきて、俺たちに見せた。小学生の女子が二人、一人はティアラをかぶり、金色のトロフィーを持っている。もう一人は銀色のトロフィーを持っている。
「あー、お母さん、また懐かしいものを出してきたね」
「ふふふ、これは小学校四年生の由乃がコンクールで銀賞を取った時の写真よ。お姉ちゃんが金賞で、由乃が銀賞。川田姉妹のワンツーフィニッシュだったのよ。お母さん、この時が一番うれしかったわ」
「まだこの時はお姉ちゃん、元気だったもんね」
元気だった? 俺は引っかかるものを感じた。
お母さんは柊木に写真を手渡した。「へえー、由乃さん、かわいいですね」と言いながら写真をにこやかに見た柊木。突然驚きに目を見開いて、さっと青ざめた。柊木の手元を覗き込んで写真を見た俺も、金のトロフィーを持って誇らしげに笑っている少女の姿を見て、呼吸が止まる。
―――ここ数日、俺たちの周りで元気に飛び回っている、自称見習い天使の、ユアそのものの姿の少女が、そこには映っていた。
「石塚、これってどう見ても……」
「ああ、これ、間違いないな」
震える声で俺たちが交わした言葉は、川田さん母娘には聞こえていない。母娘はとつとつと家族の思い出話に浸っている。
「お姉ちゃんの出た最後の大会だね。入院したの、この大会のあとだったもんね」
「ホントに急だったわよね。とっても元気だったのに。一人でいるときも誰かと笑い合ってるのかと、お母さん、何度も思ったわ」
涙ぐむお母さんに柊木がおそるおそるという感じで、核心に関わる問いを投げかけた。
「あ、あの、由乃さんのお姉さんって、今はどうなさってるんです?」
お母さんはぐすっと鼻を鳴らして答える。
「十一歳で亡くなったのよ。原因不明の急病で。どこまでも明るい、ひまわりのような子だったのよ……」
「あの、違ってたらごめんなさい。もしかして、お姉さんは、……ユアさんというお名前だったのではないですか?」
柊木の問いに川田さんが驚きの声を上げた。
「よく知ってるね、ちひろちゃん。私、話したことあったっけ? お姉ちゃんのこと。ああ、書棚の賞状の名前を見たのかな?」
俺と柊木は凍り付く。
「いつも元気で、踊りが上手で、私の憧れの、大好きな、私のお姉ちゃん―――」
俺たちとは対照的に、川田さんは懐かしさと、親愛の念と、一抹の寂しさをこめて、はっきりとその名前を口にした。
「―――川田
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