第7話 見習い天使も楽じゃない (1)
数日後。
1時間目、世界史。
「えー、ですからー、十九世紀の終盤から二十世紀初頭にかけて日本は明治維新が発生して近代国家へとなって行ったわけですが」
「つまんないですー。言葉が難しすぎますー」
「同じころのヨーロッパの動き、難しいですが、分かってくると面白いですから。よく覚えてくださいね」
「ぜーんぜん、面白くないですー。ねねね、ケン。ケンの教科書の落書きの方がよっぽど面白いですよねー」
「……」
「フランスでは長かったフランス革命から始まった国体の混乱がやっと収まって共和制の体制が固まってきました。ドイツでは逆にオーストリアも含めた統一ドイツ帝国でガチガチの帝政期、イギリスは大英帝国全盛期で、パックスブリタニカと呼ばれていました」
「ねえねえ、ケン。今朝、少し雨が降ったでしょ? あの雨はこないだわたしが降らせた雨なんですよー。時間かかりましたけどねー」
「……」
「ところで、ケンは今日のお昼ご飯なに食べるんですか? ちいちゃんはお弁当だそうですよ。コンビニのサンドイッチなんですかー。ちいちゃんは自分でお弁当作って持ってきてるんですって」
「……」
「ここテストで出ますから、よく覚えてください。石塚くん、さっきからなにガサゴソやってるんですか? ハエでもいるんですか?」
「あ、すみません、先生。ハエよりももっとうるせーのがいるんです」
「えー、どこにハエなんていますー?」
「……ばか、おまえのことだよ」
2時間目。英語。
「ここのthatは関係代名詞だから。これを間違えると訳がぶっ飛ぶぞ、気を付けるようにな! 正解は『私たちが目にしたきらきらした星の目指すところは、永遠の平和の地だった』だぞ。じゃあ次の五番を、出席番号二十一番の平井さん、訳してみて」
「え? きらきら星ですか? わたし、きらきら星歌えますよ! 英語で。トゥインクルトゥインクルリトルスター、ハウアイワンダー ワッチューアー♪」
「……」
「どうです? 上手くないです? わたし歌も行けるでしょ? ユア、歌って踊れるアイドル天使、めざしてまーす!」
「おい、石塚、さっきからえらい不機嫌そうだな。どうかしたか? 体調でも悪いのか?」
3時間目。数学。
「この二次関数のグラフがX軸と交わるところ、これを交点といいますが、よく見ると、これがこの二次方程式の解になってることが分かりますよね。グラフは二次関数のこの一番最後の数字が増えると上に動き、減ると下に動きます。それにつれて解も数字が変わっていくのが感覚的に分かりますよね。これがグラフのいいところです」
「ぜーんぜん、分かんないですー。それよりケン、お昼、ちいちゃんといっしょに桜の木のベンチで食べましょうよ。ねえねえ、ケンったらー」
「……」
4時間目。書道。
「はい、それでは課題字、ポイントに注意してニ十分で書きあげてください。始め」
「へー、高校生でも習字やるんですかー。あー、ケン、字ヘタですねー。わたしが手伝ってあげましょうか?」
「……」
「なんて書いてるんですか? ごがつばえ? ごがつばえってなんなんですか? ねえねえ」
「おい、石塚、課題字は『五月雨』だ。『五月蠅』じゃないぞ。面白い間違いするなあ、おまえは」
「……先生すみません。間違えちゃいました」
「しょうがないな。もう一枚あげるから、書き直しなさい」
「あー、ケン、間違えちゃったんですかー。あははは、どんくさいですねー。なににらんでるんですか?」
◇
四時間目のチャイムが鳴ると同時に、俺は柊木の机にダッシュで移動した。
「柊木、ちょっと、桜の木のとこでも行かねーか?」
柊木は笑いをこらえるのに必死の様子だった。あー、こいつ、さては気が付いてて知らんふりしてやがったな。
「……はいはい、ふふふ。石塚の言いたいことはよく分かるよ。今行くからちょっと待ってて」
俺は後ろを見ずに教室を出た。後ろから遅れてユアと柊木がとことこと追いかけてくる。
「やっとお昼ですねー。ちいちゃん、早くお弁当食べに行きましょう! 高校生のお勉強、大変ですねー。わたし、先生の話、全然分かんなかったですー」
「ふふふ、石塚、相当苦労してたわね」
「聞こえてたのかよ」
「そりゃあ、ユアちゃんの声、大きいんだもん。ぜーんぶ聞こえてたわよ」
「それなら、助けるか、たしなめるか、引き取るか、どれか一つぐらいしてくれよ! うるさすぎて授業どころじゃなかったぜ、まったく」
「できるわけないじゃない、授業中なのに。休み時間に声かけようかなと思ったけどさ。ユアちゃん、楽しそうだったから、まあいいかな、と思ってさ」
柊木の含み笑いを背中に聞きながら、廊下を突き進む。とにかく一刻も早く、他の生徒のいないところに行きたい。そしてユアをどやしつけてやりたい!
午前中はずーっとユアのトークショーに付き合って、いい加減うんざりだよ。
この学校でユアのことが見えるのは、それとなく周囲に聞いてみた限り、どうやら俺と柊木の二人だけらしい。だとしたら、せめて半分ぐらいは柊木もユアの面倒を見るべきだ。
ユアはここのところ、柊木と一緒に登校し、授業が始まるといなくなって、放課後になるとまた姿を現すというのが行動パターンだった。ところが今日は登校してきて、そのまま授業中も教室に居ついていた。
これがまたとにかくノイジーなことこの上ない。ユアは周囲に自分の姿が見えず、声も聞こえないのをいいことに、授業中とめどなくおしゃべりの絨毯爆撃を浴びせかけてきて、その様子はさながら火山から流れ出す溶岩流だ。
しかし、悲しいことに俺にはユアのおしゃべり爆撃を咎める手段がまったくなかった。不用意にユアに「静かにしろよ!」と注意すればソッコーで教師からにらまれてしまう。
俺もそんなに勉強熱心な方ではないが、あのでかい声でずっと話しかけられ続けてみろ。シャレにならないぜ。授業中に昼寝もできやしない。しかも、こっちは一切声が出せない状況だぜ? 一方的にユアの声を浴び続けるしかできない。これじゃあ立派な拷問だ。こんなの不公平だろ!
俺は、朝ファミマで買ったサンドイッチとパンを持って、どすどすとひたすら廊下を突き進んだ。廊下を曲がって昇降口の下足箱が目に入ったところで、女子とぶつかった。
それほど勢いがなかったのと、当たったのが俺の胸と女子の肩だったことが幸いだった。女子はちょっとよろけただけで、別段怪我などはなさそうだ。あらためて女子の方を見て見ると、そこには驚いた表情の柴崎さんが立ち止まっていた。
「おっと、ごめ……、あ、柴崎さんじゃないか」
「あ、石塚くん」
「柴崎さん、悪かった。いや、まじごめんな。ちょっと急いでたからさ。柊木、早く行こうぜ」
とにかく今は他の生徒の目の届かないところに行くことが先だ。俺は柴崎さんにひとことだけ謝って、柊木とユアを追い立てるようにして校舎を出た。
◇
「ユア! おまえさあ、俺が声出せないの分かってて、でかい声でずっと話しかけてきてただろ! やめてくれよ! 全然授業聞けなかったじゃないか!」
古桜の木の下のベンチで、女子らしい小さいお弁当箱を開いて食べ始めた柊木と、どこで調達してきたのかファミマのおにぎりを取り出してかじり始めたユアに向かって俺は吠えた。今日は薄曇りで陽射しが少ない。
「ふふふ、いいじゃないの。ユアちゃん、高校の授業、初めて見たんでしょ? 物珍しかったんだよ。かわいいじゃない」
柊木はにっこり笑いながら白い弁当箱のプチトマトを箸でつまんで頬張る。
「いや、柊木も柊木だぜ。ユアの大声が聞こえてるくせして、知らん顔で自分だけしっかり授業聞いているなんて、反則もいいとこだ。ユアも、柊木のとこにも行っとけよ!」
俺はサンドイッチをかじりながら反論する。なんにせよユアのうるささは突き抜けていた。あんだけでかい声で騒いでたらもはや私語とは言えない。私語ってのはこっそり交わすもんだ。
「えー、ちいちゃんはまじめに授業聞いてノート取ってるから、邪魔したら悪いかなーとか思うじゃないですか」
「俺だってまじめに授業聞いてノート取ってんだよ!」
「ウソばっかですー。天使に向かってウソつくなんて、ケンはふてーヤローですねー」
「俺がいつ嘘なんてついたよ」
「だってケンのノート、どの教科も落書きだらけじゃないですか。とてもまじめに授業聞いて取ったノートには見えないですー。なんかエッチな絵がいっぱ・・・・・」
「ユア、……それ以上言うな」
突如旗色が悪くなって、俺は手元のサンドイッチを見つめてうめいた。俺のノートの落書きをしっかり見てやがったのか……。あれは少しヤバすぎるシロモノだ。R15だからな。
「でも、ちいちゃんもときどきノートに漫画、描いてますけどねー。裸の男の人が二人でちゅーしてるみたいな。ちーちゃん、あれなんで二人とも男の人なんですかー? 普通は男の人と女の人がちゅーするんじゃないんですかー?」
「ぶほっ」
思わず俺はサンドイッチを吹いてしまった。柊木は食べかけの白米を喉に詰めてゲホゲホ言っている。せき込みながら大慌てで水筒をあおるように口にして、ふうと一息ついた柊木は、顔を上げて満面の笑みでユアに告げた。
「ユアちゃん、あれはね。イラ研、イラスト研究会っていう部活のために書いた絵なのよ。そして、そういうのはね、たとえ目にしても、決して口にしてはいけないことなの。分かったかしら?」
……顔は太陽のような笑顔だが、柊木の目がホラーだ。怖い。俺の落書きよりも、はるかにヤバいことが書かれているらしい。
「石塚、あんた、今、何か聞こえた?」
満面の笑みで俺に問いかけるが、その声はドスが効いている。
「いえ、俺は何も聞こえませんでした。天地神明に誓って」
「よろしい」
柊木はダメ押しに刃物のような視線を投げつけてきた。そして、何事もなかったかのようにすました顔で再び弁当をつつき始める。卵焼きをつまみあげて口に運ぶその端正な横顔を眺めながら、俺は考えた。
こいつは、怒らせたら相当怖いに違いない。絶対敵に回したらいかんヤツなんだ。
柊木はしばらくもぐもぐと卵焼きを食べていたが、ひととおり咀嚼を終えると、弁当箱を見つめながら不機嫌そうにつぶやいた。
「石塚」
「は、はい」
「……あんたさ、私のこと、ヤバいヤツとか思ったでしょ?」
「いや、めめめめめ滅相もないっす」
「いいわよ。どうせ私なんかコミュ障のガチ腐だし。ふん」
頬をふくらませて目をそらす柊木。どうやらBL系女子であることがバレたのが、柊木なりに気まずいらしい。
「なんだ、すねてんのか、柊木。ふふふ、かわいいとこあるじゃん」
「ちいちゃん、かわいいですー。こんどちーちゃんの持ってる裸の男の人の本、わたしにも見せてくださいー」
「ユアちゃん? そういうこと言ってはいけないのよ?」
柊木の氷の笑顔に、ユアはガチで震えあがって固まってしまった。ユアは若干涙目になっている。あのユアを笑顔一発で黙らせる柊木、やっぱり怖い。
「石塚も! あんまりしょうもないこと言いふらしたりするとワセリン塗るわよ!」
「は?」
こいつ何言ってるんだ、と思ったが、とりあえずヤバそうなことだけは分かった。柊木の機嫌を損ねるとひどい目にあいそうだ。俺は、触らぬ神に祟りなしとばかりに、眼下の街並みに目を向けながらメロンパンの最後の一切れを頬張った。
「ところで、石塚さ、あんた、ほったらかしにしてきて、まずかったんじゃないの?」
「そうですそうです。わたしもそう思ってたんですよ、ケン。あの態度はないですよー」
いきなり話題が変わって付いていけない。なんの話だ? とメロンパンを嚙みながら視線で柊木に問うた。
「柴崎さんよ、柴崎さん。さっきぶつかりかけたでしょ。あれじゃあ、もう柴崎さんのことなんて眼中にない、って風に思われちゃうよ? それでもいいわけ?」
あー、そう言えばさっきは気が急いていたから忘れてたけど、柴崎さん突き飛ばしかけてそのまま来ちゃったな。
「ああ、そうだったな。でも、なんでそれが柴崎さんのこと眼中にないって話になるんだよ」
俺はボトル缶のコーヒーのフタをゆるめながら不思議に思った点を柊木に問いただす。柊木は呆れた顔で下目使いで俺を見下ろした。
「んもう……。これだからあんた、ダメなのよ」
「そうですそうです。ユアでも分かりますよ」
「いい? 告白してきた男子と廊下で遭遇したのに、軽くごめんだけで去って行ったら、女の子的には『あの告白なんだったの?』ってなっちゃうでしょ。それにあんたあの告白の後、柴崎さんとまともに話してないんでしょ?」
なるほど。そりゃそうかもしれん。俺の熱意を疑われるってことか。柊木は弁当箱を丁寧にふきんでくるむと、立ち上がってスカートを軽くはたいた。
「そうですそうです。ちいちゃんの言うとおりですー。そういえば前に言ってた『エンジェルマート特製、一滴でメロメロ♡ びっくりするほどよく効く惚れぐすり』が昨日届いたんですー。せっかくだから試してみましょう!」
「さ、行くわよ」
「どこに?」
柊木にせかされて立ち上がったが、なにをすればよいのか見当もつかない。ぼーっとしている俺に柊木は言った。
「決まってるじゃない。柴崎さんのところよ。面と向かって謝ってきなさい」
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