第1話 見習い天使が現れた (1)
「ちょっと、石塚くん、ちゃんと片付けて行きなさいよ!」
「うるせー! 俺は急いでるんだ!」
俺は、背後から降り注ぐクラスの女子たちの文句を振り切って校舎を飛び出した。
そこには十一月の抜けるような青空があった。
高校生活の何百分の一でしかない、ありふれた平日の放課後。しかし、その何気ないただの放課後は、我が人生の中でも屈指の
二年生の一学期は感染症騒動でほとんど登校していない。新しいクラスでの季節外れの初授業は、お盆明け。それも八月中は隔日登校で、残りはオンライン授業だ。一学期の間、ずっとどんな奴と同じクラスになったのかも判然としない日々だった。通常の登校ペースに戻ったのは九月になってから。やっと新しいクラスメートの顔も見慣れ始めた二学期に、本来なら四月の初めにやっているはずの委員会決めがあって、俺は生活委員を志願した。
我が校で言う生活委員とは、他校では風紀委員とか美化委員という名前で呼ばれることが多いらしい。やっていることは、要するにお掃除係と制服点検係だ。つまり大したことしなくていいので圧倒的に楽なのである。面倒な文化祭実行委員とかに当たるよりは、もっと楽な委員を志願した方がいい。そんな極めて不純な動機で立候補した俺は、すんなり生活委員のポジションを手に入れることができた。
そういう事情でなった生活委員だったので、熱心に活動する気なんかハナからまったくなかった。
ところが。人生何があるか分からんもんだよな。例年より三ヶ月遅れの生活委員会初顔合わせで、俺は身をもって体験することになったんだよ! いわゆる一つの、運命の出会いってヤツを。
「B組の柴崎遥香です。よろしくお願いします」
そのゆるやかな笑顔、控えめでありながら芯の通った態度。これが、一目惚れか。俺は実感したね。
たしかにもっとかわいい子がうちの学年にもいることはいる。柴崎さんの容姿は圧倒的美少女とは言い難い。ぶっちゃけ十人並みと言ってしまえばそれまでだ。だけど、俺だけを見つめて、惜しみないまでにきらめく笑顔で「石塚健次郎くん、だよね? 私、なんにも分からないから、これからよろしくね」とか言われてみろ。ここ、すごい重要だぜ。俺だけを見つめて、ってとこ。他の誰も視界に入れずに、俺の目だけを見て。
いやあ、あの瞳の中にともる色を見た時、俺は確信したね。
きっと俺の青春は、この人とともにある。
きっとこの人は、俺と出会うために生活委員になった。
今日、首尾よく柴崎さんを古桜の下に呼び出すことに成功した。もう、勝利は目前だ。
そう。栄光のカウントダウンは、すでに始まっているんだ。
昇降口を出てまっすぐ進むと校門。下校する学生たちが列となって校外を目指している。俺はその列には加わらず、左手奥のB校舎を目指して歩き始める。一歩一歩、大地を踏みしめる。
今日、俺たちのラブストーリーが始まるんだ! 大丈夫だ、俺、ひるむんじゃない。俺のこれからの高校生活は柴崎さん抜きには考えられない! 柴崎さんもきっと同じ思いに違いない!
B校舎と学校敷地の端のフェンスの間には、園芸部が整備した花壇がある。その花壇の脇のコンクリート通路に足を踏み入れようとしたその時だった。
「あのお、すみません……」
背後から澄んだハイトーンの声が俺を呼び止めた。柴崎さんにしては声が幼すぎる。誰かと思って振り返ると、コーラルピンクのTシャツにスカートの小学生ぐらいの見知らぬ女の子がにこにこしながら立っていた。喜色満面。こぼれんばかりの笑顔。女の子は、俺のことをじっと見つめている。
しかし、なんで、こんなところに
「……俺のこと?」
思わず間抜けなリアクションをしてしまったじゃないか。女子小学生に知り合いなんかいないし、声を掛けられる心当たりなんてまったくないんだけど……。
しかもここは高校の敷地内で、それも昇降口の目の前だ。なんで小学生が一人でうろうろしているんだよ、場違い感半端ないぞ。
周囲の学生たちは、学ランとセーラー服の中でひときわ異彩を放つTシャツにスカート姿の女子小学生に、我関せず、とみな素知らぬ顔で通りすぎて行く。
「そうです! あなたです!」
俺の返事を聞いたその女の子はさらに笑顔をはじけさせて、ぱたぱたと俺の方に駆け寄ってきた。
「わたしの声が聞こえてますか?」
なんだよ。たまたま学校に来たPTAの父母に付いてきた子供か? 大方母親とはぐれて迷子にでもなったんだろう。ってことは、在校生の誰かの妹とか、まあ、そんなところだろうな。
しかし変なこと聞きやがる。ここまで近寄ってでかい声で話しかけりゃ、聞こえるに決まってるじゃん。
「そりゃ聞こえてるさ。なんか俺に用?」
「わー、よかったー、聞こえてなかったらどうしようかと思いましたー。わたし、今、人を探しているんですー。手伝っていただけませんかー?」
女の子は嬉しそうに聞いてくる。はあ? 新手の宗教団体の勧誘かよ。小学生が勧誘に駆り出されているようじゃ、まともな宗教とはとても思えないけど。
「わりいけど、俺、今めっちゃ忙しいんだ。別のヤツに聞くか、あそこの受付で聞いてみなよ」
「それじゃだめなんですー。わたしのことが分かる人がいないんですー」
女の子はなおも食い下がったが、今はそれどころではない。柴崎さんとの約束の時間が迫っている。いつもはすぐに終わるホームルームが長引いてしまい、その上「まさか、生活委員がサボったりしないよね?」とクラスの女子にくぎを刺されて、サボるつもりだった掃除当番にいやいやながらも全部付き合ったせいだ。まったく、俺の人生史上一二を争う大事な日に、なんてことしてくれるんだ。掃除と柴崎さんとどっちが重要だと思ってるんだよ。
とにかく、これから始まる俺と柴崎さんとの青春サクセスストーリーには、女子小学生とたわむれているシーンはまったくもって不要なんだ。いくら愛らしい女の子のお願いであっても、今は聞けない。
俺は心を鬼にして、とはいいつつも、実際はそれほどの罪悪感も感じないで言い放った。
「ごめん、俺、三時までにB校舎の裏に行かなきゃならないんだ、悪いけど他の人に聞いてくれよ。な?」
だってさあ、女子小学生を連れて校内を案内すんのなんて、どう考えても俺の仕事じゃないじゃん?
これ以上のかかわりはごめんだ、とばかりに「えー、待ってー」と追ってくる女子小学生の気配を振り切って、背を向けて歩き出した。わりーけど、自分でなんとかしてくれ。
お、もうあと七分しかない! ぎりぎりじゃねーか。うげー、間に合わなかったら責任取ってくれるんだろうな!
しかしなあ、うーん、俺的には告白成功確率はナナサンでいける、はずと思ってるんだがなあ。いや、それは言い過ぎだったかもしれん。ロクヨンでいけるはずだ。……悪くても五分五分ぐらいは……。
「なにぶつぶつ言ってるんですか? もしかして、今からコクるんですか? わーい!! わたし、ドキドキの衝撃告白シーンをいきなり見れちゃったりするんですかー? これはラッキーですー! でも……その様子だと、成功確率は低そうですよねー。よくて二十パーセントぐらいでしょうか」
うん、確かに盛った。盛ったけど、
俺は思わず足を止めて、後ろを振り返った。驚いたことに、さっきの女子小学生がさほど離れていないところで「やほー」と手を振りながら笑ってついてきている。
「ええ? キミ、なんで俺のこと追っかけて来てるの!? こっち来ても会議室とかないよ? てゆーか、見せもんじゃないんだから! 俺の高校生活がかかってるんだから、わりとガチで。だから、ついてきちゃダメだ。俺は今緊張……、いや、急いでるんだ。じゃあな」
「えーとですねー、
ユアと名乗った女子小学生は、スカートのすそをちょこっとつまんで、膝を折った。お、カーテシーか。これぐらいの小さい女の子がやるとかわいいじゃん。あ、そんなことは今はどうでもよかったんだ。急がなきゃ。
「いやいや、キミの名前とか、俺、興味ないから。俺は急いでるの!」
はっきり言って、今の俺にとっては柴崎さん以外のいかなるかわいさも一ミリグラムも必要ない!
とはいえ、いたいけな幼女にびしっとカーテシーまでキメられたんじゃ、無下に断るのは個人的なポリシーに反する。まったく、しょうがねーな。
「しょうがねー。とにかく、人探しなら俺の大事な用事が終わってから、手伝って一緒にしてやるから。この辺で待っててくれよな。俺、今からすごーい大事な用事だから、キミの相手してる暇なんてないの。一ミリも。分かった? じゃ、俺行くからな」
柴崎さんとのランデブーが終わったら、戻ってきてPTAの会合やってる会議室までこの女子小学生を案内してやるか。ただ、俺がここに戻ってくるときはできたてほやほやの愛しのカノジョ、つまり柴崎遥香さんと一緒だからな。
小さい女の子に親切にしてやっているところを見せたら、カノジョ、つまり柴崎遥香さんも、きっとカレシとしての俺のやさしさに株は一気に爆上げストップ高、いきなりメロメロ間違いなしだ。もしかしたら、手なんかつないじゃったり。ぐふふふふ。あ、よだれ出そう。いかんいかん。ここはあくまで校内だ。いくらラブラブカップルとはいえ、節度を持たないとな。
「わりーけど、もう行かなきゃならん」
「あーあ、盛り上がるのは勝手ですけど、ダメなものはダメなのになー。
「不吉なこと言うな。それになんだよ、その
「
女子小学生はきらきらのケースに入ったスマホを見せびらかすように振りながら自慢げだ。まったくイマドキの小学生は当たり前のようにスマホ持ちやがって。贅沢極まりない。中学二年生の時に三年分のお年玉をぶちこんで、やっとスマホを手に入れた俺からみたら甘やかせすぎだと思うぞ。
「ねえ、おにいさんは名前なんていうんですかー?」
「俺の名前? 石塚健次郎だけど……。うおっ、やべえ、もう時間がねーじゃん! 分かったな、ユア! 邪魔すんなよ! じゃあな!」
うお、もう五分しかない! 俺は会話をぶった切って、ユアと名乗った女の子に背を向けて走り出した。目指すは当校の敷地の南西角にある老桜の木のささやかな芝生広場。今日、そこから、二人の物語が始まるんだ! 見ろ! 澄み渡る十一月の青空が俺を、俺たちを祝福してくれている!
「ケンジローさーん、待ってー!」
背後から女子小学生が甲高い声で俺を引き留める。
でも、それに頓着しているヒマは俺には残っていなかった。
「何言ってんだ! 勝利は目の前なんだ! ここから始まるハッピー・ラッキー・スペクタキュラス・スクールライフ! はるかさーん、今からすぐ行くぜー!!」
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