第6話 バツ2のバーテンダー
プレゼン当日。昨夜は無理やり自分を眠らせ、早朝に家を出た。
旦那の朝ごはんを作り置きして、昨日アイロンをかけておいたスーツを着る。
出勤もスーツを汚さないように、少しお金がかかってしまうが、
出世払いとして、タクシーを利用して会社の前に降りた。
パッパと軽く埃を払い、お金を払って降りると、私たちのオフィスには早々明かりが灯っている。
私が一番遅いぐらいだ。
今日一日の段取りを確認していると、宮間がどこか、無理やりに集中しようとしているのが見えた。
私の少しばかり冷たい言葉を、受け止めてくれているんだろう。
申し訳ない気持ちと共に、これが終わって落ち着いたら、ご飯でも行こうかな。とぼんやり思った。
お疲れ。と言いながら、朝イチに淹れたてのコーヒーを持ってきてくれたのは、由梨。
そんな由梨の首元に、虫に刺されたような赤い点が見えた。
はぁん?昨日は旦那いないじゃないんでした?由梨さん??
自分のメイクポーチから絆創膏を取り出して、由梨に差し出す。
黙って首元を指差して、口の動きだけでキスマ。と伝えた。
その意を汲み取ったらしい由梨は、ブワッと顔を赤く染めて、絆創膏を受け取る。
かがめ。と口で示して、彼女がかがみ、その首に私が隠すように貼り付けた。
由梨はありがとう。と呟きながら、つけるなって言ったのに…と盛大に拗ねる。
「旦那さん、帰ってきたんだ」
「うん、残業しそうになったけど、根気で終わらしたって」
「ラブラブなことで」
はぁと分かりやすく溜息を吐いてやって、えへへと惚気る由梨をガン無視しながら、
最後の仕上げに取り掛かる。
「宮間〜そんなに固くなんなくても、明海が何とかしてくれるよ〜」
自分の席に戻りながら、さすがそれなりに仕事ができる女。宮間のフォローを忘れない。
宮間は私が言うよりよっぽど頬を緩めた。私はどこか圧がある。とは由梨談。
その点由梨は、確かに一緒にいて安心する。
宮間の顔が緩んだのが、なんだか少し悔しかったのは、幻覚だろう。
友井たちの打ち上げの誘いを丁重に断る。後輩たちも私手前、羽目を外せないだろうし。
私自身も、後輩がいるとどうしても気が立ってしまうので、こう言う時は1人で過ごす。
後日、改めて私自身が飲み会を主催することが多い。
先輩がいる時は、打ち上げには出席するが。
仕事が一つ終わると、いつも足を運んでしまう店がある。お酒とご飯の美味しいバー。
穴場だからか、職場に近いのにも関わらず、知り合いに会ったことがない。
街頭のまばらにある路地に、小さく光る看板の店。
地下へと続く階段を降りると、見慣れたブラウンの重厚そうなドアが出迎えてくれる。
シャラララとなる、来店を知らせる音にグラスを磨いている、
スカイブルーの瞳の男性は穏やかに笑った。
「いらっしゃい。明海ちゃん」
よく響くマスターの声に引き寄せられ、彼の目の前のカウンター席に腰掛ける。
広い店のわりに客はまばらにしかおらず、相も変わらず静かな店だ。
「お久しぶりです。海里さん」
注文は?と聞かれ、取り敢えずおすすめお願いします。と答えると
マスターは、奥の棚から高そうなお酒を出してくる。
彼が奏でる涼しい氷の音に、頬杖をついて身を任せていた。
この店には大学時代、ひょんなことでマスターと知り合ってから、彼此10年は通っている。
スカイブルーの瞳に、日本人離れした彫りの深い顔立ち。髪色はシルバー。
真っ黒い制服がよく似合う、バーテンダー。
この店のマスター。海里さん。私より6つ歳上の、35歳だ。
ちなみに父方のお父様が、オーストラリア人らしい。彼はクォータである。
コースターが置かれ、その上には真っ白い雪のようなカクテルが、乗った。
フローズンマルガリータと呼ばれるカクテルだ。
「今日もお疲れ」
ありがとうございます。と言いながら、カクテルを口に含んだ。
ふぅと一息吐くと、それを見届けた彼は食材を取り出して、まな板を鳴らし始める。
まな板の上には、新鮮そうなイカが踊っていた。
「そのイカ、海里さんが釣ったんですか?」
彼の趣味の一つに、釣りがある。
名前に恥じないほどには、海が好きな彼は、この店の料理の食材も自分で釣っていることがあった。
「イカを釣れる技量はないな」
ハハハと豪快に笑いながらも、繊細な手つきで魚を捌いていく。
奥のコンロでは、油がパチパチと出番を待っていた。
私はただ、無駄な動きを何一つとしてしない、彼の嫌味なほど綺麗な手を見て、カクテルを転がす。
「はい、おまちどうさま。イカのアヒージョ。今日限定ね」
油の中で、いいように転がされるイカたち。
ニンニクの罪深い匂いが、鼻をくすぐった。手を合わせて、いただきます。と言う。
まだ熱々のイカを冷ましながら、口に運ぶと相変わらず、絶品だった。
「さすが、海里さん。今日も美味しいです」
ゆっくりと味わって食べていると、少し安心したような海里さんの顔。
彼は客足も少ないため、他の客を数少ないバイトに任せたようで、
私のカウンター越しの正面に椅子を出してきて、座った。
「それは良かった。にしても、久しぶりだね。明海ちゃん。元気にしてた?」
この店に来ると親しいマスターと、この店の雰囲気のせいで軽く羽目を外してしまうことがある。
そのため、この店にはあまり来ないようにしていた。
仕事が落ち着いたご褒美にここにくる。というのが、社会人になってからのルーティンだ。
「はい。仕事も落ち着いて。今年の一番大きいのが終わりました」
「そっか。お疲れだったね。てか、明海ちゃん寝てる?めっちゃ疲れた顔してるけど」
私が飲み終えたカクテルを見て、立ち上がりまた、どこかからお酒を出してきて作ってくれる。
その音を聞きながら、注文は?と聞かれたので、任せます。と上返事で答えた。
「で、なんでそんな疲れた顔してんの?明海ちゃん、仕事でそんな疲れるほど不器用じゃないでしょ」
目の前に置かれたのは、透明なカクテル。よく彼が出してくれるカクテルの一つだ。
カミカゼ。珍しい日本語の名がついたカクテルである。
「くだらないことなんで、そんな悩んでもないし」
カクテルを一気に流し込みながら、ボソリと呟くと彼は、呆れたような顔をする。
「いや、くだらないことで寝不足にならないでしょ、はい。話した話した」
目の前に置かれた新しい料理に手を伸ばしながら、くだらないと分かりつつ言葉を選ぶ。
「じゃあ、バツ2の女たらしの海里さんに質問なんですけど」
「え?なんで俺、刺されてんの?」
キョトンと疑問を浮かべる海里さんの顔が、少しばかり残ったカクテルに浮かんでいる。
「浮気ってどこから浮気ですか?」
そのカクテルに浮かんだ顔が、面を食らったように青ざめた。
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