四節 さようならと、久しぶり

1-1 さようなら


「どうして、来たの」


 エレベーターを降りると、展望台の椅子に一人の少女が座っている。クエイスは、彼女をよく知っていた。洒落たデザインのセーラー服姿で、上にカーディガンを羽織っている。聖海高校の制服だ。

「わたしの事を愛してるから?」

 振り返ると、肩下くらいまでの栗色の髪が柔らかく揺れた。学生鞄につけられているのは、丸い青色のサメ縫いぐるみ。白鳩駅前で初めて会った時、彼女はミカと名乗った。本当の名前は、佐々船 湊だ。頭上には、パステル調に輝く本物の魂が浮いている。複製ではない事の証明だった。

「君の考える愛とは、少し違うかもしれないけど」

 クエイスは正直に答える。これから世界が終わるにしては、彼女の顔は穏やかだった。

「玲仁、連れて来てくれたんだ」

 湊の視線は、クエイスの顔よりやや上の方へ向けられていた。

「運良く見つけられたからな」

 クエイスは数歩近づいた。ようやく息がつける。この部屋まで来れば、もう危険はないはずだ。ただのタワーではないだろうと思っていたが、まさか百階まであるとは。

 エレベーターは一階ごとに止まるし、多くの崩壊体がいるし、本当に骨が折れた。エテルが唐突に六十六階の窓から飛び込んで来なければ、心が折れていた。九十二階であの死神が現れなければ、体が砕けていた。今頃二人とも、階下の全ての魂を送還してくれた事だろう。この長くて短い旅の話を彼女にするには、時間が足りなすぎた。だから、やめておこう。もっと優先するべき話題がある。



 クエイスはホールドを解除し、制御輪の下から玲仁を解放してやる。彼は真っ直ぐに、彼女の元へ飛んで行った。辿り着いた光を、湊が両手で大切に包み込む。そして、目を閉じた。

 二人はしばらく無言でいた。離ればなれだった時を埋めるように。何も聞こえないが、二人だけで会話をしているのだ。


 クエイスは待っている事にした。手頃な椅子を探し当て、おぼつかない足取りで腰を下ろす。見た目には分からないが、クエイスは疲労困憊していた。連戦に連戦を重ねたせいで、体のどこもかしこもが痛む。制御輪による修復が追いついていない。ところどころ傷が残っているし、傷がないところでも表面上しか塞がっていないのだ。座ったていどでは癒えないが、立ったままでいるより遥かにマシだ。考えていると、突然緊張の糸が切れた。何も考えられない。手足に力が入らない。瞼の重みで、自然と両目が閉じて行く。



「結局わたし、あなたの事、あんまり理解してあげられなかったな」

 どのくらいの時間が経っただろうか。少女の声で、クエイスは目を開いた。今日の夜には違いないが、何年も気絶していた気がする。暈人は死なないが、意識を失う時くらいはあるのだ。

 顔を上げれば、展望台の大きな窓が出迎えてくれる。外には幻の夜景が広がっていた。見たこともない光景なのに、なんとなく懐かしい。


「神様になるのって、すごく難しいんだね」

 いつの間にか、湊は隣に座っていた。少し遅れて、クエイスは溜め息のように返事をした。顔まで動かす元気はなかった。小さな星が、瞬きながら近づいて、顔の辺りで揺れ始めた。玲仁はどうやら、クエイスを心配してくれている。

「いいんだ。別に、全部じゃなくて。全部理解した気になってるより、全然いい」

「あなたの気に入るような女の子をやろうとしたの。だけど大変だった。喜ばせようとしても、あんまり嬉しそうじゃない時とかあったね。変なところで」

 湊はいたずらっぽく言う。

「それは、ごめん。俺だって、君の事を少ししか理解してなかった。君が望んでいたものは、少ししかあげられなかった」

「でも、一緒に暮らしてた。楽しかったでしょ?」

 彼女は穏やかな表情をしている。クエイスは肯定の息を漏らした。

「楽しかった」

 玲仁が突然、一秒と少しばかり、激しく飛び回った。クエイスにはよく分からなかったが、湊が楽しそうに笑った。



 三人は再び無言になった。数秒間、微かな空調の音だけが響き続けた。それが、唐突な機械音で書き消される。エレベーターの扉が開く音だ。

 入って来たのは、六人の暈人だ。特殊な戦闘服を着て、同じ頭防具を被っている。制御輪の色と本数だけが、それぞれの個性を主張していた。道中の崩壊体はクエイス達が全て送還して来たから、当然到着も早い。クエイスは仕方なく立ち上がった。

「何?」

 湊と玲仁は不審がり、ほぼ同時にクエイスの背後へ隠れた。不可解な存在が何人も現れたので、警戒するのは無理もない。

「大丈夫だ。俺を捕まえに来ただけだ」

 クエイスは両手を下げたまま、掌を正面に向ける。暈人にとって、これが投降のポーズだった。頭の上に手をやる仕草こそ、制御輪から武器を出そうとしていると判断されるのだ。クエイスに、抵抗する気など微塵もなかった。理由も意味もないし、脱走に成功したとしてどこまでも追いかけられるのがオチだ。そもそも、疲れ果てて動けない。

「クエイス=カナギリ。あなたの身柄を確保します」

 隊長とおぼしき特殊部隊員は、宣言するにあたり口話の形を取った。普通の魂である湊達にも、しっかり聞かせるためだ。クエイスは動かず立ち尽くす。制御輪の周囲に楔型の光が展開し、六つ全てが一斉に打ち込まれた。人間で言うところの、手錠と同じ存在だ。痛くも痒くもないが、制御輪へ要請が送れなくなった。何となく落ち込む。

「何の罪になりますか?」

「その話は後ほど」

 感情の薄い声が、機械的な頭防具の内側で響く。何とも淡白だ。落ち込んでいる暇はない。特殊部隊の内二人が、湊達に接近してくる。まだ怯えている人間を、安心させてやらなければ。

「逮捕って、どうして? わたしのせいで?」

「いいや。大丈夫だ。この人達についていけば、大丈夫だから。彼らは君達を助けに来たんだ」

 対峙したまま、三秒が経った。小さな光が勇気を出して、その内一人の制御輪のそばへ飛んで行く。特殊部隊員は、一言断りを入れてから、自らの輪に玲仁をホールドした。玲仁が決心したなら、湊も安心してついて行けるだろう。

「また会える?」

「きっとまた、地球に行くよ」

 嘘は言えなかったが、本当の事も言えなかった。湊はそれきり、口をつぐんだ。泣くのをこらえているようだった。いつの間にか、天井や外の景色が消えていた。上方はどこまでも真っ白な空で、周囲の床しか残されていない。湊は一度、クエイスを抱き締めてくれる。道中の無事を祈り、しっかり抱き締め返した。二人の魂は二人の暈人に連れられ、脱出するために飛んで行く。


 笹木船 湊が、クエイスから離れて行く。懐かしい痛みが、クエイスの喉に戻って来る。不思議と不愉快ではなかった。悲しみはあっても、穏やかな悲しみだった。彼らと共に過ごした日々が、今も体に残っている。湊達はしかるべき治療を受けた後、魂の源流へ旅立つ。クエイスの戻る場所は彼らと違う。しかし人間の魂と違って、自身の思い出は消えないとの確信があった。クエイスの一部分がレイジである限り。レイジの中の一部が、カナギリでもある限り。

 彼女と小さな世界の欠片を、破壊せずに済んだ事が嬉しかった。この力を、誰かを救いに行くために使えた事が。





「待った待った!」

 クエイスの連行は中断された。切迫した声と共に、薄桃色の輝きが、旋回しながら飛び込んで来たからだ。着地してすぐに振り返れば、動きに合わせて白髪が翻る。白い活動服を着た女だ。制御輪は二本。人形のような顔をして、左目に眼帯をつけている。

「間に合った? 間に合った、よね」

 エテルだ。クエイスの上司にして、相棒だ。第一宇宙連合 惑星管理局 地球型惑星部 霊魂回収課所属の。名前は、エテル。彼女の赤い瞳が、一直線にクエイスを捉える。人間体の外見が少し若くなっているが、エテルには違いなかった。

「完全に放置していくとか酷いよね。それだけ私を信頼してるって事か。じゃあいいや」

 言動に反して、目元は柔らかい。クエイスは返事に困ってしまった。勝手に不満を言って、勝手に自己完結してしまったからだ。一斉に身構える特殊部隊員に対し、エテルは両の掌を見せる。

「少し話をさせてよ。次にいつ会えるか分からないから。私とカイ君の大冒険の話……は、長いから無理か。何百年あるんだよって話」

「あの、お世話になりました」

 唐突に、上から懐かしい声が降って来た。見上げると、連れられて行く途中で、湊がこちらに向かって頭を下げている。かなり遠い場所からでも、声はきちんと届いた。エテルは大きく片手を振る。そして穏やかに、見送った。二秒ほど経つと、彼らはついに見えなくなった。こちらに残された時間も少ない。エテルはクエイスに向き直る。

「自由になったら、一度二人で旅行にでも行こう。私の上司が個人所有している、スーラって星でさ。水と氷だらけで綺麗なんだ。微生物と植物も少しいるかな。個人のだから、知的生命体の種を下ろしてないし、環境整備もそんなに大がかりにしてないけど」

 刑期が終わった後の話など、気が早すぎる。しかもそれは、面会室でもできるはずだ。クエイスは曖昧に笑って、頷く。

「それか、あそこはどうかな? 惑星マンデラ。千年前に種を下ろしたばかりだから、まだ観光許可が下りてる。知的生命体は結構いるけど、自然が豊かで過ごしやすいと思うよ。暈人の事を凄く気に入っていて、時々綺麗な鉱物とか鳥の羽で作ったアクセサリーをプレゼントしてくれるんだって。かわいいよね……って違うな。こんな話をしたいんじゃないんだけど」

『切迫』

 クエイスは、二度は笑って流さなかった。湊が去った事で、本格的な崩壊が始まったからだ。さすがに焦ってきたので、空白の空を指差し、次に四人の特殊部隊員を指差してみせる。嫌な音と共に、空が剥がれて行く。足元もだいぶ不安定になった。エテルが黙るとここぞとばかりに、四人は口々に急かし始めた。

「あの……、もういいですか」

「我々も早く脱出しませんと」

「巻き込まれますよ」

「マジそういうの後にして」

 彼らもまた、人格のある暈人である。しんみりとした空気が台無しだ。クエイスはうっかり吹き出して、喉の痛みに咳き込んだ。

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