2(百合とタンブルウィード)
吉野と最初に出会ったとき、あたしはかけねなしにびびった。
何しろ彼女は、モデルみたいな美少女だったからだ。そういうのはテレビの画面ごしとか、雑誌のページとかに存在するものであって、実際に目の前にすると実在性が危ぶまれるくらい現実感がない。ちょっとリモコンを操作したら消えてしまうんじゃないか、というくらいに。
四月の終わりの、さすがにもう冬もあがきをやめて、夏の訪れを感じる頃のことだった。吉野は転校生として、中学校の、あたしたちのクラスにやって来たのだ。
いつも通りの朝のHRに、吉野は先生に連れられてやって来た。教室に入った瞬間、何か決定的な変化が起こったことに誰もが気づいた。人類が月に最初の一歩を刻んだときみたいに。
吉野は先生にうながされて、教壇の横に立った。制服の準備が間にあわなかったらしく、あたしたちとは微妙に違う形のセーラー服を着ている。それがまた、彼女の美少女ぶりを際立たせていた。
すらっとのびた手足に、神様がほどよく按配してやったみたいな体つき。さらさらした長い黒髪はひっかかりなんて一つもなさそうで、その
先生が合図すると、彼女は黒板に向かって自分の名前を書いた。
「吉野ゆきな」
書は人を作る、とか言うけれど、彼女の書いた文字もそんな感じだった。楚々として、でしゃばらず、どこまで品がある。白いチョークで書かれたその五つの文字は、世界を軽く祝福しているみたいでもあった。
教室中の誰もが――男子も女子も――彼女に見とれていた。かく言うあたしも、そうだった。何しろ、そうせずにはいられないのだ。磁石のS極とN極が、自然と引きあうみたいに。
ところが、吉野のそんな美少女さかげんも長くは続かなかった。正確に言うと、砂山が風に吹かれるみたいに徐々に崩れていった。
吉野は黒板に名前を書いたあと、当然ながら挨拶をした。みんな、期待した。そりゃそうだ。何しろ、これほどまでに節操なく、惜しげもなく、美少女っぷりをまきちらしているのだから。
頭をぺこりと下げると、彼女は言った。
「吉野ゆきなです。どうか、よ、よ、よろしくお願いします」
まず、それが第一の違和感だった。彼女はどもった。それも、ちょっとつっかえたというんじゃなくて、派手にずっこけたうえに机の上にあったのものを全部ひっくり返してしまった、というレベルで。颯爽と登場したシンデレラが、ぶざまにつまずいて、大切な花瓶を数個粉みじんにしてしまった、という感じだった。
それでも、まだ多少の違和感ですんでいた。少なくとも、声は澄んできれいだったし、高音域でも音が割れない強さみたいなものも感じられた。彼女はやっぱり、美少女だった。
席が決まってHRが終わると、吉野のまわりにはさっそく人が集まった。木に塗りたくられた蜂蜜に、カブトムシがよってくるみたいに。まあ、無理もない話ではあるけど。
あたしの席は彼女の斜め後ろの位置にあったので、そんな様子を精度のいい天体望遠鏡なみに観察することができた。林立する人影に彼女の姿は埋没してしまっていたけど、声くらいは聞くことができる。
やつぎばやに浴びせられる質問に対して、吉野の声はほとんど聞こえてこなかった。「えっと」とか「その」とか「あー」とか、断片にすらならない返答が発せられるにすぎない。返答というか、呻きが。
周囲に群がっている連中は赤いマントを振られた闘牛よろしく、そんなことは気にもならないみたいだったけど、あたしは第二の違和感を覚えていた。何だかどうも、現実と想像が齟齬を来たしはじめている。不吉な軋み音を立てながら。
HR後はすぐに一時限目がはじまるので、ほどなく担当の先生がドアを開けて入ってきた。パーティーはいったん中止だ。カブトムシたちは三々五々、それぞれの席に戻っていった。
いつもの二割増しくらいで退屈な、数学の授業がはじまる。一定方向から見た場合の立体の平面図、というような内容だった。
それが終わると、当然のこととしてさっきの状況が再現された。吉野のまわりには肉片に喰いつこうとするピラニアみたいに、人が集まった。今度はさっきと違って、それなりの時間がある。
あたしは次の授業の準備をしながら、それとなく聞き耳を立てていた。カブトムシやピラニアには悪いけど、あの集団に加わるような浅ましい真似だけはしたくない。
質問は相変わらず機関銃的で、その上一方的だった。「どこから来たの?」「住んでるところは?」「兄弟はいる?」「趣味は?」「両親は何してる人?」
――個人情報のオンパレードだった。きっとそのうち、身長体重やスリーサイズだって訊かれることだろう。
転校生としては嘉すべき人気っぷりだったけど、吉野の場合はそうじゃないらしかった。彼女はさっきみたいな呻き声をあげるのさえやめて、終始黙りこくっていた。じっとうつむいたまま、身を固くしている。
フリーズしている、という感じだった。まるで、いじめられているみたいに。
――それが、第三の違和感だった。決定的で、致命的な。
吉野がまともな受け答えをしないことがわかると、クラスメートは一人去り、二人去りしていった。穴の開いたバケツから、不可逆的に水が流出していくみたいに。そうして最後には、吉野一人だけがぽつんと残されていた。こういう言いかたがフェアかどうかはわからないけど、無惨にも。
そうやって座りつくしている吉野は、ほとんど美少女には見えなかった。その辺に転がっている、ただのぱっとしない女の子にしか見えない。その凋落っぷりは、たいしたものではあった。
まあまあひどい言いかたをするなら、それは〝化けの皮が剥がれる〟というのに近かったと思う。男の子で、黙ってさえいえればかっこいい、というタイプがいる。口を開いた途端、すべての幻想が粉みじんになってしまう、というタイプが。吉野ゆきなは、その女の子版だった。
教室中の誰もが、もう存在そのものを忘れてしまったみたいに、吉野のことを相手にしなかった。彼女はその美少女っぷりにもかかわらず幽霊以下の、いてもいなくても同じ人間として認識されるようになった。実際のところ、吉野はいじめの対象にさえならなかった。
かくいうあたしも、彼女に対する興味のほとんどを失ってしまっていた。世の中には、ほかに見たり聞いたりする必要のあることがいくらでもあるのだ。幽霊以下の人間になんて、かまっていられない。
※
――これは概ね吉野についての話なのだけど、この辺で便宜上、あたし自身のことについても多少は触れておこうと思う。
あたしの名前は、
吉野みたいな美少女とは違って、あたしはごくありきたりの女子だ。背の高さは似たようなものだったけど、彼女と同じようなプロポーションなんて望むべくもない。吉野が野に咲く一輪の百合だとすると、あたしはさしずめタンブルウィードというところだ。
知っているだろうか、タンブルウィード。西部劇なんかで荒野をころころ転がっている、草の塊のことだ。
あたしの鼻は吉野みたいに彫刻的に優美な形はしていないし、肌だって滑らかでも艶やかでもない。髪は頑固な癖がかかっていて、くしゃくしゃに丸めたちり紙同然。それに何より、自覚できる程度に目つきが悪い。反射率の高い素材をのぞき込むたび、一体こいつは何をにらんでいるんだろう、と自分で思うくらいだ。眼鏡をかけてようやく、その無駄に鋭い眼光の、十分の一くらいは減じている気がする。
吉野と比べること自体が無謀なんだけど、あたしはどこをとっても美少女なんて柄じゃない。美少女どころか、少女なんて呼称さえ怪しいくらいだ。そういう儚げで優しげなイメージを付随させるには、(自分で言うのもなんだけど)凶暴すぎるし、がさつすぎる。
実家では洋服屋を営んでいる――「藤江洋品店」。古い商店街の一角にあって、ご多分にもれず寂れている。大体のところは想像できると思うけど、プレーリードッグの巣穴くらいぱっとしない。あるいは、褪色してしまった絵画みたいに。
店の経営をしている父親の名前は、藤江
ひょろりとした体格に、似あいもしない顎鬚を生やしている。好意的に解釈するとおおらかなんだけど、要するにいいかげん。四十を過ぎているとは思えないほど、メンタルも顔つきも幼い。実の娘にそう評されてしまうのだから、あとは推して知るべしというところだ。
店にはいつも、閑古鳥が鳴いている。当たり前だ。ユ○クロやしま○らなんてところがあるのに、誰が好きこのんでこんな安くもおしゃれでもない店にやって来るだろうか。おまけに、店主はカウンターに座ってあくびするばかりで、やる気なんて欠片もない。
それでも、この店が潰れることはない。品揃えが豊富なわけでも、品質が高いわけでも、特別な魅力があるわけでなくても、潰れることはない。
――何故なら、学生服の取り扱いをやっているからだ。
毎年毎年、子供たちは学校に入学し、学生服が必要になる。学生服を自前で作るわけにはいかないから、店で買うことになる。そして学生服の取り扱いなんて、ユ○クロやしま○らではやっていない。
そこで出番になるのが、「藤江洋品店」というわけだった。少子化が進んでいるとはいえ、子供が絶滅したわけじゃない。学生服も絶滅したわけじゃない。おかげで、寂れた商店街の冴えない洋服屋も、一定の収入を得ることができる、というわけだった。
もちろん、そう簡単に学校から学生服の取り扱い指定を受けられるわけじゃない。気概も能力もない四十男なら、なおさらというものだ。
そういう苦労をして、そもそもこの店を作ったのは、祖父だった。あたしは直接の面識はないのだけど(その頃には事故で亡くなってしまっていた)、貧窮の中で育ち、向学心に燃える人だったらしい。それでいて、せせこましいところのない、さっぱりした人だったという。
祖父は自分が赤貧の身だっただけに、子供には甘かったらしい。それが唯一の一人息子となれば、なおさらだった。祖父は自分がした苦労の十分の一も、息子には負わせたくなかったらしい。贅沢もさせてやりたかったし、好きに遊ばせてやりたかった。これを、心理学では代償行為という。
それでどうなったかという実例は、あたしの眼前にあるとおりだった。
あたしはそういう話を、祖母から聞かされていた。祖母は祖父を愛していたが、さすがにその教育方針には批判的だった。彼女は子供を溺愛したりはしなかった。というより、祖父の様子を見て、これはまずい、と憂慮したという。それで何とかしようとはしたのだけど、いかんせん夫には逆らえない。
その点では祖母は古い人だったけど、同時に強い人でもあった。あたしは彼女からいろんなことを教わった。生きていくのに必要な、ほとんどすべてのことを。彼女は一人息子への過ちを、孫娘であるあたしには繰り返したくなかったのだろう。
あたしは今でもそのことに感謝していて、だから何もすることがなくて、ごろんと床に寝転がったときなんかには、よく彼女のことを思い出す。
そんな祖母も、あたしが小学生の頃に病気(肺がん)で亡くなってしまった。
今、家にいるのは父親の慎介とあたしだけだ。母親はいない。いないというか、正確にはどこにいるかわからない。
母親の名前は、藤江
藤江理佐は、父親とは対照的な人物だった。アクティブで、パワフルで、情熱的。いつもばっちりメークを決めて、一分の隙もなく身を固めている。無責任という言葉を超越していて、社会的規範なんて腹の足しにもならない、というタイプの人だった。
祖母が生きているあいだは、それでも何とか家にいついていたのだけど、そんな戒めもなくなるとあっさり家を出ていった。まるで、燃料をいっぱいに積んだロケットが、第一宇宙速度を軽々と突破するみたいに。
あたしが最後に彼女と会ったのは、祖母の葬式の時だった。その頃には所在不明になるくらいあちこち飛びまわっていた母だけど、その時だけはさすがに家に帰ってきた。どんな人間にも、敵わないものというのはある。
まだ現実というものに希望を抱いていた、もしくはそれを知らなかったあたしは、母に手紙を渡そうとしていた。〝お母さんのことが大好きです〟とか〝ずっと家にいてください〟とか、そんなことを連綿とつづった内容のやつだ。何しろ小学四年生の時のことだ。誰にも、当時のあたしを責めることなんてできはしない。
黒い喪服を着た大人たちばかりの席で、あたしは終始、母に手紙を渡す機会を探っていた。ほかの人には見られたくなかったし、できれば母と二人きりになれる時間を待ちたかった。それはとても大切な、母とあたしだけの秘密だったから。
ところが、そんな機会は結局訪れなかった。母はいつまでも誰かと話したり笑ったりしていて、一人になるということがなかった。子供であるあたしは当然のようにつんぼ桟敷で、そんな会話に割ってはいる隙はない。
それでも、夜になればきっと母と二人きりになれるだろう、とあたしはたかをくくっていた。何しろ、祖母は亡くなったばかりで、ここは母の家で、あたしは彼女を求めていたのだから。
でも、気がつくと彼女はいなくなっていた。実にあっさりと、実に容赦なく。渡り鳥が季節の変化に従っていなくなるのより、あっけなく。
あたしは大切な手紙を、渡しそびれてしまった。
何日かした頃、あたしはその手紙をずたずたに引き裂いて、灰皿の上で燃やしてしまった。あたしは泣いたり、怒ったりはしていなかったと思う。ただじっと、手紙が燃え尽きて灰になるのを眺めていただけ。
以来、あたしはほとんど母とは会っていない。
あたしは今でも時々、その手紙がどこかで燃え続けているのを感じることがある。
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