29 即身仏
キンコルが繭と形容して見せた球体の中において、そこに集った猛者たちに変化が訪れる。
その身を腐臭漂わせる人狼と化し、無限の再生能力故に不死を豪語するカテゴリー4の悪魔の僕である不死腐狼/アブー・アル・アッバースは元の全身に皺の依った虚弱で枯れ木然とした体躯へと痩せ細ってゆく。
まつろわぬ蜂の皮を被った異形、ボイジャー:アンブロシアの肉体もその形を保つことはできなかった。黄と黒の歪な縞模様を浮かべていた仮初の肉体が泥となって融解し、代わりに元から備わっていた少年の痩躯が姿を現す。いつか奪われていたボイジャーとしての重瞳を浮かべた眼球も彼の穴の開いた貌の空洞へと戻る。久しく目を通して世界を見るという感覚に彼は思いを馳せた。
主催者的な振舞いを見せているキンコルにも変化はあった。軍服一式を身に纏わせた見かけ上の軍人然とした装いがこれまた泥のように融解してしまう。一度その大柄な体躯の全体が泥を被ったように黒く染まり、少し時間が経つにつれて徐々に新たな姿を現していく。
新たなキンコルの姿を見て、目が復活したアンブロシアもすぐに瞠目することとなった。
これだけの大事業の最終工程だと声を張り上げんとするキンコルの不敵な態度を鑑みるに、どれほどのラスボスのような出で立ちを披露してくるのかと半ば期待する部分すらあったのだ。だが、現実の彼の姿はどうだろう。どれだけ美辞麗句で語り染めようとも、せいぜいが"死に損ない"の風体。それどころか一見の限りでは屍と断ずる判断もあながち間違いではないと言えるほど、生気という生気が失せた姿をしている。
これまでの軍服の上からでもうっすらと筋肉に支えられた肉体を捉えられたフォルムは見る影もなく、朱色の死装束にも見える衣装の奥で、文字通りに骨と皮だけくらいしか残っていない絞り粕にも劣るような、か細い人の形の何かが収まっているだけなのだ。
180cmを超えていたはずの体格も今ではその半分に満たない大きさまで縮こまってしまった。烏帽子にも見える朱色の頭巾を被った彼の貌は頭蓋骨をそのまま感じ取らせるまでに水分と脂肪の悉くを削ぎ落したような"渇き"を表しているようだった。
「……随分と貧相なナリになったじゃあないか。先ほどまでの余裕さはどこへ行ったのやら。獏に夢ごと喰われてしまったか?」
バゼットの物言いに対し、キンコルはすぐには言葉を返さなかった。誰もが次のキンコルの挙動に注目する中ではあるが、彼はそのいつ死んでもおかしくないような体で胡坐の姿勢を形造り、宙に座りながらゆっくりと顎を動かした。
「ふふ……よもや、遥かな格上相手に己の炎が通じないとわかった途端に気を滅入らせたどこぞの雑魚に言われるとはね。君も最初はたいそう調子に乗り、あの阿呆のような小躍りを披露してくれていたじゃあないか」
擲火の存在がやはり気に入らないらしく、キンコルはどこまでもバゼットを敵視するような嫌いがあった。
そして、バゼットとは別の理由でそのキンコルの姿に意を唱えんとする存在が一つ。今となってはいつ死んでもおかしくないような老体へと変貌してしまった巨大な狼、不死腐狼/アブー・アル・アッバースだった。
彼は既に失われた爪牙を唸らせるようにして歯を噛みしめ、手指を戦慄かせる。皺の寄った貌にはこれでもかと怒りの表情筋が刻みこまれ、垂れ下がった瞼の奥から光が滲み出る。
「貴様……このアブー・アル・アッバースをどこまで愚弄する気だァアアアッ」
怒号に先んじて彼を取り巻いていた鎖が揺れた。夢想世界において最大の制約装置としての機能を有する獏によって生み出された鎖は無限の物量と質量を持ち、不死腐狼が鎖の合間で藻掻くほどに太く硬く変質していった。
「僕の儀式の前提となる要素が君とまったくの対角に位置しているものだということは……確かにどこか皮肉めいているね、不死腐狼。俺が為す新世界創造はこのボイジャー:キンコル号の死をもって完成する。この木乃伊に至る五体を獏と結びつく楔と化す。自己犠牲の精神と完全に相対する立場にある不死とは分かり合えない考え方だろうね」
「醜い……醜い、醜い、醜い、醜いッ‼
どこまでも醜悪じゃ。何が自己犠牲。何が人柱かッ。人の身を以て人や人の世を救おうなどとは所詮弱者が寄り集まった末の生存戦略。自己の弱さを肯定できない人間が己以外を生の糧とせんとする無意味で無意義な低俗な闘争の形じゃろうがッ‼
まして、自らの命を擲ち成果を得んとするその蒙昧加減には反吐を出しても出尽きぬ不快さじゃ!死とは闘争の敗北に他らないッ‼命ある全ての存在はたった一つの決着のために崇高な闘争へと身を委ねるのじゃ‼その決着の在り方とは即ち死‼‼死という名の神にその身を委ねる最期の一瞬まで闘争は続くのじゃ。自ら命を絶つなどという行為、この世で最も醜悪で悪辣で唾棄すべき愚行であるぞ、恥を知れ小僧ォォオオオオ‼」
「どう…かな。この身を投じてでも叶えたい平穏がある。人類の安寧を夢見た末に辿り着いたこの答えを、誰彼構わずに祝福しろとは言わないさ。ただ、この夢は他らなぬ人類をその闘争の宿命から解脱させるための大いなる犠牲。この世界の何よりも尊く、美しい死に様であるということをご理解頂きたいね…」
徹底的に水分を排除した乾いた五体。敢えて言い表すとすればそれは骸骨に最も似ている生き物だった。かつてのキンコルらしさは消え失せ、朱色の死に装束の中でこくりこくりと首を傾けて言葉を紡いでいる。
「日本でもある程度の知名度を持つ衆生救済の瞑想方法、『即身仏』。
死を迎えてなお瞑想を続けた僧が仏界において仏として迎え入れられるという民間信仰により確立した概念だ。一部では都市伝説程度の語り草で済まされるこの儀式も、僕の計画に自分自身を仏と成すことをファクターとして取り込むことでその蓋然性を高めることに成功した。
当たられた数式をなぞるが如くして、私はこれより仏界に召される。仏界と象った我が大曼荼羅は現実世界において花開き、私が望むべくした世界へとこの手で導くことができるのさ」
そこでボイジャー:オルトリンデ号が疑問を呈した。
「わからないなぁ。…あなたが勝手に死に腐れることになんの意味があるの?即身仏だなんだと自分のやっていることを恰好つけたくなる気持ちはわからなくもないけど、事実としてその行為そのものが究極反転の実現を可能とするだけの要素を備えているとは思えない。獏の力で御仁方々の夢想解像が解かれた今、その死に目を晒したのはかなり長い時間をかけて鮮明にその木乃伊もどきの肉体をこっちの世界で構築したからだろうけど……夢想世界で生入定したところで、現実世界では言ってしまえばただの夢オチ。目覚めた頃に死の記憶で自分の精神が浸食されるリスクを無駄に背負うだけの愚行にも思えるけど……違うのかな?」
彼女の問にキンコルはすぐには答えなかった。もはや口も満足に動かせないのか、本当に死に目に瀕しているような状態が時間経過とともに深刻化している。
そして、彼女の問いかけに対する答えを述べたのは意外な人物の声だった。
『それには私からお答えしよう』
オルトリンデ、バゼット、ひいてはアンブロシアの耳が記憶の中にあるその人物の声を手繰り寄せ、人物を想起した。
「その声は……ロッツ博士」
オルトリンデが溢す。
「よもや貴様までもがこのふざけた計画に一枚噛んでいるとは言うまいな…‼」
『見下げ果てて貰っては困る。誰がこんなふざけた計画など賛同するものか。
しかし……。
しかしだ。キンコルの宿望を見抜くことが出来ず、目論まれた儀式がこれほどまでの段階まで至った以上はもはや止めることは相ならんッ‼
これほどの犠牲を払った以上、この星の歴史を百年早める結果を招いてでも道を逸らしてはいけないのだ』
声のみを届ける現実世界と夢想世界の通信において、有り余る緊張感を孕んだロッツ博士の声音。TD2Pの者らだけでなく、悪魔の僕の中にもロッツ博士の名を知る者は多く、不死腐狼/アブー・アル・アッバースもまた博士の声に僅かに表情を変化させた者の一人だった。
「夢想世界の研究において、ある程度の権威としても知られるロッツ博士のこと。きっと、とってもわかりやすいご説明をしていただけることだろうね」
オルトリンデが嫌みたらしく言ってみせた。
『ボイジャー:キンコル号が腹の底に据えた野望、”究極反転”。究極反転とは即ち、夢と
悪魔との契約を交わし、己の欲望と夢に堕ちた人間が悪魔の僕となる。そして、悪魔の僕がさらに悪魔に見初められることで究極反転を果たすと言われている。簡単な道理であるが、ボイジャーが悪魔の僕との契約によって力を得た存在でない以上、どう足掻こうと究極反転を実現させ、その効果を享受することはできない』
「できないんかい」
鎖に埋もれた状態で、蓑虫のようにもぞもぞと動くばかりのアンブロシアは言葉を漏らした。
『究極反転を人為的に行う術はない。……しかし、要素を押さえて再現することは不可能ではない』
「「「「………ッ‼‼‼??」」」」
一同の驚き様は絵画の趣すらあった。
『これは当の本人らであるボイジャーたちにも秘匿された情報だが……もとより、対悪魔の僕を想定したTD2Pの人体改造実験及び兵器運用計画である通称V計画には、その発案に関わった極少数の者と、それらと理念と共にするさらに限られた存在にのみ知ることを許される、意図的に隠された別の目的がある。
いや、違うな。別の目的ではない。本来、そちらの方が本懐であったのだ。悪魔の僕に対する対抗策として運用されているボイジャーも、本来の計画の中で行われた実験の副産物に他らならない。しかし、副産物とするにはあまりにも法外な力を有する存在を運用することで、半ば禁忌に踏み入れようとした本来の計画とは別の歩み方を遂げる結果となったのが現在のV計画とされている。
禁忌すら厭わない初期の構想。……毒を以て毒を制するとは良く言ったものだ。人間のやられたらやり返したくなる復讐衝動の成れの果てか。あまつさえ当時の研究者は一つの究極存在の誕生を目指した。夢想世界において、人間に力を与えた謎の存在を象った神に等しい機構。言うなればそれは、”人造悪魔”とも呼べるものだろう……』
ロッツ博士から明かされたV計画の本懐。飛び出した人造悪魔という単語。ボイジャーの運用を前提とした現代の対悪魔の僕の構造に一石を擲つような突飛な絵空事のようにも聞こえる内容だった。とりわけ瞠目しているのがボイジャー:オルトリンデ号だった。少女の小さな瞼がこれでもかと吊り上がり、眼球に収まった計四つの瞳が小刻みに震えている。
「人造…悪魔?」
『そうだ。この世界に悪魔の僕が誕生する要因である悪魔。現実世界に並ぶ絶大な影響力を持つ夢の世界が存在する現代において、最大の謎、最大の神秘とされる悪魔という謎の存在。悪魔こそが夢の世界で王であり法となり得るのならば、悪魔の謎を追求することこそが人類の存亡を握る鍵となる。だが、謎が謎を呼ぶ。どれだけの学者や研究者が人生を掛けた好奇心を悪魔の探求に向けても、没頭した者から先に命を落としていく。
まさしく悪魔的な事象だ。悪魔の僕の大立ち回りによる現実世界の精神汚染など可愛く思えるほど、悪魔研究には心神喪失の高すぎるリスクが伴う。秘匿気質な悪魔に関する研究も、その危険性が認識され始めた頃には中核を担う者らのボイジャー運用へのシフトを行ったことで、今のV計画の形が出来上がっていったのだ。
他ならぬ私もまた、悪魔の探求に心を奪われた研究者の一人であった。……だが、悪魔の研究に没頭していた実感、底知れない熱量を持った感情の記憶こそあれど、その時期や内容について思い出すことはできない。おそらく、これにも悪魔に対峙する者として向き合わなければならない障害の一つなのだろう。多くの者と同様に心境の変化が訪れた。
私の中にあった余りある熱量は、より強いボイジャーを生み出すという一点にのみ向けられるようになった。執念にも似たこの漲る活力は、最終的にこの場の錚々たる顔ぶれに並ぶほどの強力なボイジャーであるアンブロシアの誕生を最高傑作として、幕を引く結果になりそうだ』
「………………」
「おい、小僧」
壮年であるロッツ博士に対して小僧という名称を用いるのは不死腐狼/アブー・アル・アッバースであった。
「話が諄い。究極反転の方法を教えるのじゃ」
『嗚呼……かの、高名な不死腐狼/アブー・アル・アッバースと我が最高傑作であうボイジャー:アンブロシアが覇を競い合ったという事実だけで、この生涯も無意味なものでなかったかもしれぬと思うことができる……惜しむらくはボイジャー:キンコルの邪悪な野望の成就だな。
無論、私に知り得ることは全て語らせていただくとしよう。しかし、それを模倣することは出来ぬよ。真の不死を享受する方法は現実世界においても無限の再生力を獲得することができる究極反転であり、不死腐狼もまたその特性上、究極反転を望んでいるという話もまた有名だ。
だが、無駄なのだ。先に辿り着いてしまったのがキンコルだった。彼は恐るべき執念と一貫した夢を元に解を編み出してしまった。もはやキンコルこそがこの世界における最大最恐の魔王へと成就する。願わくば、その配役が我が最高傑作のアンブロシアであれば良かったとおもうばかりだが……仕方あるまい』
そこで状況に変化が生じる。
首を折り、胡坐をかいて静かに伏していた死装束が動く。木乃伊化した脂肪と水分の失われた人体が積み木を崩したように崩れ去り、真っ黒な泥となって融解を始めた。
後に残るは死装束に身を包んだ髑髏の姿。筋肉も関節もなしに、ホラー映画の異形のように、骨だけとなったその体躯で人体を成し、立ち上がる。
無論、骨だけとなったその生き物に発生器官などない。だが、その骸骨はわかりやすい人間の頭蓋を動かし、顎を振るわせて声を出して見せた。
<自分の尊大な夢に堪える才能というものも必要なのだよ。
確かな結果を残すために、俺はこの身の全てを捧げる覚悟を決めた。
今、ここに必要なファクターは揃った。
夢の肉。夢の骨。そして、神霊まで至ったこの魂。
三位が解を成し、三位が一を経る。
究極とはこれ、ここに。
さぁ、眠れ。世界最大の悪よ。
さぁ、目覚めろ。史上最大の魔よ。
この三位を以て契約としよう。
汝は悪魔へ。我が身は仏へ。
習合し、宿業を交わそう。
何より尊い、恒久なる平穏の為に>
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