Short Story 『韋駄天』

 葛原梨沙の将来の夢は誰にも負けないトップアスリートだった。

 

 両親の影響で幼少の頃から地域サッカークラブやスケートボードの教室に所属しており、1日に4時間、週に6日間というスケジュールをどこまでも楽しみながら練習に打ち込んでいた。昔は日本陸上の舞台で活躍していた父は彼女の才能に強く期待を寄せた。豊富な資金力を持つ母方の家系の援助も惜しみなく彼女に注がれて、彼女は小学校入学時には世界での活躍を見込まれてたスター候補として知られていた。

 彼女は小学校でも早くも才能の頭角を現し、体育の授業では類まれなる記録を残し、体育祭では成長期の上級生に劣らない活躍を見せた。鼻に突くようなぶっきらぼうで人を小ばかにしたような態度も、恵まれた家庭と与えられた才能を嫌う同級生からの反感こそ買えども、誰も彼女の悪口や嫌がらせなどはできなかった。確かに彼女は人並外れたような存在でこそあるが、特に危害を与えてくるわけでもない単なるアスリート気質の女子などは障らぬ神に祟りなしといった具合に次第に人が離れていく程度の生活が続いた。


 世間はいつだって物騒だ。ニュースを見れば恐ろしい悪魔の僕が日々を暮らす人間たちに多大なる被害を及ぼしている。時には緊急避難指示さえ下るような緊迫した事件が起こる中でも、彼女は当時に抱いていた世界陸上での活躍を渇望して練習に徹していた。

 彼女が10歳になる頃、既にその在り方は孤高の戦士を思わせるまでに徹底したアスリート体質へと変化していた。父からの指導は熱血と言い訳されるような強い暴力も伴うようになり、支援に徹していた母からは超えるべき同世代の人間の名前や特徴などが家にいる間にずっとラジオのように耳に垂れ流された。

 兄弟も友達もいなかった梨沙はそれでも自分の才能に矜持を持ち続けた。人と比べれば負けるところなんて殆どない。文武両道を実現できる程に地頭が良く、忍耐力もあった彼女はこの生活に不満はなかった。

 両親は梨沙の進路についてしきりに口論を繰り広げていた。どちらも彼女をトップアスリートに育て上げたいという思いでこそ共通すれ、理解できないような些細な認識の違いで衝突してしまうようだった。


 そんな時は自宅の周辺に流れる川の河川敷を奔った。ペースなど考えずに一心不乱に走っている時だけが、自分がこの世界の一部として溶け込めているような気分になった。

 何より走ることが好きだった。どんな負荷の筋肉トレーニングをクリアした時より、大会で地域の新記録を出した時よりもただ全力で走っている時が一番楽しい時間だった。

 風になるように駆けている間だけは鬱屈した気分も晴れる。どこまでもどこまでも上り詰めていけるという自信が湧いてくる。


 私はこの脚で英雄になる!

 

 僅か10歳の少女の頭に夢が浮かぶ。手を伸ばすことを自分自身に誓った強固な夢が。


 驟雨が降った。急に崩れ出した天気は強い風を運んでくる。雨に濡れながらの練習なんて珍しくはないが、子供心には何か不吉な印象を与えられるドス黒い曇天を前にして、彼女は家に帰ろうと思った。

 河川敷を遡っていく。足場が悪いので慎重に、それでいて速さを求めて走った。


 お前もか。


 何者かが進路に立ち塞がる。泥を跳ねさせながら梨沙は急停止した。いつになく心臓が高らかに鳴る。

 目の前の男に釘付けになった。一見しただけでわかる異常な存在だった。

 全身を鎧に包んだような頑強な装甲を纏う男。その手には絵物語に出てくるようなバカでかい剣の柄が握られていた。刃渡りだけで2メートルはあろうかという凶器を軽々と構え、その鎧の男は昂るような息使いで彼女をしかと見据えている。

 世間事情に疎い梨沙でもその存在は認識していた。今や世間の禍の渦中にいる存在で、連日ニュースのトップを飾るシリアルキラーだった。それもただの殺人鬼じゃない。この鎧の男は今や世間の常識となった世界中の夢が繋がる世界である夢想世界から、特別なケースの悪魔の僕だと言われている。

 通常、悪魔の僕と呼ばれる人類の敵は夢想世界でのみ特別な力を使うことができるとされている。それが人間の世界で脅威とされる理由は夢想世界での被害が現実に連動した影響を及ぼすという2つの世界を隔てた被害が生じるという点である。しかし、悪魔の僕の中でも特に限られた特別な個体は『究極反転きゅうきょくはんてん』と呼ばれる手段を通じて極稀に現実世界でも特別な力を扱うことができる場合がある。

 

 今まさに梨沙の前で剣を構える重装騎士こそがこの究極反転によって現実世界にやってきた異能の悪魔。

 才能ある人間や権威ある人間を好んで襲うと報じられている"反英雄はんえいゆう"と呼ばれる個体だった。


 彼女は反英雄との邂逅を確信して心臓が跳ねた。間違いなく、こいつは自分を殺す気だとすぐに分かった。

 反英雄の被害者は子供から大人まで様々な年齢層で存在する。女児だからって躊躇いなく殺すのだ。

 

 梨沙の目に光が差す。意味が分からないような出所の分からない闘争心に心身が包まれる。

 こいつから逃げ切りたい。圧倒的な速さで。


 夢の世界からやってきたかなんだか知らないが、その重装鎧の姿がお前の全力の姿なのであれば、私はそれを完全に否定しうるだけの走りを見せる。こいつから逃げきった時、私こそが最強なんだと自分を認めることができる。


 梨沙は駆けだした。泥だらけの足元を蹴り崩すほどの踏み込みで。息を忘れるくらいの全力で。

 背を見せるのではない。目の前で進路をふさぐその反英雄を躱すように正面から。

 誰にも負けることのないトップアスリートになるという夢を燃やした。





 両親が泣いていた。

 最近は言い争いばかりしていた両親が同じように顔を歪めて泣き喘いでいる。


 そこは沢山の管が張り巡らされた特別病室。真っ白な世界のような無機質な部屋に彼女は寝ていた。


 ああ。あれは夢だったのか。それよりもここはどこだろう。

 無垢な思いが頭に過る。


 あれ?


 葛原梨沙は両脚を失っていた。切断面は鋭利な刃物ですっぱりと。野菜をスライスしたような綺麗な傷跡だった。

 彼女はそれから吐き続けた。体の痛み。心の痛み。10歳という彼女には堪えられなかった。


 真っ白な布団が涙で湿った。言葉にならない嗚咽もとめどなく溢れ出してくる。

 堪えがたいショックだった。今、この瞬間に世界が滅びてしまえと願った。


 自分を否定された。現実か夢かも定かでない囁き声が聞こえてくる。

 あいつはもう終わりだ、とか。なんでこんな事に、とか。期待した私が馬鹿だったわ、とか。

 進路の話。資金の話。下世話な噂話。脚を失って過敏になった耳にはいろいろな情報が飛び込んできた。


 もう嫌だ。

 

 義足でふらふらと立った時、許容し難い怒りが沸き上がった。梨沙は義足を拒絶し、様々な関係者に怒号を吐き散らしながら自分の才能を主張した。

 こんな脚では何も為せない。

 こんな脚では私は輝くことができない。


 既に梨沙を突き放すような態度をとっていた両親からもとうとう見放された。


 ある日、両親は病室に怪しげな大人を引き連れてきた。何やら大人の言っていることはわからない。とにかく、両親は清々したような顔をしていた。それだけでも梨沙はこの瞬間から自分とこの人たちとの縁は切れたのだと直感した。


 最後にどんな言葉を投げかけられたのかは覚えていない。

 気が付けば彼女は夢の世界で脚を得ていた。自分のものではない。だが、とても立派な脚だった。

 自分が目指したものを手に入れた。そこが与えられた夢の世界だとわかっていても、現実に在る脚のない自分よりはいくらか己の事を肯定できるような気がした。


 V計画に伴う特別育成プロトコル。

 世界中から梨沙のような身体的、精神的な欠落があり、親に多額な報奨金と協力金さらには口止め料によって売られてきた同年代の子供たちが夢の世界で戦う兵器としての適性を見られた。奇妙な大人たちに囲まれながらも、梨沙は他の子どもたちとは抜きんでた適正をそこでも存分に発揮することができた。


 大人たちは驚いていた。どうにも、現実世界に実在しない脚をこうも明確にイメージして動かすことができるというのは優秀な大人でもとても難しいらしい。

 とんでもない話だ。

 私がずっと一緒に生きてきた脚の動かし方を忘れるはずないのに。


 夢の世界でどれだけ恐ろしい目に遭っても。どれだけ強い敵と戦うことになっても、梨沙は夢の世界に大いに依存した。現実に戻る度に存在しない脚を見てどうしようもない吐き気を覚える。夢の中ではトップアスリートだ。誰にも負けない神速を実現し、韋駄天の名を欲しい侭にすることができる。

 齢10にて正式登用された彼女はそれからは着実に兵器としての役割を全うした。

 与えられた命令を完遂し、夢の世界で悪事を働く存在を懺滅する。敵がどれだけ不遇な過去を持っていても、どれだけ悲しい理由を背負った存在だとしても、関係ない。

 倒して、倒して、倒して、倒す。手加減はない。パターンだって増やし続ける。自分を磨き続ける。


 負けない。勝ちたい。誰にも負けたくない。誰であっても勝ち誇りたい!


 脚は次第に黄金の光を持つようになった。

 心の渇望がこの夢の世界での神速の夢を叶えた。

 だが、彼女にはまだ他に成し遂げたいことがある。


 悪魔の僕の中でも類稀なる事例にのみ存在する最強の中の最強の証明。

 "究極反転"の力を手に入れて、現実世界でもこの神速を実現させる。

 その時はきっとこの夢の世界でしか存在しない輝かしい脚も現実世界に持ってくることができる。

 9年経った今でも"反英雄"は未だに討伐されていない。現実を彷徨うあの悪鬼羅刹を同じステージで屈服させてこそ、その人生はようやく大成すると彼女は大いなる野望を抱いた。



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佐呑島さどんとうで周遊旅行?」

 スカンダは聞き直した。電話越しの会話にしては珍しい相手だった。


「そ。俺の任されてたプロジェクトも大詰めってカンジでねぇ、せっかくだからこの前の信号鬼戦の労いもかねて招待しようかなって」

 

「アンタ、私が脚ないの知ってるでしょ、キンコル。アタシは悪いけどそんな島いくつもりないから」


「えー。そうかぁ。んん、まぁ嫌だというなら無理強いはしないさ。ただ、もしかしたら君の出番もあるかもね」


「どういうこと?」


「いや、世の中何が起こるかわからないって話だよ。楽しい楽しい旅行が地獄絵図になることだってこの御時世だから絶対にないとは言い切れないしさ」


「……何する気なのか知らないけど、あんまり本部に目を付けられるようなことするんじゃないわよ?あいつだって佐呑に行くんでしょ?」


「あいつって?」


「あのヒョロガリの新機体」


「ああ。アンブロシアね。もちろん誘ったとも。佐呑は眺望も良いからね、若いうちにああいう景色に触れるってのも大事なことさ」


「ほんっと、口先ばっかり達者なオッサンだね。まぁあいつに伝えといてよ」


「?」


「お疲れ様ってさ」


「……おっけー」

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