第五話『激突する一等星』その11
東条は、もう何も話してはくれなかった。
旧篠塚城跡地。
かつては日に何百人という侍が出入りしていたその大所帯も、今はむき出しになった地面を、夜毎月明かりが叩くのみである。周囲の堀は埋め立てられて久しく、わずかな石垣が残っていなければ、ただの工事現場にしか見えなかった。
空振りした赤い拳が、勢十郎の背後にある石垣を貫通する。その拳圧だけで、彼は何メートルも地面の上を転がった。
……キミヲ、キミニシテルモノハ、ナニ?
耳から離れない東条の質問が、勢十郎の胸をざわつかせる。吹き飛んだ勢いで擦り傷だらけになりながら、彼は砂混じりの唾を吐き捨てた。
不思議なことに、すでに勢十郎の中には、東条に対する怒りや憎しみといった負の感情が働いていない。どれだけこの赤鬼に殴られようが、自分に対する
拳を振り抜いた赤鬼は、無表情で大槻勢十郎を見ていた。
この状況の解決方法を、勢十郎は知っている。
現実逃避にも似た、たった一つの冴えない手段。
勢十郎はゆっくりと立ち上がった。
「見せてやるぜ、黒鉄。大花楼の、お前の主が根性ナシじゃねえってところをな」
暴き出す。
ずっと探していた、『なにか』。己の魂が隠し持った、未知の力。
勢十郎がそれを意識した瞬間、心臓の近くから蛇口が砕けるような音がして、下っ
「か――」
全身から吹き出した何かが、大槻勢十郎を空気抵抗から解き放つ。
全身を縦に走るラインに
勢十郎は
「――、覚悟しやがれッッッッッ」
背面から
十数メートルもあった
大気を切り裂く、どころの話ではない。
霊圧で空気を吹き飛ばし、真空スペースに腕ごと拳を突っ込んでいるのだ。
指先から肩口に至るまで、毛細血管は
しかし、
「東――、条ッッッッッッッッ!!!!」
決死の代償と引き替えに、彼の右拳は超音速の刃と化していた。
射程距離、たった二メートルの必殺技が、城の石垣を吹き飛ばすほどの霊波動を巻き起こした。赤鬼の巨体が、みずから魔拳に吸い寄せられていく。
加速開始から、数千分の一秒が経過。攻撃を繰り出した勢十郎は、すでに半死半生の有様だ。
鬼は臓器を硬化し、筋肉を増強し、反射速度を上げ、眼を開き、耳を澄まし、嗅覚を利かせ、全神経を研ぎ澄まし、第六感まで全部使って――、
これは、もう、無理だと悟った。
勢十郎の目の前に広がる最後の一瞬が、数万倍に引き伸ばされていく。もう、何がどうなっているのかすら分からない。拳の速度はとっくに知覚限界を超えていて、この勢いを止めようものなら、それだけで自爆、即死は確実。
それでも勢十郎は、思わずにはいられなかった。
――――なぁ、なんか言ってくれよ、東条!
たった一人で百年以上も頑張って、とうとう鬼になってしまったこの刀仙の、最後の言葉がどうしても聞きたい。たとえそれが自分に対する恨み
あんた本当に、それでいいのか? 納得できんのか!?
この一瞬でそんな馬鹿げた事を考えてしまったのは、彼が一人の人間として、東条を尊敬してしまったからだ。
大花楼の住人が、法力僧が、松川切絵が、そして黒鉄が、この世界のすべてが否定しようとも、勢十郎は自分を貫いた東条の生き方に、
だからこそ、だ。
この男との勝負を裏切った自分の愚かさが、勢十郎にはどうしても許せなかった。
……いきにくい、なぁ。
――――ホント、生きにくいよなぁ、東条。
時間が、元の速さを取り戻す。
この刀仙が積み上げてきた時間に比べれば、それはあまりにも短い、刹那の出来事だった。
爆心地は、左肋骨十一番。
拳が激突した直後、全身を粉々に砕かれるような超打撃の反動が、勢十郎を滅多打ちにする。踏みしめた地面は一瞬にして陥没し、視界がレッドアウト。
だが、まともに彼の拳を受けた赤鬼のダメージは、それ以上だった。体内から青白い輝きが
放出された霊気の
肉も、骨も、信念さえも、
「はぁっ、は――ッ。は――っ。は、はぁッ」
完全燃焼した。正真正銘、全部出し切った。
そう思った途端、両足は力をなくし、勢十郎は大の字に転がっていた。
ひらけた空は、星で埋め尽くされている。その一粒一粒が大きく感じられるのは、七期山の高さのせいだろうか。
星までの距離も、その間に流れる風も、勢十郎にはすべて寂しかった。
頭の方から、ひた、ひた、と、聞き慣れた足音がした。
「……見事すぎて、言葉もないわ。主どの」
「心にもねえこと、言うなよ。先生……」
「ふふ、ふ。少なくとも、黒鉄はそう思っておるじゃろうて」
「そんなことは、ありません」
ペンギンを抱きかかえた黒鉄が、不満そうに勢十郎を見下ろしている。
頬をふくらませると、怖いというより可愛く見えるんだぞ、と言いかけて、勢十郎はやめた。確実に、顔を踏まれてしまう。
「…………なぁ、東条は死んだのか?」
黒鉄は、何も言わずに頷いた。
鬼になってしまった事で、皮肉にも東条は不死の力を失っていたのだろう。
勢十郎は背中を支えている大地の感触に安堵して、また星空を見た。もうしばらくは、指一本も動かせそうにない。
「そう、か……」
力尽きた勢十郎に気付かれないよう、黒鉄はそっと、神通力を解いていた。
再生能力を無効化する、というこのハコミタマの神通力は、一度刀を手に取った者に、任意で発揮させる事ができた。が、そんな事は言わぬが花だ。
それが、彼女とペンギンの結論だった。
彼が彼の力で鬼を倒した。それでいいのだ。
あの刀仙もきっと許してくれるだろう、と。
勢十郎が夜空に
「東条ぉおおおおッッ! さっきの、質問だけどなぁあああッッッ」
君を、君にしているものは、なに?
意思を感じさせる瞳?
鍛えあげた体?
磨き抜いた知性?
それとも、人並みに動いてる心臓?
……違うよな? そんな事じゃないよな、東条。
黒鉄も、先生もいるのに、自分でも驚くほど、赤ジャージの少年は素直に言えた。
「――――、悪い。俺も今、探してんだ」
第五話 終
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