サボテンの残響

みのりすい

第1話


 神さまはすべてを与えてくださる。幸福も不幸も、苦難も歓びも、食べ物や着るもの、誰かとの繋がり、生や死。遠くどこかの星の瞬きさえも、神さまのなさったことらしい。

 神さまは多くのことを教えてくださる。この世にはしてもいいこと、悪いことがあって、それは神さまの御心に背くかどうかで初めから決まっていることなんだって。神さまは正しい人だけを愛し、悪い人には罰をお与えになるのだ。

 私の母には神さまがいる。

 母の心に神さまが住み着いたのは、わたしが十一歳の時のことだった。

 週末のある日、母は二歳になったばかりの妹の茉鈴を連れてどこかへ出かけ、夕方に帰って来ると、魅せられたような静かな興奮を宿した目でわたしに言った。

「ねえ、どうしてあなたのお父さんも、茉鈴のお父さんも、わたしを置いて行ってしまったんだろうね」

 そんなこと、当然わたしには分かりっこない。首を横に振ったわたしの当惑も目に入らない様子で母は頷いた。

「そうね、わたしにも分からなかった。ずっと、お母さんが悪いんだと思ってた。だから、あんたにもずっと、わたしのせいでお父さんがいなくて、申し訳ないなって思っていたのよ。――でもね、聞いたの。神さまが、わたしをお試しになっているんですって。わたしは神さまに愛されているから、神さまはわたしの愛をお試しになるの。ずっとわたし、上手くいかないことばかりだった。わたし、なにもできないから、いつもばかにされて、騙されたり、ズルいこと、たくさんされたりしてきた。どうしてだろうって思ってたの。わたしはただ幸せになりたくて、でも、他の誰を不幸にしたくもなかったから、正直に生きてきた。だのにどうして、わたしばっかり……。その答えが、ようやく分かったのだわ。教主様がわたしにこう言ってくださったの。神さまは全て見てくださっていますよって。神さまは全部知っていて、わたしが愛するに足る人間か、お試しになっておられるの。わたしを苦しめるすべてのことは、神さまが下さった贈り物で、神さまはわたしを苦しめる全ての悪人を、運命の輪の中に閉じ込めて懲らしめてくださるの。わたしは選ばれた人間だったの。選ばれなかったのは、あいつらの方だったのよ」

 母は熱っぽく一息に吐き出した後、うっとりと、まるで死の縁の人が優しかった思い出に浸るように微笑んだ。

 わたしは母が言っていることの意味の半分も理解していなかったけれど、ちょっと怖いなと思った。だって語る間の母はずっとわたしのことを見つめていたけれど、その瞳にはきっと、わたしは映り込んでいなかったから。

 でもわたしは妹の世話と仕事とで疲れ果てた顔をして、無理やりに微笑んでくれる母の表情ばかりを見ていたから、安らいだ笑みを浮かべる母に安堵して微笑んだ。

「うん……、良かったね」

「慧瑚も、分かってくれるのね」

 ありがとう、と母はわたしを抱きしめてくれた。その疲れた手に抱かれ、わたしはもう何年も、母にこうして抱かれたことなどなかったことに気が付いた。わたしの心はぽっぽっと温かくなり、こうして母を微笑ませてくれた神さまと教主様とやらに感謝した。

 なにか心に波立つものを感じたけれど、わたしはまだ子どもだから、母の言うことがきっと正しくて、わたしが思ったことに大した意味なんてないはずだった。なによりこの手のぬくもりをくれた神さまのおっしゃることに、間違いなんてあるはずがなかった。


 パンッ、と何か弾ける音がしてわたしは顔を上げた。理科室のグレーの塗装床に、割れた試験管と漏れ出した硫酸が散らばっていた。

 悲鳴のように息を呑む音がした。黒崎さんが咄嗟にかがみ込もうとして、いつもぼんやりとした笑みを絶やさない小山内先生が見たことのない厳しい表情で、触るな!と叫んだ。駆け寄り、立ちすくんだ黒崎さんを頭のてっぺんから爪先まで見回して、今度はいくらか表情を緩めて、液を浴びていないかと問いかけた。

 先生はてきぱきと指示を出して、あっと言う間に零れた硫酸も割れた試験管も片付けてしまった。

 理科室から三年生の教室に戻る間、五人組の女子グループが、小山内先生は意外とカッコいいとか、そうじゃないとか言ってケタケタと笑っていた。前を塞がれたわたしは歩調を合わせ、もうちょっと早く歩けないものかなとぼんやり考えている。

 わたしは廊下の窓から外を眺めている。

 夏の終わり。

 青色に蓋をされたようだった空は今、透き通り、底が抜けたように遠い。その下には学校の周囲を囲う住宅街の屋根、外壁がモザイク模様のように広がり、住宅街を抜けた向こうには、幅の広い川とそこに架かる橋が見えていた。わたしの住む集合住宅の薄汚れた白い直方体が、橋の袂を遮るように無遠慮に立ち塞がっている。

 窓枠の切り取った景色はわたしになんの感傷も抱かせず、次のフレームをまた覗き込む。こんな風にして毎日が行き過ぎる。こんな風にして毎日をやり過ごしている。

 何も考えずにぼんやりと前のグループに付いて行くままだったから、階段で誰かにぶつかりかけて、わたしは過剰反応気味に跳び退ってしまった。

「ごめんなさ……って、あんたか」

 あんたかってなんだよ、と眉をしかめたのは遠山礼二だった。礼二は別のクラスの同級生で、小学校は違ったけれど、中学生になる前からの付き合いだ。わたしたちは毎週末、集会所で会う。

 礼二は声を低めてわたしに耳打ちした。

「お前さ、先週、来なかったじゃん」

 その話か、とわたしは苛立ちを隠さず睨みつけた。

「で?」

「うちの親が言ってるの、聞いちゃったんだよ。松本さんちの娘さんはあまり活動に身が入っていない、あの家のランクを下げるべきだとか、どうとか」

 瞬間、胸の奥が煮えくり返りそうに熱くなった。

「わたしがどうしたって、わたしの勝手でしょ。それがどうしてお母さんの話になるの」

「いや、お前も知ってるだろ。身内の徳が低いのは家族の責任だって。お前の親だって、高い金払って今のランクになったんだからさ」

 礼二は平然として言う。わたしにはそんなズルいことを当たり前みたいに言える気持ちが分からなかった。でもズルイなんて言ったって、どうズルイのか、きちんと言葉にできるだけの頭がわたしにはなかったし、出来たとしても神さまの言葉は絶対だ。わたしの気持ちは誰にも届かない。

 粘りつく液体に身を浸されて、思うように身動きできないでいるような気持ちになる。わたしは総身に力を込めて抜け出そうとするけれど、手も足も重く、沈んでいく自分をどうすることもできないのだ。足元を見れば、わたしを捕らえて放さないのは母と妹だった。

「礼二の親がどう言おうが……!」

 わたしは苛立ちに任せて声を荒げた。けれど礼二は少しも動じずぴしゃりと言った。

「俺の親がそうだって言えばそうなるよ。分かってるだろ」

 わたしは何も言い返せない。礼二は周りに聞いている人がいないか確認して声を潜めた。

「とにかく、次の集会には絶対に来いよ。たぶん、俺に聞かせたんだと思う。最後通告のつもりかもしれない」

 目の前がちかちかする。白く見えるそれは雪の欠片のようで、胸の奥に降り積もってはわたしの身体を重くする。わたしは積もるものを散らすように、はあっと息を吐き出した。

「――分かった、行く。行くけど、もう学校でこんな話、しないで」

「悪い、ちょうどいいと思ったからさ」

 悪いとは言いつつ、礼二が学校でこういう話を持ち掛けてきたのはもう五回目のことになる。聞いておいただけで大して気にしてはいないんだろう。礼二はわたしと違って、裏切り者じゃないから。

 礼二が行ってしまった後、わたしはもう一度大きくため息を吐いた。指先にぴりぴりと痺れが走るような心地がした。気持ち悪い。生理中だからかなって冗談で誤魔化す。

 わたしがなにをしたって、どうしたって世界は変わらないんだって分かっている。この世界は神さまのもので、その手のひらの上で転げまわって、暴れまわって、泣いたり、叫んだりしても、神さまはきっとにやにや口元を歪めてわたしの踊る様を眺めて面白がっているだけで、わたしのことを助けてくれない。わたしのことを愛してくれない。

 

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