第4幕 案内係探偵~事件解明の席へご案内~


     ( 1 )

 休館中の劇場は、静謐の殻の中で安らかに眠りについていた。

 昨日まで千人余りの観客がざわめき、歓声を上げていた。

 口笛、大向こう、拍手、時にはステップの嵐の風が吹き荒れていたのに、今日は何と静かな事か。

 この大きなギャップが好きな南座に努める案内係がいた。

 案内係チーフの林田ゆり子。40歳。独身。

 これ程落差がある勤め先は他にはあるまい。

 今朝出勤すると、まず1階にある案内所へ行く。

 忘れ物を取り扱う部署でもある。

 休館中でも忘れ物の問い合わせは多い。

 劇場は次の公演に向けて動いていた。

 舞台では時間をずらして、大道具、照明の仕込みが行われる。

 客席へ通じるドアが開いていた。

 いつもなら閉じているのに気になった。

 客席の前列で何やら作業していた。

 ゆり子は近づいた。

「お早うございます」

「ああチーフお早う」

 返事してくれたのは、案内係の上司でもあるフロントマネージャーの大林のぶおだった。

「何してるんですか」

「客席の撤去です」

 見ると大林の手には十円玉が握られていた。

「客席の足を外すビスはマイナスなんです。これが重宝します」

「何で外すんですか」

 大林が説明してくれた。

 来月上演される「スーパー歌舞伎・平安京」では、緞帳前で芝居を行うシーンが多い。

 南座の緞帳前は幅が狭い。

 そこで客席1列全てを撤去。

 その後、舞台と同じ面で特設張り出し舞台を作る。

「業者に頼まないんですか」

「ほんまに、そう思う」

 大林の傍らで作業していた管理の中戸文雄が答えた。

「業者に頼めば高くつく。我々社員なら、業務の中での作業です」

「経費節減ですね」

「正解」

「おきばりやす」

 ゆり子は再び案内所に戻る。

 副チーフの藤森詩織がいた。

 休館中はいつもこの二人だけの出勤となる。

 他の案内係はお休みである。

「ゆり子さん!ビックニュース!」

 大げさに両手を大きく振っていた。

「詩織、どうかした?」

「尾田圭子さんって知ってますよね」

「もちろん。ここの案内係だった」

「そう。圭子さん今度お見合いするそうですよ」

「へえ、よかったじゃない。今時でもお見合いあるんだ」

「そのお見合い場所。どこだと思いますか」

「さあ。洛中ホテルか、平安国際ホテル」

 京都の最高級ホテルの名前をゆり子は上げた。

「ブー。ホテルじゃありません」

「じゃあ嵐山の花筏旅館とか」

「だからホテル旅館その類いじゃないです」

「ええ?公園?遊園地?」

「ブー」

「早く答え教えてよ」

 詩織は嬉しそうに指先を自分の足元を指した。

「足?」

「もう違います!ここ」

「だからどこ?」

「ここ。南座です」

「よかったじゃない」

「あれ、びっくりしないんだ」

「うん。聞いた事あるから」

 昔、大林の月末開催される新人案内係研修に立ち会った時に聞いた事があるからだ。

 南座は伝統ある劇場。

 実は観劇は、お見合いにはうってつけの環境だそうだ。

 観劇なので、上演中は話さなくても良い。

 初対面同志だと、一体何を話してよいかわからない。

 だから良いそうだ。

 話題に困ったら今見た芝居の話をすればよい。

 例え気に入らない相手でも本人は基本ただで芝居が見られるのだ。

 終演後は何処かで軽くお茶して来ればよい。

 だから今ほどホテルも娯楽施設もない時代、南座観劇はよくお見合いに使われたそうだ。

 それは東京も同じで歌舞伎座で見合いがよく行われたそうだ。

「相手はどんな人なの」

「それが当日までわからないそうです」

「写真、動画は?」

「さあ知りません」

 ゆり子自身も元同僚のお見合い話に少し安らぎと羨望を交えていた。

 40歳ともなるとまず友達知り合いの結婚話はなくなる。

 友人の大半は20代、30代前半で結婚している。

 友達の話題は子育てと旦那の悪口。

 当然独身のゆり子とは話が合わなくなる。

 お互いに会う回数も減り、以後連絡は途絶える。

 お祝いの席に参加出来る回数のピークはやはり30歳前後だ。

「ゆり子はいつ結婚するの」

「紹介しようか」

「今度婚活パーティーやる友達いるの。参加してみる?」

「このマッチングアプリいいそうよ」

「でもあの○○○アプリやめた方がいいよ。さくら多いから」

「あと新手の勧誘が待ってる」

 ゆり子の耳元でささやいてくれるこの婚活話。

 この手のピークも30歳前後。

 それ以降徐々に減る。

 40歳となるとゼロとなる。

 たまに高齢者向け婚活パーティー案内ダイレクトメールが送られて来る。

 一体どこでこの個人情報が洩れているのか気になる。

「私もお見合いしたい」

「お見合いでいいの」

「て云うか、イケメンと出会いたい」

「ただ何もせずに、じっとしてては駄目。私みたいになるよ」

「ゆり子さんは、高望みしてたんでしょう」

「誰がそんな事」

「他の案内さん云ってました」

「他って誰?」

「ですから他は他です」

 詩織は個人名を挙げるとまた揉めそうなので云わなかった。


 スーパー歌舞伎「平安京」の上演が始まる。

 切符の売れ行きは上々だった。

 初日開幕の時点で、すでに満席の日が続出していた。

 東京新橋演舞場で2か月ロングラン公演を先に行った。

 商業演劇の劇場は通常、一か月だったが2か月公演を行った。

 日を追うごとに話題となり、ついに完売。

 東京で見れなかった観客が、京都南座公演を目掛けて来る。

 丁度10月。

 秋の京都観光を兼ねて来る。

 そして、元案内の尾田圭子が案内所にやって来た。

 圭子は、案内係にお土産としてケーキ15人分買って来た。

「チーフお早うございます」

 開場してすぐではなく、15分後、人出が落ちついた所を見計って顔を見せた。

 圭子らしい心遣いだった。

「圭子さん、聞いたわよ」

「あら、もう噂広まってるんですか」

「噂じゃないでしょう。お見合いでしょう」

「ええまあ」

 圭子ははっきりとは肯定しなかった。

 すぐ後ろに並ぶ人。

「じゃあ」

 圭子は気を利かせてはけた。

 ゆり子は本当はもっと話したかった。

 しかし開場した案内所には番付(筋書)を買いに来る人。時間を聞きに来る人。お弁当の事、周辺観光場所等を聞きに来る人。

 様々な人がひっきりなしに来る。

 圭子は来た時、エアポケットのように、開いただけだ。

 ゆり子は、時々目で圭子を追う。

 案内所の隣のブースではイヤホンガイド貸出場がある。

 圭子はそこで2台のイヤホンガイドを手にするのが見えた。

 イヤホンガイドでは馴染みの丹波橋代と談笑するのが聞こえる。

「圭子さん、お久しぶり」

「元気だった橋代さん」

「圭子さん、お見合いなんでしょう」

「あら、まあもうイヤホンガイドまで知れ渡っているんだ」

「もう南座中です」

「嫌だあ。2台お願いします」

「ああ彼氏さんの分もね。1台おまけしときます」

「有難う」

 圭子が案内所の前を通り過ぎる。

「チーフ。じゃあまた」

「はーい」

 圭子は場内に入る。

「圭子来たわよ。1階芸オモテ。席番チェック!」

 ゆり子はワイヤレスホンで指令出す。

 芸オモテとは、花道を挟んで、舞台に向かって右側、つまり上手側の客席の事を示す。

 開場すると案内係は全員耳にイヤホン装着。

 腰の後ろに機器を挟む。

 胸元に小型マイクをクリップで止める。

 これで館内全域で聞こえる。

 何か突発的な出来事。

 例えば、お客様がこけたとかなると当事者がすぐにどこでどんな事故、事件が起きたか知らせる。

 すぐに返答来た。

「圭子、席に座りました。席番は8列13番です」 

 詩織の声だった。

「詩織、案内したの」

「案内しようとしたら、圭子がわかってるからと手を振りました」

「そう。で隣の席は」

 一番気になる事だった。

「まだでーす!速報お待ち下さい」

 この一連の会話は2,3階席の案内係も聞いていた。

 ゆり子は案内所にある座席表を見る。

 8列13番➡圭子

 8列12番➡通路際

 開演が迫る。

 逐一詩織から速報入る。

「8列14,15番はおばさん二人連れです」

「じゃあ8列12番がお見合い相手ね」

「そうです!」

 切れる。

「ゆり子チーフ」

 案内所に一人の客が来た。

「まあ千本さん」

 馴染み客だ。

「今日はお一人ですか」

「ああ、今日は独り。ゆっくりと観劇させて貰う」

 そう云って千本は、ゆり子に差し出した。

 ポチ袋だった。

 表のあて名が逆だったので読みにくい。

 あて名はなく、

「松の葉」と書かれていた。

 開演5分前となる。

 じりじりと待つゆり子。

 恐らく圭子はそれ以上、待ち焦がれているに違いない。

「チーフ、登場です」

「で、どんな人」

「そ、それが信じられません!」

 ここでぶちっと切れた。

 ゆり子は、案内所を出る。

 今は開演を知らせるブザーが鳴っているので、誰も来ない。

 すぐそこなので、走って8列12番の席へ行く。

 見ると詩織が杖をついた千本を手を繋いでゆっくりと案内していた。

「チーフ!」

 詩織の身体が固まる。

 千本も杖をついたまま振り返る。

 ゆり子の顔を観て、小さく会釈した。

「ああいいから案内して」

「はい」

 ゆり子は見た。

 座っていた圭子が立ち上がり、困惑の表情でその老人を迎えていた。

 開演すると各案内は通路の後ろのパイプ椅子に座る。

 すると人数が余る。

 そこで順番に小さな休憩を取る。

「どうなってるんですか!」

 詩織は少し怒りを覚えながら先ほどからゆり子に毒づく。

「何が」

「だって100歳ですよ!見合いの相手が100歳の超老人なんて!」

「結婚に年の差なんて関係ないでしょう」

 老人の正体はゆり子も詩織も知っていた。

 西陣の大旦那だ。

 名前は千本通男。

 総資産は3000億円とも5000億円とも云われる。

 戦後洋服の大波を受けて西陣界隈はあっと云う間の没落した。

 しかし千本はその大波が来るのを早くから察知していた。

「脱・西陣」

 西陣景気が覆われていた頃から有り余るお金で、京都繁華街一等地の土地を買い漁る。

 さらには、マンション、一戸建てブームを察知して北山通り等、閑静な界隈の土地も習得していた。

 不動産はバブル景気の時に半分は売り払い、半分は持っていた。

 自身でマンション建設、ビジネスビルを建て、大家として君臨した。

 妻は20年前に他界。

 愛人は30人とも40人とも云われるが正式な籍に入っている妻はいない。

 子供もいない。

「あー!畜生!圭子の奴上手い事やりやがって」

 詩織は可愛い顔立ちとは裏腹に毒を吐き続けた。

「まだお見合い成立したわけじゃないでしょう」

 ゆり子は詩織の怒りが可愛かった。

「あいつ、昔から老人転がし上手いから」

「圭子の昔を知ってるの」

「知ってる!」

「と云ってもこの都座勤務からでしょう!」

「そうです!」

 圭子が都座で働いていたのは、3年ほどである。

 大体の案内は1年で辞める。

 長くて2年である。

 だから3年は長い方だ。

「圭子、絶対顔見世で上手くやったんだ」

 毎年12月は、南座で顔見世歌舞伎興行が行われる。

 それに千本は必ず5回観劇に訪れる。

 何故5回かと云うと、京都五(ご)花街(かがい)(祇園、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)それぞれの舞妓を連れて来るのだ。

 本来、お茶屋遊びは、一つの花街に決めるのが鉄則。

 しかし千本だけは特別に許されていた。

 その顔見世の時、案内係全員にポチ袋を渡す。

 中身は1万円。チーフは3万円だった。

 ゆり子は後で知った。

 南座で働く全ての人に渡しているのだ。

 大道具、照明、小道具等の裏方からテナント、役者、付き人、番頭までだ。

 その金額は細かく分かれていて幹部役者は、100万円とも300万円とも云われていた。

 歴代の総理大臣、京都府知事、市長はその職務につくと必ず千本の元に挨拶に来る。

 さらに天皇、上皇が京都入りした時は必ず千本が顔を見せる。

 政財界にも顔を持っていた。

「何で千本爺さんと知り合ったのかなあ」

「もちろん南座でしょう」

「じゃあ質問です!チーフ!」

 詩織が手を挙げ、ゆり子を睨みつけた。

「案内係沢山いました。何で圭子なの。何で私やチーフ、あなたじゃなかったんですか!お答え下さい!」

 まるで国会の質疑応答である。

 ゆり子は、スマホの時計を見る。

「さあ交代時間よ」

「お答え下さい」

 ゆり子は無視して先に立ち上がる。

 靴を履きながら、くるっと振り返る。

「本人に聞いてみたら」

 ゆり子はそう言い残して出て行った。


  ( 2 )


 幕間に入る。

 休憩時間である。

 食事タイム。

 南座には、大型食堂がない。

 だから観客の大半はお席で買って来たお弁当を食べる、もしくは売店で買う。

 時にはこの時間を目掛けて祇園界隈の仕出し屋の弁当屋が正面玄関に集結していた。

 圭子は千本の手を引いて玄関に姿を見せた。

「外へ行かれるんですか」

 ゆり子が聞いた。

「いえ、千本さんが、仕出し屋さんを予約してたそうで。付き添いです」

「そうですか」

 ゆり子が玄関先を覗く。

 今日は、5つのお店の人が来ていた。

 千本は、祇園「白川」の小僧さんを見つけた。

「ご苦労さん」

「毎度有難うございます」

 出ていこうとすると千本が

「ああちょっと待ちなはれ」

 そう云って、ポケットからポチ袋を取り出した。

 それを差し出した。

 表書きには、「松の葉」と書かれていた。

 お弁当は一つだった。

 ゆり子は思った。

(二つじゃないのか)

 資産家なのに、意外とケチなのか。

 でも出前の小僧さんにはポチ袋を渡していたではないか。

「千本さん、どうですか」

 案内所にいたゆり子が声かけした。

 千本はその意味をはき違えたようだ。

「おお、そうじゃった。はい番付下さい」

「あっ、有難うございます。1冊ですね」

「いや2冊。こちらの方にも」

「有難うございます」

 圭子は慌てて頭を下げた。

 お金とポチ袋を渡す。

 千本は何か買う度にポチ袋を渡していた。

「松の葉って何ですか」

 圭子は先ほどから渡してるポチ袋の表書きが気になり質問した。

「祝儀の一種。祝儀よりも金額が低い。まあお茶代ですよ」

「幾らなんですか」

「3000円。お前さんにも渡す。心配するな」

「あっすみません」

 また圭子は頭を下げた。

「圭子さんどう?」

「順調です」

「そう。それはよかったじゃないの」

 ゆり子は手で招く。、耳元で囁く。

「年齢差は気にならないの?年の差、70歳位でしょう。相手にしてみたら、ひ孫みたいなもんでしょう」

「ええ少し戸惑いました。でも年の差は関係ないです」

 正面扉に立つ詩織がじっと凝視していた。

「千本さん、圭子さんの事どうですか」

「ああ、よくしてくれてる。有難いですなあ」

 ゆり子は、本当はもっと突っ込んで聞きたかった。

 一方圭子の方も何か云いたかったようだ。

「これ、今の私の携帯番号とメールアドレス。それとラインID」

 それを渡して圭子は千本と客席に戻る。

 詩織のそばを通る。

 俯いて圭子は通り過ぎた。

 それを見届けて詩織は案内所に駆け寄る。

「チーフ見ました」

「何を」

「お弁当一つだけ!」

「それ私も気になりました」

「普通2つ頼むでしょう」

「普通はね」

 ゆり子も素直に同調した。

「何か気になる」

「何が」

「あの二人。本当にお見合いなんですか」

「圭子さん云ってたでしょう」

「しかし。そんな空気ない!」

 幕間30分の内、半分経過する。

 南座では案内2人が大きなゴミ袋を持って前からゆっくりと後ろに進む。

 食事時なんで、弁当ガラが出る。

 詩織もペアで進む。

 千本、圭子の所の一つ前まで来る。

「野田さん、どうぞ」

 男は野田と呼ばれた女の弁当ガラを手で受け取った。

「出口さんすみません」

 男の名前は出口らしい。

 詩織はそれを受け取る。

 弁当ガラは祇園「白川」で千本と同じだった。


「正面玄関です。誰か来てくれませんか」

「行きます」

 ワイヤレスシーバーのやり取りがゆり子の耳に入る。

 2人でゴミ回収していた詩織が返答してすぐに正面玄関に向かう。

 すぐにまた客席に向かう。

 案内所に詩織が顔を出した。

「何かあったの」

「正面玄関に人が来て、渡してくれって」

「何を」

「手紙です」

「渡し先は」

「1階7列13番。圭子さんの前の人でした」

「女性?」

「はいそうです」

 再びゴミ回収に向かう。


 第2幕が始まる。

 ゆり子は基本、開演しても案内所に詰める。

 開演中の外線からの対応である。

(呼び出し)

(忘れ物の問い合わせ)等に対応するためだ。

 開演すると、ロビー周りの電気は消灯される。

 南座は二重扉ではないため、開演中の出入りでドアを開けると光が差し込む。

 残光が舞台に入る。

 照明効果を半減させないためだ。

 ゆり子は、今日はイヤホンガイドを借りて聞いていた。

 右耳が案内同士のワイヤレスホン、左耳がイヤホンガイドである。

 今月の出し物「スーパー歌舞伎・平安京」

 現代の歌舞伎役者が、平安時代にタイムスリップ。

 桓武天皇の補佐として活躍する話である。

 劇中2つの演目がある。

 それが「身代わり座禅」と「五条橋」である。


 第2幕は、「身代わり座禅」の場面から始まる。

 桓武天皇を歓待するために、現代歌舞伎役者紀ノ川鯨蔵が舞う場面である。


 身代わり座禅 イヤホンガイド解説


 さてこれからご覧に戴きます「身替り座禅」について少しご説明を申し上げます。

 この演目は、能の「花子」から来ています。

 舞台の背景には、大きな松の木が描かれています。

 こう云った舞踊劇の事を「松羽目もの」と呼んでいます。

 この松の背景画も能から来ています。

 歌舞伎での初演は、明治43年(1910年)東京市村座でございます。

 主な登場人物は3人でござます。

 山蔭右京 この人は京の大名でございます。

 玉ノ井 右京の妻。

 太郎冠者 右京の家来

 右京は、持仏堂での一晩の座禅修行を家来の太郎冠者に身替りで行うよう命じます。

 その間に、右京は遊女と一晩、逢瀬の熱い夜を過ごしました。

 さて妻の玉ノ井。亭主が座禅をしているか見に来ます。

 そこで、身替りが発覚してしまいます。

 玉ノ井の怒りは怒髪冠を衝く勢いであります。

 玉ノ井は太郎冠者の身替りの身替り、つまり自分が座禅ぶすまを被り、右京の帰りを待ちます。

 夜が明けて、右京は帰って参ります。

 とうとうと、太郎冠者がいる前で昨夜の熱い夜を語ります。

 座禅ぶすまを取ると、何と鬼の形相をした恐妻、玉ノ井がいます。

 逃げる右京、追いかける玉ノ井。

 笛拍子の中の二人の追いかけっこの中終わります。

 大変ユーモラスな舞踊劇でございます。

 さて私たちが過ごす現実の世界。

 日常生活の中での身替り。

 目上の人、友達様々な状況の中で身替りは起こります。

 いやいややる身替り、率先して行う身替り。

 皆さんは、どんな身替りを経験してますか。

 いづれにせよ、良い結果になる身替りは数少ないのではないでしょうか。

 ではごゆっくりとご覧下さい。


「何か変な感じだった」

 詩織がつぶやく。

「どうかしたの」

 ゆり子は聞く。

 イヤホンガイドのイヤホンを外す。

「チーフ、さっき正面玄関に手紙持って来た人いるって云ったでしょう」

「ああ、圭子さんの前の席の人」

「そう。その人、手紙の差出人観てすぐに封を開けたの」

「別に普通でしょう」

「普通じゃないのは、その先。その人、音読してたの。それもわざとらしく」

「音読?」

「そう声出して。普通手紙貰ったら黙読するでしょう」

「そうねえ」

「それが音読なの」

「何て云ってたの」

「終演後五条大橋でお待ちしてます」

「そうなんやねえ」

「何で音読みするかなあ。そんなプライベートな事」

「確かに、そう思う」


 今回のスーパー歌舞伎・平安京。

 劇中劇舞踊は、身替り座禅の他にもう一つあった。


 イヤホンガイド解説 五条橋


 能「橋弁慶」を元に作られました。

 主に長唄バージョンですが、今回は義太夫三味線バージョンでご覧にいれます。

 牛若丸。後の源義経は、京の五条橋で夜な夜な出没していました。

 実は牛若丸は、源氏再興のために、自分の手助けになるための人材を探していたのです。

 その噂を聞きつけたのが、武蔵坊弁慶です。

 五条橋で薄衣を被った女人が欄干に立っていました。

 弁慶は女人だと思い通り過ぎようとしました。

 しかし、ぱらっと薄衣が取られ、牛若丸の姿が顔を出します。

 弁慶は大薙刀で応戦。

 大薙刀をブルンブルンと振り回す弁慶。

 それを容易く、身をかわす牛若丸。

 二人の一騎打ちが始まります。

 牛若丸は、小太刀で応戦してついに大薙刀を打ち落とします。

 ついに弁慶は、負けを認め、牛若丸の忠実な部下として忠誠を誓うのでした。

 今回は義太夫三味線バージョンでお楽しみ下さい。

 義太夫三味線は矢澤竹也です。


 終演。

 ゆり子、詩織らは正面玄関でお客様のお見送りをしていた。

 圭子が小走りで来た。

「圭子さん!あれっ千本さんは?」

「ああ、ちょっと急用がありますので」

 足早に立ち去る。

「あれはないでしょう、幾ら何でも」

 詩織は憤慨していた。

 このまま追いかけて、さらに問いただしたい。

 しかし今は業務中。

 お客様のお見送りが大事だ。

 随分遅れて杖をついて千本が来た。

 正面玄関は5段の階段がある。

「千本さん、お疲れ様です」

 ゆり子と詩織の二人が駆け寄る。

「圭子さん、薄情ですね!」

 思わず詩織が口にした。

「何やら、彼女急いでたなあ」

「急用があるみたいでした」

「若い人はええなあ。次から次へと予定を入れて」

 無事に下まで降りた。

 お客様が全員退場すると、場内の掃除が始まる。

 1階、2階、3階全ての客席と場内にある全てのお手洗い、身障者トイレもだ。

 たまに、中で倒れている場合もあるからだ。

 トイレは清掃業者、案内係と二重のチェックを行う。

 場内清掃が終われば、案内係は全員、案内所に集まる。

 ここで各階からの報告、及び忘れ物の提出がある。

 忘れ物は日付、座席番号を期した用紙に附けて保管される。

「忘れ物は」

 ゆり子が聞く。

「はい、チケットありました」

「どこに」

「座席です」

 案内係がチケットを見せた。


 1階7列13


 圭子が座っていた前の席だ。

 チケットなので、全て書かれているので、そのまま渡された。

 ゆり子は裏面を見た。


 五条大橋で待つ


 走り書きだった。

「あれっ」

 ゆり子は一瞬思った。

 でも昼夜の入れ替えである。

 この時間食事取る案内、外へ出る案内もいる。

 30分あるかないかだ。

 皆待っている。

 だから、この時何も云わなかった。

 別段他に報告もなく、夜の部の開場まで休憩となる。


座席に圭子のチケット落ちていた。7列13のチケット

 

 その夜、圭子からメールがゆり子の元に届く。


「わけがわからなくなりました。 尾田圭子

 チーフ、聞いて下さい。本当にわけがわからない!」


 抽象的で肝心な事が書かれてない。

 ゆり子はすぐに電話した。

「一体どうしたの?」

「チーフ、私、もうわけがわからなくなりました」

「だから何よ!」

「電話じゃなくて、会ってお話したいです」

「じゃあ明日会おうか」

 ゆり子は丁度明日休みだった。


 翌日、ゆり子と圭子は、南座からほど近い、円山公園のそばにある、瀟洒な洋館「長楽館」の喫茶レストラン室にいた。

 ここは明治時代、煙草王、村井吉兵衛の館だった。

 明治時代には、京都の迎賓館的役割を果たした。

 その証拠に「長楽館」を命名したのは伊藤博文である。

 高い天井、ステンドグラスの赤、青、黄色、緑、様々なガラス板を通して柔らかい光が差し込んでいた。

 絨毯、テーブル、椅子等の調度品と云い、ここは京都ではなく、どこかヨーロッパのレストランを彷彿させていた。

 和やかな雰囲気を醸し出していた。

 しかし今、ゆり子と圭子の周りはどす黒い塊の疑念、疑惑の風が取り巻いていた。

「これ、あなたのチケットよね」

 静かにゆり子はテーブルの上に置いた。

「あっやっぱり家に戻ってもなかったので」

「この癖のある文字、特に五の文字、独特なんのですぐにわかった」

「有難うございます」

「昨日、あなた千本さんほっといてえらく急いでどこかへ行ったじゃないの。それは、ここへ行ったのね」

 ゆり子はチケットの裏側に書かれた「五条大橋で待つ」の文字の部分を人差し指で2,3度軽く叩いた。

「これ、誰が云ってたの」

「前の席の人です」

 圭子は説明を始めた。

 案内係がやって来て、手紙を渡した。

 その女性は、手紙を音読したそうだ。

「それが五条大橋で待つだった」

「そうです」

「何で前の人の云う事、そんなに気になったの」

「案内係が手紙を持って来た時、オダケイコさんって云われた気がしたんです。でも間違いに後で気づきました。その人の名前はノダケイコさんでした」

「一音違い。そうなの。それで五条大橋へ行った」

「それが、私、行ってないんです!」

「行ってない?じゃあ何処に行ったの」

「松原橋です」

「松原橋?」

「そうです」

「名前が違う・・・」

 ゆり子はそこではっと気づいた。

 今月上演されている芝居の劇中劇の中の一つ、舞踊「五条橋」がある。

 それは今の五条大橋ではなく、今の松原橋なのだ。

 都座からは歩いて五分もかからない。

 小さな橋だ。

「あなた、芝居の五条橋が頭の中にあって、そこへ行ったんだ」

「はい、私松原橋、つまり五条橋に行きました。そこで・・・」

 ゆり子に語る圭子の目が細くなる。

 昨日の出来事を脳内で再現しながら、咀嚼して言葉を紡ぐ。

 そんな雰囲気の圭子だった。

 圭子の目の前にいたのは一組の男女。

 男は石田。

 取引先の人で顔は知っていた。

 女はノダケイコ。

 石田が彼女の事をそう云っていたからわかった。

 暫く、後ろで二人のやり取りを聞いていた。

「どうして来なかったのよ!」

「えっ何で知ってるの?」

「私行ったんですから」

「きみが行った?何云ってるの。わけわからない」

「私こそ、わけがわからない!説明してよ」

 松原橋のたもとで二人のやり取りを聞くうちに、どんどん身体が前に出た。

 そして石田に見つかる。

「圭子さん」

「どこ観てるの。恵子は目の前」

 野田恵子はそう云い掛けて、石田の視線を辿り、振り向く。

「誰?」

「何で何で五条橋にいるの。あなたあの時、音読して五条大橋と云ったじゃないの」

「私こそ、聞きたいわよ。ちゃんと盗み聞きしたなら、五条大橋へあなたどうして行かなかったのよ!」

 逆切れされた。

 怖くなり、圭子は走って逃げた。

「おーい、圭子さーん!」

 石田の声が背中にささる。

 本当は振り向きたかった。

 でも怖かった。

 野田恵子が襲い掛かりそうだったからだ。

 話し終えた圭子は、大きなため息をつき、コップの水を一息に呑んだ。

 ゆり子は圭子が持参した、今月の番付(筋書)を観ていた。

 劇中劇の「身代わり座禅」と「五条橋」の解説がふと目に入る。

「そうかあ・・・」

 ゆっくりとゆり子は番付を閉じた。

「チーフ、何が何だか」

「圭子さん、顔を挙げて」

「はい。こうですか」

「そう。私わかりました!」

「えっ?」

「野田恵子さんが起こった事、石田さんの事、そしてあなたの事も」

「本当ですか!今回の不可解な事件、解明出来たんですか」

「はい、もちろん。あなたを事件解明のお席へご案内いたします!」

 

     ( 3 )


「本日は、お忙しい中、南座にお運び下さいまして誠に有難うございます。私、南座の案内係のチーフを致しております、林田ゆり子と申します」

 ゆり子は深々と頭を下げた。

 隣には詩織がいた。

 ゆり子の前に尾田圭子、出口草介、野田恵子がいた。

 今、ゆり子が挨拶したのは南座案内所前。

 今日は、休館で公演はなかった。

 このため館内ロビーは最小限の明かりだけだった。

「事前に皆さんには、今回の元案内係の尾田圭子の事もお話してますので、わかっていると思います。今回皆さんに南座にお集まりいただいたのも、あの事件の再現、つまり実証再現を実際の南座でやった方がいいと思いまして」

 ここで遮るように、野田恵子が大きな声を出して欠伸した。

「ねえ、あんたの説明かったるいの。早くその実証実験とやらをやってよね」

「わかりました。では皆さんにはこれをぶら下げて下さい」

 大きな紐がついたカードで首からぶら下げる寸法だった。

 詩織は、それぞれに渡した。

 カードには座席番号が大きく書かれていた。


 尾田圭子➡7列13

 出口草介➡7列12

 野田恵子➡8列13


「今カードに書かれているのは、事件当日、それぞれが持っていたチケット番号です。それに間違いないですか」

 3人は、頭を下げてうなづく。

「では実際に事件当日、お座りになったお席に行きましょう」

 ゆり子を先頭に場内に入る。

 場内も休館なので必要最低限の明かりしか灯ってない。

 開場時に比べると暗い。

「本日は休館ですので、客電、つまり客席の明かりも間引いてます。ご容赦下さい」

 3人が座ったのを見届ける。

「間違いないですね」

 3人は顔を見合わす。

「間違いないです」

「はい。ではこちらから申し上げます。尾田圭子さん、野田恵子さん間違ってますよ」

「そんなあ、間違ってません。私、このチケット番号に座りました」

「間違いです」

「いいえチーフ、私座る時、指で数えました」

「つまり前から7番目だと」

「そうです」

「じゃあちょっと一番前へ行きましょう」

 再び席を立ち、一同は一番前へ行く。

「尾田さん、一番前の座席の番号観て下さい」

「そりゃあ1列の・・・」

 尾田圭子は云い掛けて、口を閉じた。

「あれっ2列になってる」

「はい。ではこのボード観て下さい」

 詩織が皆の前に差し出す。


 1列席➡撤去(舞台張り出しのため)

 2列席➡前から1列目


「通常公演では1列席は前から1列目で変わりません。しかし今回スーパー歌舞伎公演では、1列席を撤去してます」

「何でなの」

 野田恵子が聞く。

「舞台転換時の暗転幕、道具幕の前での役者の演技を確保するためです。通常だと幅が狭く、二人の人間の互いに通り抜けるのには狭すぎるわけです」

「ああ、そうかあ!」

 尾田圭子は大きな声を上げた。

「チーフ、1列抜けてるから7列目って本当は8列なんだ!」

「やっとわかってくれました。あなたは7列の席に座るべきなのに、一つ後ろの席に座ってしまった」

「でも私が例え間違えても、本当に8列の席の切符持った人が来て間違いに気づいたのに、そんな人いませんでした」

「いいえ、8列の切符持った人いてました」

「でも来ませんでした」

「いいえ、来てました」

「でも私に声かけしてませんよ」

「いいえしてます!」

「もうチーフ、何云ってるか私わかりません!」

 圭子の反応は逆切れに近かった。

「では、本当の8列の切符持った人も呼んでます。どうぞこちらへ!」

 花道のフットライトがつく。

「チャリン」

 烏屋口の揚幕が開き2人の人物がいた。

 一人は介添えする詩織。

 詩織の隣には千本がいた。

「千本さん!」

「そうです。千本さんです。この人は南座で一人観劇する時は必ず2人分の切符を買われます。そうですね!」

「うっひょう!花道歩くの生まれて初めてじゃあ」

「千本さんにために、照明部さんの全面協力で花道フットライト、上手サイドフォロー係さんもお手伝いしていただいております」

 ゆり子は、舞台上手のフロントの所にいる人と、2階席奥の照明調光室を指さした。

「千本さんは、私が座っても何も云いませんでした」

「それが千本さんのポリシーですね」

「おお、そうじゃ」

 詩織に手を引かれてゆり子らの元に近づき座る。

「ちょっと待ってチーフ。千本さんが2席分のチケットつまり8列13の席も持ってたとなると、野田恵子さんはどうなるの」

「そうでした。野田さんは本来なら8列13だから、千本さんからチケットを貰った、もしくは買ったんですね」

「私、千本さんから買いました。途中色々な人が仲介してるから、この日が初対面でした」

 ふてぶてしく野田恵子は答えた。

「正直にお答え下さいまして有難うございます」

「そうだったの」

「そもそも今回の事件を解くヒントはこの番付の中にありました」

 詩織が高々と番付を掲げる。

「番付。東京では筋書。つまりプログラム、パンフレットの事です」

「何がですか」

 恐る恐る出口が聞く。

「劇中劇には2つの演目があります。五条橋と身替り座禅。今回の事件もこの2つの演目が絡み合ってます。つまり身替りで座ってましたよね、出口さん!」

 一同の目が出口に集まる。

「ばれたかあ!」

「出口さんは身替りでお見合いに出た」

「だから、あの時石田さんじゃなくてあなただったのね!」

 憤慨する恵子だった。

「お見合いの身替り。もう一人いました。尾田圭子。あなたも身替りだった」

「チーフ、わかってたんですか」

「あの時は全く気付かなかった。でもあなたの告白を聞いてピーンと来ました。でも気づかせてくれたのは、この番付でした」

「そうだったの」

 ゆり子は、次に野田恵子に視線を送る。

「あなたが持っていた切符は8列13。つまり、その席は本来、尾田圭子さんが座るべき席だった。でもあなたはそれを無視して座った。いやどうしてもその席に座らないといけなかったから。何故ならお見合いの席で隣にはお目当ての石田さんが座ると思い込んでたから」

「そうよ」

「あなたは、南座で石田さんがお見合いするのを聞いた」

「そうよ。偶然聞いたの。だから急いで近くの席を予約したの」

「でもどうしても座りたいあなたは、開場するといち早くその席に座る。尾田圭子さんが来た時には、もうあなたが座ってる。空いているのは、間違えた8列、前から7列目ね。だから自然にそうなった」

「ところが隣に来たのは、身替りの出口。野田恵子さんは、本来見合いする花園英子さんの身替りの尾田圭子さんの身替りになった」

「ややこしいなあ」

 出口はつぶやく。

「さて幕間になりました。案内係が来て、野田恵子さんに云いましたよね」

「はい。もうびっくり。だって案内係がいきなり、ノダケイコさんですねと云われたから。思わずはいと返事しました」

「そして手渡された手紙が、最愛の石田さんからだったので、二度びっくりした事でしょうねえ」

「そうです。だって私が来る事、石田さんは知らなかったはずですのも」

「で、例の手紙。音読したのは、隣や周りの人間にわざと間違った情報を知らせるためですよね」

「それもばれたのか。そうよ」

「手紙には何て書いてありましたか」

「五条橋で待つと」

「それをわざとごじょうおおはしで待つと云いました」

「ハイハイ、正解です」

「それをやったのは、出口さんや周りの人間を五条大橋へ行かすためだった」

「そうよ」

「ところが尾田圭子と云うお邪魔虫がいた」

「そうよ。何でいるのよって感じ」

「すみません。私が間違えました」

「あなたが謝る事はありません」

 ゆり子は野田恵子、尾田圭子、出口草介、千本通男のそれぞれの顔を見た。

「大体劇場で起こった事は以上です」

 千本がゆっくりと手を叩いた。

 それに合わせて他の者も続いた。

「一つどうしても気になった事があるんです。それは千本さん、あなたです。あなたは隣に尾田圭子さんが座って時、間違いを指摘されなかった。それはポリシーだと。一体どんなポリシーなんですか」

「わしはねえ、この年になるとねえ、他人の間違いを指摘とかそんな事するのやめたのじゃ」

「どうしてですか」

「今回だってそう。何かわけがあったからわしの隣に来た。わしの隣に座る時、ちらっと座席番号が見えた。その席にはすでに女性が座ってた。わしが指摘したら、二人の女性を動かす事になる。芝居が始まる前にそんな些細な事でもめさせたくなかった」

「だから黙っていた。そうですね」

「そうじゃ」

「わかりました。じゃあ皆さん、次へ行きましょう」

「チーフ、次ってどこなんですか」

「もちろん決まってるでしょう。もう一つの五条橋。いや五条大橋です」

「五条大橋!」

 一同は一斉につぶやき、互いに顔を見合わせた。

「さあ行きましょう」

 ゆり子は先頭になって進んだ。


 五条大橋。

 戦時中、「強制疎開」の名前の元に、多くの民家が立ち退きを余儀なくされた。

 空襲からの類焼を防ぐ目的であった。

 五条通り、堀川通り、御池通の通りが広いのはそのためである。

 戦前道幅3メートルの狭い道だった。

 両側には清水焼の職人の家がぎっしり並んでいた。

 現在の道幅は約50メートル。

 大阪御堂筋が道幅43メートルなので、それより広い。

 五条大橋西詰には、牛若丸と弁慶の石像がある。

 だから、京都人でもここが、二人の対決場所の「五条橋」と勘違いする人もいる。

 本当は今の松原橋が「五条橋」なのだ。

 ゆり子、詩織、出口、尾田圭子、野田恵子、千本がいた。

「では続きを始めます。客席で野田恵子さんは音読します。手紙には五条橋で待つと書いてあるのを、わざわざ五条大橋と間違えて読んだ。で、五条大橋行ったのが出口さんでしたね」

「そうです」

「その時、誰かいましたか」

「ええいました。一人」

「その人の名前は」

「花園英子さんです」

 一同の前に英子は姿を見せた。

「英子さん、あなたが本来の見合いのお相手だった。つまり、今回の事件の発端は、それぞれの見合いする人が、身替りをたてた事から始まったんです」

 ゆり子が詩織に合図した。

 詩織はボードを高々と挙げた。

 花園英子➡尾田圭子

 石田光夫➡出口草介

「尾田圭子さん、あなたお見合いの身替りって云ってくれなかった」

「すみません」

「そうかあ、そう云うからくりだったのかあ」

 出口は大きくうなづいた。

 まさか見合い相手も身替りをたてたなんて知らない。

 野田恵子は身替りの身替り。

 だから事件を余計に混乱、複雑化していたのだ。

「やれやれ、これで事件は一件落着ですね」

 詩織がつぶやく。

「いいえ、まだ残ってます」

「残ってる?」

「はい」

「何が残ってるんですか、チーフ」

「もう一人の身替りが残ってます」

「もう一人?もう一人身替りした人がいるって事ですか」

 一同の耳がゆり子と詩織の会話に集中する。

「誰なんですか」

「この人です」

 ゆり子はゆっくりと右腕を挙げて、人差し指でさす。

 一同の視線がその指先に行く。

 その先に千本がいた。

「ひゃあ、またまた悪いご冗談を」

 千本は大笑いした。

「千本さん、もうお芝居は終わりですよ」

「そんなあ」

「皆さん、あちらをご覧下さい」

 今度は反対方向を指さす。

 車椅子を押す大林が目に入る。

「ゆり子さん、お待たせしました!」

「丁度良い時間です」

 車椅子に座る老人が一同の目に入る。

「はい、この方が本物の千本さんです」

「本物?」

「じゃあ、この千本さんは?」

「自己紹介せんかい!」

 車椅子に乗る本物千本が杖で突き指す。

「兄さん、もう」

「弟ですわあ。皆さんご迷惑おかけしました。これ、謝れ!」

 二人揃って、頭を下げた。

「ゆり子チーフさすがやな。どこでわかった」

 本物千本が聞く。

「まず本物の千本さんは自分の事(わし)とはいいません」

「そうかあ!わしとした事が」

「それや!」

 兄弟千本のやり取りに笑いが起きた。

「後は」

「千本さんはいつも2席をお買い上げになり、右側、つまり上手側にお座りになられます。今回は反対の左側に座ってました」

「そうや。いつお客様に遭遇して席にお座りになってもええように、お客様には通路際の席を開けてる。お前は反対に自分が座ってたんか」

「兄貴、そやかて、尾田圭子さんが来る席やから、開けておかんと」

「でも開場してすぐに、その席に座ってました」

「後は」

「松の葉です」

「お前、松の葉渡してないんか」

「兄貴、ちゃんと渡したで」

「ええ、戴いてます。但し、渡す時の(松の葉)のポチ袋の上下がいつもと逆でした」

 ゆり子はポケットから松の葉のポチ袋を取り出した。

「本物の千本さんは、私から見て文字が読めるように渡してくれます」

「そんなもん常識やろ。名刺のやり取りと一緒やろ」

「すまん、兄貴」

「どうして身替りを」

「足腰ががた来てなあ。アクシデント。仕方なしに弟に頼んだんや」

「そうでしたか」

「ポチ袋の位置、座った座席の位置、わしとは云わない。なるほどな。ほんの些細なミスやったなあ」

「そうです。(松の葉)の意味は、ささやかなもの。今回の事件もささやかなミスでわかりました」

 ゆり子は、英子と石田に近づく。

「あなた方は見合いするのが嫌だった」

「はい」

 二人は同時に返事した。

「つまり、それぞれお好きな人がいるんでしょう」

 二人の顔色が変わる。

「さあ、云いなさい」

「ここでですか」

「そうです。公開プロポーズです」

「参ったなあ」

 石田がつぶやく。

「さあ早く」

 石田は尾田圭子の前に立つ。

「尾田圭子さん、僕と付き合って下さい」

「えっ私なんかと!」

「南座観劇を何度かしてて、あなたの存在知ってました」

「でも名前は」

「ネームプレートつけてるでしょう」

「そうかあ」

「圭子、返事は」

「私でよければ」

 二人は握手した。

「さてもう一人」

「私は恥ずかしいです」

「もう一度云います!」

「出口さん」

「あなた方は五条大橋で一度逢ってた」

「はい」

「あっでも待って。英子さんは石田さんから連絡は」

「ありました。でも私、勘違いして五条大橋へ行ってしまったんです」

「勘違いと偽の情報で来た二人。ご縁があったんですね」

「その時、僕告白したんです。でもその時は保留されたんです」

「英子さん」

「はい。私でよければ」

 一同は独り除いて拍手した。

「畜生!」

 野田恵子が叫ぶ。

「野田さん、私の力不足でした」

 本物千本が頭を下げた。

「やはり総合演出は千本さんでしたか」

「そうでした」

「ゆり子さん、今日から、あなたにもう一つの呼び名を授けようと思います」

 おもむろに千本が云う。

「何ですか」

「それは南座案内係探偵です!」

「そんなお恥ずかしい」

「皆さん、拍手!」

 一同が拍手を始める。

「しかし、まあゆり子さん、よく推理した」

「今回は南座の劇中劇(身代わり座禅)と(舞踊・五条橋)に救われました」

「確かにな」

「千本さん、これって偶然ですよね」

「さあどうかなあ。真実は劇場の神様のみお知りになる」

「教えて下さい!」

 ゆり子は攻める。

 ひらりと交わす千本。

 二人のやり取り見ながら、西詰にある牛若丸と弁慶の石像にも視線が行く。

 一同は思った。

(この二人こそ現代の牛若丸と弁慶だと)

 もちろん、牛若丸がゆり子、弁慶が千本である。

 そうとも知らずに二人の会話が続く。

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