【闇堕ち令嬢】裏切られ堕ちたアリサは地獄の底から這い上がる。

友坂 悠

[断罪]

 もう、肌の感覚などとうに消えていた。

 痛みが麻痺しているのか、凍えるくらいな気温であるはずなのに、かえって何も感じない

 ——このまま、死ぬのかな。

 もう、疲れたと、そう諦めの気持ちにもなる。

 ——でも。

 死んでも許せない。

 心の底。心の中心。そんな場所が真っ赤に染まり。

 沸々とぐつぐつと、湧き出すように赤が黒くなっていく。


 悔しい。辛い。悲しい。

 次々と溢れてくる負の感情が、余計に自分自身を傷つけているのがわかるけれど。わかるけれど。止めることなどもうできなかった。


 外は雪。

 それも吹雪のようだ。

 ——精霊グラキエスが怒ってくれたのかしら。

 だとしたら、いい気味だ。

 それでも。

 精霊たちにはもうあたしの声は届かないのだろう。

 魔力封じの首輪を嵌められ。

 声も、薬で潰された。

 ——もう、あたしには何もできることはない。

 それが悲しかった。


 石畳の牢獄は薄暗く、廊下にも灯りは無い。

 手の届かないほど高いところにある窓にも格子がはまっているが、そこから漏れる外の光だけが、唯一この牢獄の明かりだった。


 時々粗末な水とカチカチに乾いたパンだけの食事を運ぶ看守がくるが、もはやそれを口にする気力もない。

 力つき、骨と皮だけになった腕や足が、わずかに動くだけ。

 命の火も、もうそろそろと尽きようとした、頃合いに。


 ふうわりと黒い人影が揺らいで。

 死神が舞い降りた。のだと、アリサは思った。


 ■■■ ■■■ ■■■


「わたくしはここに宣言いたします。神の名のもとに、この、アリサ・ブランドーに与えらえれていた聖女の称号を剥奪することを!」


 荘厳なオルガンの音色が響く教会の大聖堂のホールで、その茶番は始まった。


 目隠しをされ首に魔力封じの首輪を嵌められたアリサ。

 跪く彼女の声は、事前に薬物によって潰されていた。


「何か申し開きをすることはあるか!」


 大司教によってそう声がかけられるけれど、中央に跪くアリサには、それに応えることは叶わなかった。


「偽聖女のこの魔女は、そこにいるマリサ・ブランドーの暗殺を企てたのです。死刑に処されて当然かと」


 変わってそう声をあげたのは、この国の王太子であるルイス・カロラインであった。


「そんな、殿下。お願いです。お姉さまの命だけは助けてくださいませ」


 ——茶番。

 ——今のあたしをここに追い遣ったのは、あなたでしょうに。マリサ。


 可愛らしくそうお願いするマリサに、殿下が頷く。


「ああ。こわかったろうにマリサ。それでも君は姉であるというだけでこの魔女の助命を嘆願をするのかい?」


「ええ、殿下。お姉さまにだって、事情がおありになったのかもしれませんもの」


「やはり君は聖女だね。そこにいる悪女、魔女とは大違いだ。同じ姉妹だというのに」


 彼女がアリサを見る目に、一瞬だけ悪意の色が乗る。

 喉を潰され魔力を止められてさえ、アリサの魔眼は生きていた。

 人のマナも、その性質も。

 全て彼女には理解できていたというのに。

 まさか。

 彼らがここまでするのだとは、アリサには思いもよらなかった。

 信じていた。

 父も、妹も。そして婚約者である王太子ルイスのことも。


 ♢


 王家のスペアでもある筆頭公爵家の、それも長子として生まれたアリサ。

 幼少の折に母が逝った後。まさか父が自分と一年も歳が違わない妹を連れてくるとは思ってもみなかった。

 それでも。

 五歳の神参りのおりの魔力測定で、ありえないほどの高い数値を叩き出したアリサ。

 父は、そんなアリサの利用価値を認め、教会の聖女職にと彼女を売ったのだ。

 政略結婚であった父と母。そんな母の娘である自分と比べ愛した人の娘であるマリサ。

 父に取ってどちらが大切な存在であるのか。

 そんなことは幼い自分にも理解ができた。

 だからこそ、利用価値があると思われたくて。

 聖女の修行にも力を入れていたのだというのに。


 全てのきっかけは、そう。

 アリサがルイス殿下の婚約者に選ばれたことだったろうか。


 眩いばかりのプラチナブロンド。すっと通った鼻筋に、若い女性であれば誰もが魅了されるその切長の碧い瞳。幼いうちからそんな天使のような容姿とその身のこなしの良さで、多くの令嬢が虜になっていたそんなルイスとの婚約。

 きっと、国王直々の指名でさえなければ、アリサにそんな地位が回ってくるだなんてことはなかったのだろう。


「アリサなんか王子の婚約者にはふさわしくないわ。どうしてお父様。どうしてわたくしじゃ、ないの?」

 今までだったらなんでも父が叶えてくれていただろうに。今回だけはそうはいかなかったことに癇癪を起こしてそう父に追い縋るマリサ。

「お前の婚約者はクリストだと言ったろう? バッケンバウワー公爵家の次男の彼なら家格も申し分ない。クリストと結婚しこのブランドー公爵家を守っていくのだと、ついこの間まではそれで満足していたではないか」

「だって。わたくしがアリサよりも下の地位になるなんて、そんなこと許せるわけはないじゃない。そうでしょう? お父様だってそう思われるんじゃない?」

「それはそうだがな。しかしこれは国王陛下直々のご指名なのだ。聖女である女性が王太子の妃にと。夢枕にそう神のお告げがあったそうなのだよ」

「だからって、どうしてそれがアリサなのよ! 聖女なら他にもいるでしょう?」

「それがな。どこの家も普通は聖女宮に娘を差し出したりなどしない。あそこに現在在籍している聖女の中ではアリサが一番家格が上だった、と、それだけの理由だが」

「そんなの! どうせアリサなんか、王子に嫌われて捨てられるんだから!」

「そう、だな。あれが王子の妃として勤めを果たせるとも思えぬ。それならそれで構わぬが。王家からも慰謝料を頂けばいいだけのこと」

「まあそうね。役に立つうちはせいぜい役に立って貰えばいいわね」

「そういうことだ。あれにはまだ価値がある。捨てるには惜しいよ」


 大声で話す二人の声は、アリサにも聞こえていた。

 それでも、いいと。

 この時は本気でそう思っていた。


 ——本当は愛したい。愛されたい。だけれど。


 自分に利用価値があるうちは、彼らに捨てられることもない。

 愛されない、そうわかってはいたけれど、それでも必要とされるのであればそれでいい。

 王子の前でもそれは同じで。

 彼が自分のことを気に入っていないことは、最初からわかっていた。

 だけど。

 愛がなくてもいい。

 婚姻が、ゆっくりと二人の関係を癒して、最終的に家族になれればそれでいい。

 そう、思っていたのに。


 聖女の仕事は休みがなく。

 アリサは国のために身を粉にして働いた。

 マリサとルイスが学園に通い、学生生活を楽しんでいる間も。

 在籍だけはして筆記試験だけはこなし、ほとんど通うことがなかったそんな学園の。

 最後の卒業パーティの日にそれは起こった。


 ♢


「アリサ・ブランドーよ。王太子ルイス・カロラインの名において、そなたとの婚約を破棄することをここに宣言する!」


 突然のそんなルイスの宣言に。

 周囲の目が一斉に、アリサに向けられた。

 それは、冷ややかな、そんな目線。

 きっとこの時にはもう周囲の根回しは済んでいたのだろう。

 誰一人として、アリサに味方をするものは現れず。

 いや、その場は、アリサを糾弾する瞳に満ちていたのだった。


「申し訳ありません殿下。理由を、お聞かせ願いませんでしょうか」

 か細い声で。

 それだけを口にするのが精一杯、だった。

 まさかこんな公の場で。こんなにも大勢の人の目の前で。

 こんなふうに、婚約を破棄されるだなんて。

 思ってもいなかったのだ。


「白々しいぞ、この悪女、いや、魔女め! お前のようなものが聖女とは、いささか我が国の教会の面々も、目が曇っていると見える!」


「いったい、何を……」


「お前が実の妹であるマリサ・ブランドー公爵令嬢を暗殺しようとした証拠は上がっている。犯人の証言も取れているのだ。もはや言い逃れはできるとは思うな!」


 何を?

 そう言いかけて、喉を詰まらせる。

 遅効性の薬物、だろうか。

 どうやら先ほど殿下に進められて飲んだ飲み物に、毒の類が混ぜられていたのかと、気がついたアリサ。

 咄嗟に治癒魔法を無詠唱で使用しようとしたその時だった。

 背後からガシャんと金属の嵌った皮のようなもので首を絞められて。


「痴れ者め! それは貴様の魔力を封じる魔道具。炎獄の首輪だ。なまじ魔力が強いからと油断したか! これでもう、お前は二度と魔法を使うことは叶わぬぞ!」


 絶望。

 そんな感情が、アリサの心を占める。


「まぁまぁアリサったら、いい気味ね。あんたなんかそのまま死んじゃえばいいのよ!」


 それまで、王子の背後に隠れるように大人しくしていたマリサが前に出て、そうアリサの耳元で囁く。


 ああこれは。

 全てが仕組まれた罠なのか。

 全てが彼らの計算づくで。

 あたしははめられたのか。


 それに気がついた時にはもう、全てが遅かった。



 待っていたのは教会の大聖堂での断罪、と。

 王宮の北のはずれにある牢獄への幽閉、だった。


 ■■■ ■■■ ■■■



「俺を呼んだのは、お前か?」


 冷たい石畳の上に漆黒の魔法陣が浮かび上がって。


 三枚六対の黒い翼がスラリと伸びたその手足にまとわりつく。

 天使に相対する悪魔のようにも見えるその姿。

 黒のキトンが張り付くようなその肉体は、まったくの無駄のない芸術のような筋肉が見える。

 ねじれた枯れ木のような形のツノが2本、黒曜石の断面のような輝きが散りばめられ頭頂部から背中に向かってうねりながら伸びていた。


 ああ。

 死神? 悪魔?

 あの魔法陣は、彼を召喚するためのものだった?

 そう納得する。


 アリサの魔眼にのみ映し出されていた床に描かれていたかきかけの魔法陣。

 完成されていなかったそれを見つけたアリサは、もうわずかしか動かなかった身体で。

 指先を地面で削り、その血でえがき綴った。


 命が尽きる寸前でなんとか描きあげたそれが。

 召喚魔法陣だということは理解していたけれど。

 何が出てくるのか、何が召喚されるのか、そこまではわからなくって。

 それでも。

 もう、なんでもよかった。

 死神でも、悪魔でも。魔獣であっても。いい、と。


 ——あなた、死神? あたしをころしてくれるの?


 心の中でそう語りかけ。


「死にたいのか? であればおいおい叶うだろうさ。それじゃ、俺がここに来る意味も無かったか?」


 ——ここが地獄であるなら、彼はその地獄の使者?


「おいおい。この俺をそんな三下だと思うのか?」


 溢れ出す漆黒のオーラ。


 ——チンピラ、に見えたのは、謝らなきゃいけないわね。

 ——あなたは魔王?

 ——それとも、神?


「はは。お前、面白いな、気に入ったぞ。そうだな。お前の願い、一つだけ叶えてやろうか。俺の名はクロムウェル。漆黒闇の支配者。暗黒の太陽。魔王、クロムウェル・バーン・ブラックサン」


 ——そう、なのね。

 ——だったら、一つだけ。お願いがあるの。

 ——あたしをあの刻に。

 ——まだあいつらの本性を知らなかった、あの無垢だったあの刻に。

 ——戻してちょうだい。


「ふむ。

 戻ってどうするつもりだ?

 歴史を変えるとでも、いうのか?」


 ——許せ、ないのよ。

 ——あたしから全てを奪ったあいつら。

 ——どうしても許すことができないの!


「だったら今殺してしまえばいい。

 それくらいなら造作もないぞ?」


 ——それじゃぁ。だめよ。

 ——ただ殺したって、あいつらはなんの反省もするわけじゃないもの。

 ——死ぬって、ある意味逃げだわ。

 ——死んでしまえばもうどんなに悪いことをした人間だって、無に帰るだけじゃない。

 ——なんの報いも受けずに、なんの恐怖も覚えずに。

 ——そんなの。


「そうか。

 わかった。

 その願い、叶えてやろう。ただし」


 ——ただし?


「面白そうだ。俺も一緒にその復讐劇、鑑賞させてもらおうか」


 ——それだけ? で、いいの?


「ああ。それでいい。

 良い退屈しのぎになるだろうさ」


 ——ありがとう。クロムウェル。


 アリサは力を振り絞り立ち上がり、彼の手を取って口付ける。


「契約は、完了だ。では、楽しみにしているぞ。お前の行く末を」



 そして。

 世界が反転した。

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