19.女子大生と異界駅
何度電車に乗っても同じだった。
『まもなく大鏡ぃ~、大鏡です。お出口は左側です』
辿り着くのは、やはり同じである。
上りに乗ろうと下りに乗ろうと、すぐ降りようと乗りっぱなしであろうと、五分で着くこともあれば二時間走り続けることもあるが、辿り着くのはやはり同じだ。
大鏡駅。だが、彼女の知る大鏡駅ではない。
もう二年近くも利用し続けている駅だが、まるで知らない。こんなのは知らない。知るはずがない。悪夢のようだった。
車窓の外を眺めても、見えるのは雲一つない真っ青な空。太陽すら見えない。本当に空なのかとすら思う。一駅だけで完結した環状線というのも意味不明だが、そのような現実的な解釈すら許されない。
『大鏡ぃ~、大鏡です。お降りの際、車内にお忘れ物のないようご注意ください』
車掌も運転手もいないのに、アナウンスだけは律儀に響く。
長い長い線路を、緩やかなカーブを描いて戻ってきたのだろうか。あるいは、同じ名で同じように見える別の駅なのか。それすらもわからない。ただ、どうあっても出られないという事実だけが残る。
(どこに行ったの……芙蓉ちゃん)
たしかにいた。彼女を追ってここに辿り着いた。そのはずなのに、彼女はいつの間にか消えてしまった。
そしてもう何度目になるのか、駅に降りる。二周か三周かは乗っていたが、敗北を認めるようにホームに降りる。
どこをどう見ても同じ光景だ。乗り場と線路が交互に、無限に思えるほど続いている。ベンチがある。案内板は読めない。自販機がある。どこにも出られない。スマホすら手元にない。
(線路を辿って、歩いてみる……?)
これも何度か考えた。だが、電車がやってくる規則性が掴めない。轢かれる危険がある。そもそも、レール沿いに走っている電車に乗ってどこにも辿り着かないのだ。自分の足で歩いたからといってなにが変わるのだろう。
「はぁ」
ベンチに体重を預ける。倦怠感。空腹。絶望。思考を深めるほどに心臓が氷柱に刺されるような寒気に襲われる。頭をぶんぶんと振り、両の頬を叩いて思考を追い出す。
(どうすれば……)
無意味な抵抗だった。肩から体温の抜けていくような不安は消えない。
一生このままなのか。ここはどこなのか。なぜ迷い込んでしまったのか。ただ無力さだけを思い知る。
「おーい」
顔を上げる。
人の声を聞いた。気がする。
「おーい」
立ち上がる。聞き間違いではない、気がする。
不安はあった。恐怖もあった。こんな異常空間で人の声を聞いたからといって、信じていいものか――と。それでも、希望らしきものが欲しかった。たとえ邪悪な罠だったとしても、縋らずにはいられなかった。
「おーい」
声のもとへ歩く。近づいている。だが、人の姿は見えない。
見通しのいいホームだ。人が隠れるような陰はほとんどない。姿なき声。そんな
「だ、誰かいるんですか……?」
おそるおそる呼びかける。声の聞こえる方向へ。
「誰か、いるんですか……!」
声を張り上げ、再度。震えながら返事を待つ。
「あ! やっぱりいんじゃん! 下だよ! 下! 穴が空いてるはずだからさ!」
若い男の声が聞こえた。くぐもったように響く声は、たしかに下から聞こえていたようだった。
(穴……?)
言われるままに、床を見下ろす。初めからそこにあったのに気づかなかったのか、あるいはあとから現れたのか。マンホールのように、床がズレていた。少なくとも「隠されていた」のは間違いない。
「こ、この下ですか……!?」
「ああ、その下! 降りてきなよ! 梯子があるはずだ!」
それこそ、マンホールの蓋のように重かった。それでも、残った力を振り絞って懸命に、少しずつ、蹴飛ばしながらも、蓋をどけた。
現れたのは、底の見えない真っ暗な穴だった。声のいうとおり、梯子がついているのが見える。
常識的に考えれば、出入り口がないわけがないのだ。入ってきた以上は、出口がある。隠されている出口を探すべきだった。だが、こんな穴を通った覚えはない。なんらかの薬で眠らされ運び込まれたのだろうか。そう考えれば現実的な解釈は通るが、つまりそれは意図のわからない犯罪に巻き込まれたことを意味する。それはそれで怖気を誘った。
(ここを降りる、の……?)
十分な大きさの穴だ。梯子もついてる。他に出口はない。生唾を飲み込む。
梯子の頑丈さを確かめながら、ゆっくりと足をかけた。少し降りると、暗闇でなにも見えない。信じられるのは、手にする鉄の冷たさだけ。上に見える明かりは点になり、下に底は見えない。
信じられないほど深いのか。梯子を降り慣れていないだけなのか。
慎重に降りていた。一段一段、注意深く。
それでも、降ろした右足が梯子にかかる感触がなかったときには、肝を冷やした。
(え?! 終わり……?)
梯子の続きが、見つからない。かといって、底でもない。
「は、梯子が! ないんですけど!」
だが、底には人がいるはずだ。見えないが、いるはずなのだ。
「ああ、梯子は途中で切れてる! だが大丈夫だ、俺から君は見えてる! そのまま飛び降りてくれ!」
声は近い。だが、見えない。近いのだろう。具体的にはどれほどなのか。一メートルか、二メートルか。あるいはそれ以上か。
「大丈夫だ! 俺が受け止める! 信じて飛び降りてくれ!」
受け止める必要のある高さ。大の男が登ってくることのできない高さ。少なくとも二メートル。深呼吸をして、覚悟を決める。
「い、行きます!」
身を屈めて、できるだけ下の段まで降りる。最後には両手だけで体重を支え、離す。
「よっと」
無事、地面に降りることができた。そして、もう上がることのできない高さだと知った。
「ふぅ。上になにかあるなあと思ったら、まさか人がいるとはね。大丈夫?」
「あ、はい。ありがとうございます。大丈夫です」
目と鼻の先も見えないような暗い地下道だった。目が慣れても、声のとおり若い男だとわかる程度にしか見えなかった。それでも、誰かいるというだけで地上の駅よりは安心だった。
「とりあえず、外行こっか。ここじゃ暗すぎる」
「外?! 外に出られるんですか!?」
「あー、出られはするけど、多分君の期待するような――」
奥に薄明かりが見えた。階段だ。上に向かう階段である。彼女は、男の言葉も途中に駆け出していた。あんなに疲れ果て意気消沈していたはずなのに、息を切らしながら階段を駆け上がっていた。
「外、でられ……――」
階段を登った先は、地上だった。しかし。
空は不気味なほど青く、雲一つなく透きとおり、太陽すらない。それ以外は、一本の道路が伸びて、どこまでも田園が広がっていた。そして、どこを見渡しても人の姿はない。
「こんなんだからさ。俺もあんたに会えて嬉しかったんだよ」
遅れて階段から上ってきた男はそういった。
「なん、なんですか、ここは……」
失意に満ちた目で、彼女は問う。
「ごめん。俺もさっぱり。ひとまず自己紹介でもしよっか。俺はアカヒト。知ってる?」
「いえ……」
「あー、うん。そりゃそっか。別に有名でもなんでもなかったし……。君は?」
「あ、すみません。伊藤優子です」
仲間はできた。でも、まだ囚われている。
その落胆を、できるだけ表情には出さないよう優子は努めた。
「ここがなんなのか、俺には全然わからない。その様子だと……伊藤さんも?」
「はい。すみません。どうして迷い込んでしまったのか、さっぱり……」
「だよなあ。ま、少し歩こうか。気晴らしにはなる」
少なくとも、あの駅よりは開放感があった。無限に線路が続いていても、移動範囲は小さなホームだけだった。ここもまだおそらくは異界、真っ青な空の下に田園が広がっているが、歩けるだけ「どこかになにかあるかもしれない」と希望を持つことはできた。
「で、あの上……なにがあったの?」
「え?」
アカヒトが後ろを指さす。地下道へ続く階段が不自然に道路に空いているが、その先にはなにもない。位置関係を考えれば、階段から地上に出ているのだから、「穴の上」に位置する駅もその奥に見えるはずなのである。
「おかしいだろ? 俺もマンホールがあるんじゃないかって探したけど、そんなものなくてさ。下から覗いたときだけ穴があるんだ。それで、上の方から人の気配があったから呼びかけてみたら、君がいた」
「その、私は駅のホームにいました。大鏡駅のような……なにかです」
「大鏡駅! たしかに近いとは思うけど……」
「アカヒトさんはどこから迷い込んだんです?」
「須籠町」
「なるほど、たしかに近いですね……」
世間話をしながら、ただ歩く。当てはないものの、気は楽になった。少しだけ、救われた気がした。
「あー、実はいうとさ。出口にはちょっと、心当たりがあってね」
ふと、アカヒトは頭を掻きながらそう切り出した。
「でも、一人だとちょっと怖くて、足を踏み出せなくてさ」
彼が指さした先には、小さなトンネルが見えた。
「トンネル……?」
「うん。いかにも、って感じだろ? でもその、まだあそこには入ったことなくてさ」
「あれが出口、なんですか?」
「それはわかんないけど、なんとなく……さ」
「はあ」
言ってることはわからないが、行くこと自体に異議はない。歩かなければ、どこにも辿り着くことはないからだ。
(……怖い? このトンネルが?)
少し不可解な態度ではあった。あの地下道の方がよほど暗い。トンネルの中も暗いが、出口が見えている小さなトンネルだ。
疑問はあった。が、トンネルの先になにがあってもなくても、進むしかなかった。
「あれ? 誰かいますよアカヒトさん」
逆光でよく見えないが、人だ。トンネルの出口に誰か立っている。背の低い男性……老人に見えた。
「アカヒトさん?」
いない。直後。
背中を強く叩かれ、優子は転ばされてしまった。
「いいっすよね?! つれてきましたよ! だからいいっすよね! お、俺は……もういいですよね?!」
そう言い残し、アカヒトは一目散に逃げて行った。
そして優子は、一人取り残される。
「アカヒト、さん……?」
膝をついて、ただ呆然としていた。転んだ痛みよりも、裏切られたのだという痛みが、胸を刺していた。
「大丈夫です」
老人が歩み寄り、優子にそう告げた。屈託のない、笑みを浮かべて。
「大丈夫ですヨ」
ただ、そう告げた。
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