10 腑に落ちない(後)

『今日はわからないことだらけで疲れてしまったよ』


 白蘭は椅子にもたれて溜め息をついた。黒蘆たちがきちんとした手順を踏んでくれさえしたら、何にも悩まず素直に喜べたのに。


『翠菻。もしこれから急ぎの用事がなかったら、少し歌を歌ってくれないか?』


 もちろん、翠菻が白蘭の頼みに否と答えるはずがなかった。彼女は嫣然と微笑むと、どのような歌を御所望ですかと問い返した。


『そうだな。……草原を吹き渡る風のような歌がいい』

『かしこまりました』


 翠菻は両腕の羽を広げると、念力で羽を弾いて、白蘭がまだ聴いたことのない美しい旋律を紡ぎ出した。そして、声を出して歌いはじめる。

 何ゆえか、神は歌うとき以外に声帯を使うことを天人族に禁じた。

 しかし、誰も彼もが翠菻のような素晴らしい歌声を持つものでもない。白蘭は目を閉じて、翠菻の歌に耳を傾けた。

 あんな漠然とした注文でも、きちんと応えてくれるのが楽天のすごいところだ。白蘭は今、あの大地の草原の中にいた。そういえば、もうずいぶんあそこには降りていない。

 光。梢のざわめく音。鳥たちの声。草花を揺らしながらやってくる爽やかな風。青草の匂い。そして、自分を抱きしめてくれる友の温かい体。


 ――ああ、そうだ。ここには君だけがいない。


 ついさっき会ったばかりなのにもう会いたい。自分が御名を持たない神官であるうちはまだよかった。何とか時間をやりくりして会うことができた。

 だが、智天の御名を受け、天卓の一人となってからは、人に指示する仕事が増えて、なかなか自由に動けなくなった。自分がいなくても業務に支障が出ないように組織改革はしたが――その動機が親友に会いにいく時間を作るためだと知ったら、いくら心優しい部下たちでも、さすがに呆れ果てたことだろう――物には限度というものがある。

 しかし、これからは御前会議があるたびに紅蓮と会えるのだ。紅蓮のほうが正当な理由をもって神殿に来てくれるのだ。この差は非常に大きかった。そのことを考えると、御前会議に諮られずに決定されたことなど、どうでもいいことに思えてくる。


 ――明日、ちゃんと来てくれるかな。


 謁見の間ではなく、白蘭が来てほしいあの場所へ。白蘭にとってはあの草原よりも、大事な思い出のつまっているあの場所へ。あの日のように、羽を広げて舞い降りてきてくれるだろうか。

 いつのまにか、白蘭は眠りに落ちていた。それに気づいた翠菻は歌うのをやめ、微苦笑を漏らす。

 音もなく白蘭に近づき、何の夢を見ているのか、幸せそうに笑んでいる寝顔を慈愛に満ちた目で見つめると、自らの面紗を外して白蘭の体に掛け、静かに執務室から退出した。


 * * *


 賢天・黒蘆は、薄暗い謁見の間のいちばん奧、天卓を見下ろす神の玉座のはるか頭上で、黒い縄に縛られて浮かんでいる。

 無論、懲罰としてそのような姿でいるわけではない。体から魂が離れる日を少しでも遅らせるためだ。

 この都の誰よりも長い齢を重ねた彼の体は、すでに大半が失われていた。顔をすっぽりと覆う仮面や蝙蝠のような羽ごと体を包む暗紫色の衣の下には、空虚な闇が広がっている。

 天人族は天卓の十三人による合議制をとっているが、その中心となっているのは、やはりこの最長老、黒蘆だった。

 基本的に黒蘆に謁見することができるのは、彼に呼び出されたときか、この謁見の間で定期的に行われる御前会議のときのみだ。もはやここから動くこともできない黒蘆は、一般の人々の前に現れることもない。それはつまり、黒蘆付きの神官を別とすれば、彼に会うことができるのは天卓の十三人だけということを意味する。

 しかしながら、たとえそうであっても、御前会議のとき以外に黒蘆に会おうとすることは簡単なことではなかった。蒼芭は、特に黒蘆の信頼の厚い神官に見目麗しい地人族の女を与えることで、ようやくわずかな面会時間を得た。


『真実の闇を司る偉大なる天人、黒蘆様』


 玉座の前で跪き、恭しくそう呼びかけると、少しの間を置いて、応えが返ってきた。


『蒼芭よ。何用か』

『お休み中のところお邪魔いたしまして、たいへん申し訳ございませぬ。どうしても火急に確かめたき議があり、お目通りを願い出ました』

『紅蓮の件か』


 体のほとんどをなくしても、いまだ天都を支配している最長老はさすがに鋭かった。蒼芭は内心感嘆する。


『左様でございます。さすがは黒蘆様、おわかりが早い。ならば、私めが何を申し上げたいかもすでにご賢察のことでしょう』


 黒蘆は蒼芭の下手な煽てには乗らなかった。考えるような間の後に、わからぬなと答えた。


『おまえは天卓の中にもっと武官がいればよいと思っていたのではなかったか。おまえと対等に戦のことが話せる有能な武官を。此度のことはおまえにとって何の不満がある』


 ――なるほど。たとえ死にかけでも、人の心を見抜くこの目があるから人の上に君臨できるのだな。

 今さらながら最長老の恐ろしさを実感して蒼芭は冷や汗をかいたが、ここでおとなしく引き下がるわけにはいかなかった。あの神官にくれてやった地人族は彼のとっておきだった。面ざしが少しだけ白蘭に似ていた。


『恐れながら、彼奴を天卓の一座に加えることにつきましては、私めも異存はございません。ですが、与える御名が守護天将なのは承服いたしかねます。あれは我ら天人族最強を意味する御名。まだ若輩の紅蓮には名が勝ちすぎるかと』


『おまえのほうがふさわしいと?』

『いえ、そのようなことは決して』


 あわててそう答えはしたものの、黒蘆には見透かされている。つくづく厄介な爺だ。これに比べればまだ紅蓮のほうが可愛げがある。


『御前会議に諮れば、おまえのような不満を訴える者が出ることはわかっていた』


 蒼芭の内なる声が届いたわけではあるまいが、黒蘆は蒼芭が確認しようと思っていたもう一つのことに自ら触れた。


『天卓の一人でも反対すれば御名は決定されぬ。それでは困るのだ。機はもう熟している。これ以上の遅れは許されない。紅蓮は守護天将の御名を持って、早急に天卓の一員とならなければならぬ』

『なぜです?』


 それがいちばん蒼芭が黒蘆に訊ねたかったことだった。


『なぜ、紅蓮の御名が守護天将でなければならないのですか?』


 だが、そうして黒蘆に問いただす一方、すでに蒼芭は彼から返される答えを予測していた。それ以外に、黒蘆が守護天将の御名に固執する理由は見つからなかった。年寄りは形式と共に体面にもこだわるのだ。

 天人族最長老の回答は、蒼芭の予想以上に簡潔で明快だった。


『天人族最強の守護天将でなくては、天母とはつりあわぬ』

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