第12話 宿星、集う(2)
10歳のとき、一度だけ和哉に見られた。
満月の夜。押さえきれない変化。
その瞬間を和哉に見られた。
和哉が夜に静羅の部屋を訪れなくなったのはそれからである。
父から制止されたから行かないと、あの後に説明を受けた。
和哉の照れたような顔が忘れられない。
どっち付かずの自分なんてキライだ。
もっと自分を好きになれたらよかったのに。
「嘆いても仕方ねえか」
呟いて帰り支度を始めた。
和哉のために単独でこちらに転校してきた東夜と忍だが、家族は元の街にいるらしく、夏休みは一緒に帰省すると言っていた。
これでは1年中一緒にいるようなものである。
内心でご苦労さんとふたりに苦言を呈する静羅である。
なにか事情はあるのだろうが、よくここまで徹底するなと。
「静羅。用意できたか?」
ノックと同時に扉が開き和哉が顔を出した。
ボストンバックに服をぎゅうぎゅう詰めにしていた静羅が振り返り、ムッとしたように言い返す。
「これができてるように見えんのか、和哉?」
「相変わらずだなあ。まだ片付けできないのか?」
掃除に限らず静羅は片付けもできない。
旅行の準備などもっての他である。
そういうときは大抵母親が支度をやっていた。
丁寧にするのは諦めたのか、クシャクシャの服を詰め込もうとしているのを見て和哉が近寄った。
「貸せよ。オレがやるから」
「なんで和哉はそんなになんでもできるんだ?」
「オレにはこんな簡単なことができない、おまえの方が不思議だよ、静羅」
言い返しながらテキパキと服を畳み、バッグに詰め込んでいく。
「ほら。できた」
「はえー」
ビックリ眼の静羅に和哉が笑う。
「ほら、早く行こうぜ。もう迎えの車がきてるから。東夜たちも先に行って待ってんだ」
「なんであいつらまで送ってやらないといけないんだ?」
「行き先が同じなんだからいいじゃないか。細かいぞ、静羅」
「和哉が親切すぎんだよ」
呆れ顔で言いつつ静羅もバックを手に取った。
2学期まで帰ってくることのない部屋を振り返る。
それでもすこしの間でずいぶん馴染んだ。
懐かしい家に帰る。
それは望郷を誘って嬉しくもあり、嫌なことを思い出して苦い気分にもなった。
東城大付属の皆は元気だろうか。
そう思ったことに自分ですこしビックリした。
静羅と和哉が戻ってきた。
その噂はその日の間に街中に広がった。
伝統ある東城大付属を捨てて、いくら学力では遜色ないとはいえ、庶民の学校である湘南に和哉が転校していったため、静羅は当然の如く押し寄せてきた親戚連中から嫌味の十連発をもらっていた。
静羅は懸命に耐えていたが、これには和哉が言い返した。
これは自分の意思だから静羅を責めるな、と。
和哉が過保護に静羅を庇おうとするので、親戚連中は面白くなさそうだった。
その夜。
静羅は久し振りに地元の街を彷徨っていた。
イライラして落ち着かない。
自分が起こした行動に和哉を巻き込む気なんて更々なかった。
なのに結果的に和哉を巻き込み、静羅の思惑から現状から大きく外れている。
これでは親戚連中から責められても文句は言えない。
静羅の足は一直線にある場所を目指していた。
その自覚もなく。
曲がり角を何度か曲がり、行き止まりに辿り着く。
そこにはなにもなく荒れ果てた土地だけが広がっていた。
「あれ? 気のせいか?」
暗がりに人影が見えた。
それはいいのだが、その人物が光って見える。
(目が光ってる?)
赤く光って見えるのは目の錯覚か?
細身の長身。
全身がバネのような印象があった。
「だれかいるのか?」
グラサン越しではわからないので、静羅はトレードマークのグラサンを外し、赤く光る人物に声を投げた。
やはり赤い光が見える。
それがスッと消えた。
人影が近付いてくる。
現れたのは黒の上下に身に包んだ静羅と2、3歳違って見える少年だった。
17、8だろうか?
さっきまで光って見えたのは幻覚?
「人間か?」
相手の第一声がそれだった。
は? といった気分だった。
人間かと訊く奴も珍しいが、普通人間かと訊かれたら人間だと答えるものではないのだろうか。
「……変なこと訊くんじゃねえよ」
人間かと真面目に訊かれたら答えられない。
すべての薬を無効化し、すべてのウィルスに感染しない身体。
IQで数値にできない頭脳。
身体の特徴のすべてが人間ばなれした静羅。
人間じゃないと言われても全く不思議はないし、実際高樹の親戚連中からは陰口で「化け物」と言われている。
国籍だって不明だし、純粋な日本人ですらないらしい。
だから、瞳が紫がかっているのだ。
そのことは静羅のコンプレックスになっていた。
紫がかってた瞳を怒りに輝かせる。
すると相手が笑った。
鋭利な感じが消えて、なんだかあったかい感じになる。
「怒らせたなら悪かった。ちょっと不思議な感じを感じたから」
「そっちこそ人間なのかよ? さっき目が赤く光って見えたけど」
「見たのか?」
意外そうな顔だった。
まさか肯定されるとは思わなくて静羅は驚く。
あれは見間違いじゃなかった?
今相手の少年は黒い瞳をしている。
だから、見間違いだと思ったのに。
違った?
当たっていた?
「コンタクトには見えねえけど」
「なんだ? そのこんたく、とというのは?」
不思議そうに首を傾げられ、静羅の方が不思議そうな顔になる。
悪質な冗談かと思ったが相手は至って真面目な顔をしていた。
(本気で訊いてる?)
黒の上下。
どこか違和感のある現実感の乏しい印象の少年。
ある意味で静羅に似ているかもしれない。
(あっ)
「もしかしてあんた黒豹か?」
「黒豹? 俺は豹ではないが?」
「だれがあんたのことを豹だって言ったんだよ?」
呆れて肩の落ちる静羅である。
「あだ名だよ。あだ名。そう呼ばれてる奴がいるって、前に聞いたことがあったから」
「悪いがそれが俺のことかどうかはわからない。勝手に使われているあだ名なら、俺が知るはずもないだろう?」
「そりゃそうだけど」
黒豹の由来はその黒ずくめの服装にあると、あれから聞いたことがある。
だから、印象が似て見えるのだろうと納得した覚えがあった。
夜に出歩くとき、静羅は大抵黒で纏めた服装をしているから。
元々モノトーンで服を統一するのは、静羅の好みのコーディネートだった。
そういえば黒豹らしい噂を湘南のある街でも聞いたことがあった。
あのときは別人だろうと判断したが。
「俺は世羅。あんたは?」
「北斗」
一言だけ名乗ったが、どちらもが偽名を名乗ったことを感じ取っていた。
「胡散臭い野郎だな」
「お互い様だ」
お互いを見据える瞳に気に入らないという感情が見え隠れする。
「あんた本気で人間なのか? さっき瞳が赤く光ってたって言ったら認めてたけど」
「偽名を答えるような奴に答える義務はないな」
「てめぇだって偽名を名乗ってるだろうがっ」
言ってから「あっ」となった。
これでは認めたようなものである。
北斗はニヤッと笑った。
「お互い様だな。しかしおまえ本当に人間なのか?」
「失礼な質問を何度もするんじゃねえよ」
「いや。しかしその波動、その闘気。どこから見ても人間には見えないんだが」
「は?」
意外なことを言われ、静羅の目が点になった。
波動とか、闘気とか。普通日常生活で使うだろうか。
大体そんなものが見えるなんて益々人間とは思えない。
「それに最初に問いかけたとき、すぐさま否定しなかっただろう。なにか心当たりでもあるんじゃないのか?」
「うるせぇよ。てめぇには関係ねえだろうが」
「そうとも言えないんだ。俺は人を捜している。おまえだと思うには外見的な感じが合わないが、可能性があるなら無視できないからな」
(天は俺たちと同じ雷神。その天がこんなに華奢な体格をしているとは思えない。人違いか? それにしては気になるが)
そんなことを思いつつ、北斗は静羅の全身を検分する。
ムカッとした静羅が反射的に回し蹴りを放った。
直感的なものでそれを避けた北斗が、切り裂かれた上着を見て顔色を変える。
風圧でやられたのは地上では初めてだった。
対する静羅もケンカを仕掛けて初めてかわされて、驚いて彼を見ていた。
和哉以外が相手のときに避けられたことはない。
和哉が相手のときは静羅が本気を出さないので、どちらが優れているかは判断できないが。
「あんたマジで人間じゃないのか? 俺の蹴りをかわしたのって、あんたが初めてだ」
「俺も人間に風圧でやられたのは初めてだ。ほんとに人間なのか?」
異口同音を口にして、ふたりが黙り込む。
「もしかしておまえも同族か?」
「はい?」
同族?
今時そんな言葉を使う日本人がいるだろうか。
いつの時代からやってきたバカだよ、こいつは?
「いや。しかし俺に内密に降臨している同族がいるなんて、ナーガからも聞いてないし」
ひとりで納得している。
危ない奴じゃなかろうかと静羅は密かに青ざめた。
「本名だけでも教えてくれないか?」
「おまえが偽名を名乗ってるのに俺に名乗れってのか?」
静羅の言い返しに相手は困ったような笑みを見せた。
「俺はしばらくの間は、この名前を本名として使うつもりなんだ。おまえたちの言う戸籍ってやつがないからな。それでも本名を知りたいというなら、意味などなくても本名を名乗るが?」
こいつどこか狂ってんじゃないのかと、静羅は本気で疑った。
彼の口調には淀みがない。
彼は自分の出自を掴んでいる。
これは静羅の確信だった。
戸籍がないというのも変である。
彼の口調からは産まれたときに親の都合で戸籍を作れなかったというような理由が感じられなかったのだ。
高樹の御曹司としてそういう奴がいるという噂も入ってこない。
この街のことなら高樹の家の者の耳に入らないはずがないのに。
本当にこいつは何者なんだ?
「俺はどうしても本名は名乗れない。だから、本名に近い名として世羅を名乗る。これは俺の本名から捩ってる名前だからな。
俺が名乗っていないのにおまえに名乗れっていうのは、筋が通ってないと思うけど、ここまで聞いたら気になるから訊くよ。おまえは一体何者なんだ」
きちんと筋道を通して非礼を断ってくる静羅に北斗は好感を覚えた。
こういう気性は好きだ。
これでどうして反感を感じてしまうのかが謎なのだが。
普通なら親しくなれる性格をしているのに。
「俺の名はラーヤ・ラーシャ」
名乗ったのを聞いたとき、すぐにはわからなかった。
音楽でも聞いたような気分だったのだ。
しばらく考えて名乗ったことに気付いたくらい、不思議な韻律の言葉だった。
(ラーヤ・ラーシャか。やっぱり日本人じゃないらしいな。どこの名前か特定できないけど。アジア系みたいな気はする。無国籍的な名付けというべきか?)
「日本人じゃねーのか?」
「違うな。というかあり得ない」
「ほんとに胡散臭い奴だな」
「余計なお世話だ」
すんなり名前を聞き取られて、ラーシャは、夜叉の君は複雑な顔になる。
(同族だな、こいつは。どこの種族の者か特定できないが、間違いなく天界に属する者だ。でなければ俺の名前を聞き分けることなんてできないんだから。夜叉の王族の証たる真紅の瞳。それを夜目に見抜いた眼力といい並大抵の奴じゃない。何者だ?)
「あんた笑ってる方がいいな」
「……え?」
「あんたは笑ってる方が好きだって言ったんだよ、俺は」
不意にそう告げた静羅は言葉を続けようとして、朝陽を目にして固まった。
(まずい。和哉が起き出すかも。朝陽が昇る頃が和哉の起床時間なんだ。これ以上遅くなったら、絶対にバレるっ!!)
ラーシャのことも気になったが、今は和哉の方が優先だった。
「じゃあ俺は帰るから」
「おいっ」
さっきから意外なことばかり言われて、振り回された夜叉の君が追いすがる。
「世羅は夜の生き物だからな。朝には消えるんだ。おまえもいつまでも夜の顔をしてるんじゃないぜ? 目立つからな。昼に夜の顔は」
「昼の顔と夜の顔?」
「仮面舞踏会(マスカレード)っていうのは、そういうもんだろ? あんたは夜ですら変に目立つからな。それを指摘してんのさ」
言いながら静羅は背を向けて片手を振った。
歩みを止めることのない後ろ姿をラーシャはいつまでも見送っていた。
「人間も意外と大変なんだな」
夜と昼を使い分ける。
そう言いたげな静羅の主張にラーシャは見送りながら、そんなことを呟いた。
「っ!!」
家に帰ると不機嫌そうな和哉が、ベッドの上でどっかりと待ち構えていた。
屋敷が大騒ぎになっていないところを見ると、和哉ひとりの胸の内に秘めていてくれたのだろう。
おそらくいつも通り静羅を起こしにきて、無人の部屋を見つけたのだ。
和哉はめっきり不機嫌そうな顔をしていた。
「遅かったな、静羅」
「和哉」
困ったように名を呼びながら、周囲に気付かれるわけにはいかないと扉を閉める。
帽子とグラサンを取ると上着を脱ぎながら机に近付いた。
部屋の中央にあるキングサイズのベッドの上に和哉がいて、そんな静羅の一挙一動をじっと見守っていた。
ひとりで我慢していた和哉の怒りが静羅は怖い。
ここまで和哉を怒らせることなんて滅多になかったし。
「言い訳は?」
高圧的な言い回しに静羅が眉をしかめる。
それからかぶりを振りながら答えた。
「ムシャクシャしていたから街に出てた。和哉に言わなかったのは寝てたからだ。それだけなんだから、そんなに怒るなよ」
ただのストレス発散だったと静羅は言う。
だが、立ち上がった和哉は嫌味な路線は崩さないまま、上から下まで静羅の全身を検分した。
「唐突に決心したにしては、ずいぶん慣れてるじゃないか。それにどこのモデルだよ? やればできるじゃないか、静羅。いつものトドのおまえはどこに消えたんだ?」
「和哉? どうしたんだよ? 不機嫌すぎるぜ」
不安そうな静羅が和哉を見上げる。
早朝の静羅の瞳はすこし綺麗だ。
黒い瞳に光が反射して。
なにを苛々しているんだろう?
慣れているように振る舞っているということは、静羅が和哉にも秘密を持っていたということだ。
それが気に入らない。
ただのストレス発散だったというなら、これからは注意するように言えば、それで済む。
それなのになにを苛々しているんだろう?
和哉の内心の戸惑いに気付いたのか、静羅が髪を括った紐を解きながら慰める声を投げた。
「すこし部屋に戻って眠れよ、和哉。黙って抜け出したのは悪かったから。疲れてんだよ、きっと。だから、自分がわからないんだ。もう黙って抜け出したりしないから」
言いながらスルリと髪を解く。
その瞬間だれかの匂いが強烈に漂った。
苛々が頂点にきた和哉は、不意に静羅の二の腕を掴んだ。
移動しようとしていた静羅が驚いたように振り返る。
その瞬間立っていられなくなって、近くにあったベッドの上に倒れ込んだ。
身体の上にある和哉の重みを殊更に意識する。
今まで慣れてはいた。
おそらく和哉よりも静羅の方が慣れているだろう。
それでもこの事態では、どちらが慣れているかなんて問題ではなかった。
意外な事態に静羅の思考が金縛る。
「んっ」
呼吸ができなくなって苦しさに唇を開く。
それは突然のキスを更に深くする結果を招いた。
逃げようとしても逃げられない。
和哉の腕力は静羅と互角か、それ以上なのだ。
不利な体勢で抱き込まれると抵抗ひとつできなかった。
「んっ。……ん、んんっ」
乱暴なほどの口付けに息があがる。
拒絶の言葉ひとつ言えない。
それが危機感を煽った。
何度も角度を変える口付けに肩で息を繰り返しはじめた頃、ようやくキスから解放された。
但し身体は解放されたわけではない。
和哉の唇は頬を伝い耳朶へ、そして胸元へと下りていった。
触れる卑猥な感触にハッと我に返る。
「かずやっ。一体なにしてんだよっ。かずやっ」
必死になって名を呼んだ。
逃げるように上体をずらしながら。
その声を聞いて和哉も我に返った。
自分で身体の下に組み敷いた弟を見てハッとする。
「ご、めん。自覚もなかったんだ。怖かったか?」
自分の方が戸惑ったような目をしていた。
和哉にそんな眼をされたら、静羅はなにも言えない。
「だったら退いてくれよ、和哉。俺が敵わないからって腕付くなんて卑怯だ」
「ごめん。そんなに責めてくれるなよ。1番戸惑ってるのオレなんだぞ。自覚なんてなかったんだから」
言いながら静羅が起きるのに手を貸した。
キングサイズのベッドに並んで腰掛けて、静羅がどこか悩ましい眼差しを和哉に向けている。
どこか艶めいて見えるのは、さっきのキスの余韻だろうか。
身近にいる血の繋がらない「兄弟」の存在を必要以上に意識した。
ふたりでいるのがこんなに気詰まりなのは初めてである。
どうしてこんなに気になるのだろう。
「ごめん。ひとりにしてくれないか? すぐにいつもの俺に戻るから。もう気にしないから。さっきのことは忘れるから」
和哉と気まずくなりたくないから、さっきのキスは忘れると言われ、和哉は息を詰めた。
だが、ここではなにも言えない。
悪いのは一方的に和哉だから。
部屋から出ていくとき、もう一度静羅を見ると静羅はベッドに横たわっていた。
両手で頭を抱え込んでいる。
抱き締めたい衝動に駆られ、和哉はこのとき初めて自分の気持ちを自覚した。
血の繋がらない「弟」をどんな眼で見ていたのかを。
その気持ちを噛み締めて出ていった。
もう今までと同じではいられないだろうと感じて。
『セーラ。おんなのこ?』
『ちがうよぉ、カズくん』
夏の陽射しの下でそんな会話を交わしたこともあった。
幼い頃、和哉は静羅のことを「セーラ」と呼んでいた。
舌の回らない幼い頃は静羅という名が、とても言いにくかったのだ。
それでいつの間にか「セーラ」と女の子みたいな愛称で呼んでいたのである。
同時にこの頃は静羅も今ほど口が悪かったわけでもなかったので、今では呼び捨ての兄のことを可愛らしく「カズくん」と呼んでいた。
これは今では禁句なので、昔の話をチラリとでも出そうものなら、静羅は拗ねて口も利いてくれなくなるのだが。
『セーラ。おんなのこ?』
『ちがうよぉ、カズくん』
『でも、かわいいね、セーラ』
和哉がそう言うと静羅はどう言えばいいのかわからないとばかりに黙り込んでいたものだった。
『セーラ。どこ行くの?』
時々母親に連れられて静羅が半日姿を消すとき、和哉は決まってそう聞いた。
静羅を発見したのは和哉なのだが、それ以来、高樹家が引き取ってからも定期的な検査は必要とされた。
やはり未知の生命体に近いので、いつなにが起きるかわからないと言われてのことだった。
もちろん静羅が研究室にいた頃のような扱いなら認めないとはクギを刺されていた。
だが、それらがどこまで守られたかは、静羅の思い出したくもないという表情と、検査の度に泣き出しそうな顔をしていた母親の様子からわかる。
成長と共に静羅も人並み以上の知恵を身に付けて、嫌な検査から逃れる術を得た。
それでもその頃のことは今でも静羅にとって禁句なのである。
静羅を見付けたのは和哉が生まれたばかりの頃だった。
静養を兼ねて生まれたばかりの和哉を連れて樹海にある別荘に行ったのだ。
そこで和哉が突然いなくなり両親が見付けたときには、眠り続ける赤ん坊の傍で、その存在を主張するように泣いていたのだという。
それが静羅である。
あまりに和哉が静羅に懐くのと、静羅の研究所での扱いが酷かったのとで、両親は厄介事を抱え込むことを承知で静羅を引き取る覚悟をする。
そうして和哉は静羅の兄となったのである。
しかし幼い頃はそんなことは意識もしていなかった。
あれば真夏のある日のことだった。
屋敷の広い庭で遊んでいたときに不意に庭師が水をまいたのだ。
自動でまくのでたまたまその時間帯に静羅と和哉が遊んでいたということであったが。
頭から水を被りビックリするふたりに駆け寄って、母親とお手伝いの女の人が慌てたように服を脱がし、バスタオルで身体を拭いた。
そのとき、和哉は初めて知ったのである。
静羅が決して同性ではないという事実を。
静羅は両性具有者だった。
それもかなり不思議な。
その身体の形態は概ね少年体で維持されているが、それでも感情などに誘発されて変わってしまうらしい。
時には完全に少女になることもあるらしいが、静羅はその時期だけはだれにも逢わない。
それが……満月。
静羅は両性具有者だが不思議だと言ったのは、月の周囲に左右される肉体の持ち主だったからである。
月の満ち欠けに合わせて静羅の身体は変わる。
満月の夜には完全な女性体に変わるのだ。
だから、静羅は満月の間は学校にも行かないし、そもそも部屋から出てこない。
その間は両親とも逢わない。
食事も摂らないし、どう過ごしているのかは推測の域を出なかった。
幼心に静羅が弟ではないらしいと悟った和哉だが、特に態度は変えなかった。
幼すぎてその事実に意味を見つけ出せなかったからである。
元々和哉が静羅を弟だと思っていたのだって周りがそう言うからで、納得して理解していたわけではなかった。
幼い頃の和哉はどちらでもよかったのである。
幼い頃から静羅はなんでも和哉の真似をやりたがった。
だから、静羅が同性として振る舞うのは、ほとんど和哉の影響である。
もし和哉が女だったら、ひょっとしたら静羅は今頃は女の子として振る舞っていたかもしれない。
そのくらい和哉が静羅に与えた影響は大きかった。
しかしふたりが同性ではないことは確か。
ふたりの性別の違いは誕生日を迎えるごとに肉体の成長の違いとなって現れた。
5歳、7歳、10歳、12歳、そして15歳。
年を重ねるごとに和哉の成長が目に見えて静羅を追い越し、和哉は少年らしい身体付きへ、静羅は柔らかい優しい外見へと変化していた。
静羅の成長は明らかに少年の規定から外れていた。
それを意識したのは10歳のときである。
父親に頼まれ何気なく静羅の部屋へ伝言を伝えに入ったとき、そこにいた静羅に驚いた。
満月の月の光に照らされた静羅の姿が少女的だったことに。
呆然と立ち尽くす和哉に静羅はすぐに出ていくように怒鳴り付けていた。
あれは女性体に変化する前か、した直後の静羅だったのだろう。
それ以降異性として和哉が静羅の部屋に近付くことは禁止された。
夜とそして満月の間は。
男でも女でもないどっちつかずの自分が気に入らないのか、静羅は自分を男として固定することに全神経を注いでいた。
それがわかっていて異性として振る舞えなかったのである。
だが、思えばあの日から和哉は静羅を同性として見たことはなかった。
いつだって異性だと意識していた。
だから、着替えなどの場には立ち会わないようにしていたし、風呂上りに近付くこともなかった。
その意味に気付けなかっただけで、和哉はずっと静羅が好きだったのだ。
静羅を囲む実家の事情が厄介だったのはそのせいもあった。
和哉の周囲に血の繋がらない弟がいるだけでも厄介なものを、当の和哉が血の繋がらない弟を「異性」として求めはじめているのである。
財産相続に関心のある親戚連中が、それを気にしないわけがなかった。
中心人物であるふたりが、それに気付くことはなかったが、ふたりの両親はすでに和哉の潜在的な感情に気付いていた。
いつかはそういう問題も生じるだろうと覚悟もしていた。
だが、夏休みになってすぐに起きた事件は、一時期ふたりの間を綺麗に壊していた。
静羅は口に出した通り昼に逢ったときにはいつもの静羅だったが、和哉が気持ちを自覚してしまったせいで、普通に振る舞えなくなっていたのである。
静羅は普通に振る舞おうとするのだが、和哉の対応がぎこちなくて静羅もぎこちなくなってしまう。
『どうして静羅を避けているんだ、和哉? あれではあの子が可哀想だよ。嫌っているわけではないのだろう? 静羅を』
瞳を見据え柔らかい声で問われて、和哉は珍しく父親が引っ掻けていることを悟った。
薄々和哉の態度の意味を知っていて訊ねているらしいと。
知られていると思えば幾分気持ちは楽になった。
その瞳を後ろめたさで逸らすこともなく、和哉は真っ直ぐに訊ね返した。
『いつも安全な兄として振る舞うつもりはないんですよ、父さん。それでも兄として振る舞わなければいけませんか?』
真っ直ぐに問われたことに和之はすぐに答えることができず、しばらく難しい顔で黙り込んでしまった。
『静羅はオレの弟じゃない。妹でもない。それでも兄でいなければならないんですか』
今度の科白にはかなりの苛立ちが込められていた。
血は繋がっていなくても兄弟として制止される現実に多少苛立ってきているのだと
知り和之はかぶりを振った。
『別にそれを強いるつもりはない。わたしはね。和哉が違った感情であの子を見ているなら、それを制止する気もない。
でも、そういう対象になりたいのだとしても、避けるのはどうかと思うね。静羅は嫌われていると誤解するだろう。
家族として否定されていると勘違いするだろう。兄という認識から進展したいとしても、あの子を傷つけたいわけではないのだろう?』
瞳を覗き込んで問われ、和哉は即座に頷いた。
好きな相手を傷付けたいわけがない。
ただどうすれば兄としか見てくれない静羅を振り向かせることができるのか、安全なただ守るだけの兄という認識から進展できるのかがわからないだけで。
そのことで静羅を傷付けるのは嫌だった。
その瞳に浮かぶ躊躇いに彼のまだ若い父親は苦笑する。
『急激にお互いの関係を変えようとしても絶対に上手くいかないよ、和哉。特にあの子には性別に関する拘りもあるし、自分を少年として安定することで精一杯だ。
不安定なままでは不安で仕方なかったのだろうが、あの子は少年として生きようとしている。そこへ持ってきて和哉はずっと兄弟として育ってきた相手だ。
すぐにそういうふうに見てほしいと望んでも、正直に答えれば無理だとわたしは思うよ。あの子はそういう関係になりたいのではなく、純粋に家族になりたがっていたのだから』
『でも、父さん』
反論しようとする和哉を片手を上げて制して、和之は可笑しそうに微笑んで長男に話しかけた。
『確かにね。血の繋がりなどなくても家族にはなれる。わたしも美夜も始めは他人だった。それが結婚することで伴侶になり新しい家族を得たように。
だが、今のあの子にそれを理解しろと言っても無理なんだよ。血の絆に対する拘りを持っているかぎり。和哉に望まれればあの子にとっては、他人としての自分を更に認識させられる事態だろうからね。
色んなあの子の事情を踏まえた上で急いではいけないと言っているんだ。まだわからないかい、和哉?』
優しい声で聞かれて和哉は仕方なくかぶりを振った。
父親の意見を受け入れることをその動作で伝えるために。
和之の執り成しのお陰でふたりのぎこちない雰囲気は綺麗に消えた。
ホッと安堵した静羅が、それまでと同じ態度で弟として和哉に接する。
苦い表情を浮かべた和哉が、異性としての距離は空けたまま兄弟として静羅と接する。
ふたりの態度には明らかに違いはあったが、それを封じたまま日々は流れた。
そんなこんなで東夜や忍たちとも出歩いたりして夏休みを満喫したふたりは、休みが残り少なくなってきたので学校のある街に戻った。
静羅が北斗と名乗った夜叉の王子と再会するのは戻った当日のことである。
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