第10話 聖戦ージハードー





 第三章 聖戦ージハードー








 須弥山(しゅみせん)を世界の中心に頂くことで知られている神々の世界。


 その実態は伝説に彩られ、決して明らかではない。


 多くは人間たちによって捏造された伝承に近い。


 だが、神々は実在している。


 彼らの頂点に立っていたのは天族の頂点に立っていた王、帝釈天である。


 神々は主に八部衆と呼ばれる部族に別れるが、その中でも最も名の知られているのが、帝釈天を頂く天の部族と鬼神と呼ばれ、闘神とも呼ばれる阿修羅族である。


 阿修羅族は4人の王を抱くが、その頂点に立つ長がいて、その王を主に阿修羅王と呼んだ。


 王が幾人存在しようと纏める者は必要とされる。


 それ故に彼の影響力は阿修羅族で最大と目されていた。


 また阿修羅王は帝釈天のよき友であった。


 どちらもが天を構成する上において重要な役割を担う王である。


 お互いに闘神としての荒ぶる魂を秘めているため、だれよりも分かり合うことができた。


 だが、あるとき、この天を二分する神々が聖戦を開始した。


 天界の歴史で最大の戦いの幕が切って落とされたのである。


 一方は帝釈天を主と仰ぐ天軍。


 もう一方は阿修羅王を主と仰ぐ鬼神軍である。


 この聖戦は日常化するほど長期化したと伝説で語られている。


 神々の戦は短期にして終わらず、と、それ以後教訓のように繰り返されるようになった。


 詳しくは語られぬ戦の詳細は不明であるが、この聖戦は双方の相討ちで終戦を迎えている。


 最後は天を二分した神々の相討ちにて終わったのだ。


 このときから天界は帝王不在の時代へと突入する。


 長き戦乱の世の始まりであった──────






 創世の頃より繁栄してきた部族の名を竜族という。


 その頂点に君臨する王を一族の者は竜王と呼び、外部の者は敬意を込めて竜帝と呼んだ。


 竜族はそれぞれに四大元素を司るが、歴代で王位を継ぐ者だけが、そのすべてを操る司なのだという。


 従って竜王は風、火、水、土のすべてを象徴する司であり、天の要とも言うべき存在であった。


 その一点が永続されるかぎり、竜族の繁栄は揺るぎないものなのだ。


 遠い昔には竜族は恐れられ、異端とされていた時代もある。


 竜族は天界最強と言われるほど力の強い一族であった。


 個人、個人が持つ戦闘能力は天界一とも言われていて、それ故に恐れられた時代もある。


 だが、あるとき同じ境遇にある阿修羅族の王が竜族に生き残る道を指し示した。


 長命である宿命を利点とし、天界の他の部族の王たちを導く存在になれるならば、人々の畏怖の感情は尊敬に変わるだろう。


 そう言ったのだ。


 指摘した阿修羅王とて闘神としては最強の一族で、それ故に竜族と似た立場にいた。


 天界一を競う相手として。


 お互いの立場が似ているから出た答えなのか。


 これ以後、竜族は竜帝を要として天界要とも呼ばれる立場へと変化していく。


 竜族は確かに阿修羅族を省けば、間違いなく天界一と言われる実力を秘めた一族である。


 だが、長命のその宿命故に種としての繁栄が難しいという、宿命的な条件も背負っていた。


 従って一族の総員数は天界で最低ラインのところにいる。


 それでなお天界一と言わしめるほどの実力者揃いだったのだ。


 人々に警戒するなと言っても無理である。


 人数の圧倒的な不利さを克服して、更には少数精鋭を地でいく竜族は、ほんの一握りの人数で数々の戦いに勝利してきた。


 畏怖の対象となるには十分すぎる特徴だった。


 もし阿修羅王が妥協案を出してくれなければ、竜族は異端者として追われていたかもしれない。


 そうなったら誇り高く気紛れな竜が、それを受け入れるわけもなく、戦が起きるのは必然だった。


 もしそうなっていたら今頃、どれほどの犠牲者が出ていたか。


 それだけに阿修羅王の指摘には、だれもが感謝していた。


 その他の部族に鬼神に連なる戦いを生業とする一族がある。


 阿修羅に代表される闘神の部族で他には夜叉や羅刹といった神々が存在する。


 それに連なる武将として竜族の天敵と言われる迦樓羅族(かるらぞく)がある。


 竜は迦樓羅の守護聖獣である金翅鳥(ガルーダ)を食し、迦樓羅は竜を喰うと言われた天敵同士であった。


 但しそれが実際にはどういう意味なのかは杳として知られず、あくまでも一族同士の相性を表現するに止まっていた。


 天界に彩りを添える楽士の君の異名を持つ乾闥婆族(けんだっぱぞく)。


 部族名を数え上げれば、それこそキリがない。


 闘神たちを率いるは代々帝釈天の懐刀とも片翼とも言われた阿修羅王。


 その配下の筆頭を名乗るは夜叉王である。


 彼が纏めるのが武将として名を馳せる迦樓羅王や羅刹王であった。


 乾闥婆王は戦いには赴かず、ただその妙なる調べを奏で続ける。


 不思議な調和の保たれていた頃、天は至福の時代を極めていた。


 阿修羅王と帝釈天が聖戦を引き起こし、相討ちにて果てるまで。






 帝釈天が崩御した後。


 天界は統率者を二重の意味で失い、戦乱の時代へと突入していた。


 天の覇権を争って戦は尽きることがない。


 大局にこそ臨まぬが、いつ果てるとも知れぬ戦いは、頂を得るまでは持続されるとだれもが知っていた。


 統べる者が現れぬかぎり戦乱の世は終わらない……と。


 世代交代が繰り返されるほどの時代の流れの果てに天界は現在に至る。


 帝釈天を一族の主としていた天族は、統率者を求め帝釈天の魂の行方を追っていた。


 彼の私軍の将と言われる四天王。


 東を護る東天王、南を護る南天王、西を護る西天王、北を守護する北天王の4人である。


 東の守神と呼ばれる東天王は最年少の天王であるが、その実力は最強と目される勇猛果敢な勇将として知られている。


 苛烈の気性をしていることで有名な少年で、その気さくな人柄故に民からの支持を集めている。


 その東天王を支えるのが幼なじみの南天王であり、南の守護は知恵袋の異名を持っていた。


 このふたりを東天王、迦陵(かりょう)と南天王、祗柳(きりゅう)と呼ぶ。


 天族を代表する武将である。


 彼らとは違い天界に属する四天王として帝釈天に仕えていたのが、多聞天、広目天、持国天、増長天の四将軍。


 彼らの上位に立っていたのが毘沙門天であり、その武将すべてを率いるのが阿修羅王だったのだ。


 東天王を始めとする四天王は、あくまでも天族においての帝釈天・私軍の将なのである。


 もちろん実力の問題ではないが。


 この縦と横の関係もふたりの帝王の相討ちで意味のないものへと転じた。


 帝釈天と阿修羅王。


 このふたりの神々はまさに天を統べる覇王であった。


 その存在が失われ、天界は混乱の直中にある。


 阿修羅王が帝釈天と相討ちで果て残された一族の者は、生誕したばかりの王子を守護しかろうじて生き延びていたが、あるとき、この一族の命運を担う王子が、その行方を闇に消してしまった。


 阿修羅族は滅亡の危機を迎え、その消息が掴めなくなったまま現在に至っている。


 その骸さえ発見されぬまま、阿修羅族は人々の前から姿を消したのだ。


 そうして偉大なる阿修羅王の代行を務めるようになったのが、彼の下に就いていた夜叉王であった。


 かつての纏まりを失ったまま、なんとか立て直そうとする神々の努力の甲斐あってか、一応の平定はみているが、未だ戦の火は燻り続けている。


 ラーヤ・ラーシャが夜叉一族の王子として生まれたのは、最後の阿修羅の王子が消息を絶って更に何百年かが過ぎた後だった。


 現夜叉王を父に略奪された囚われの姫君を母に持つ、生まれながらの夜叉の君としてラーヤ・ラーシャは生まれた。


 夜叉の名を継ぐ者として一族の王子だけに許される名を受け継いで。





 東天王たちのように「迦陵」や「祗柳」という名は一般的なものである。


 一族の名を冠することが許されるのは歴代の王のみであり、その王子は名を受け継ぐまでは幼名を名乗る。


「ラーヤ・ラーシャ」や竜帝の幼名である「ナーガ・ラージャ」のような響きを持つ名は、一族の世継ぎの王子以外には名乗ることを許されぬ名であった。


 誕生と同時に「ラーヤ・ラーシャ」と名付けられた彼は、生まれながらの夜叉の名を継ぐ存在だった。


 阿修羅王が存在しない今、彼はやがて闘神を統べる座につくことになる。


 闘神として名を馳せた阿修羅王の代行として。


 あまりに重すぎる重責である。


 伝説という十字架をその生まれと同時に背負うことになったラーシャにとっては。





 甲冑のような物を身に纏い、主のいない城の廊下を早足に歩いているのは、まだ幼い夜叉の王子である。


 夜叉の君という異名で知られる彼は、その生まれによって竜帝の近くで育った。


 阿修羅王の代行を努める夜叉王は、その役目が決まったときから、竜帝の近くで養育されるのが唯一の決め事であった。


 竜帝が四大元素を操る現存する最強の王だからである。


 竜帝の下で力を磨き、いつか闘神の王となるべく養育されるのだ。


 ある意味で竜帝が鬼神軍に属していたから可能になった事柄でもあったが。


 竜帝は今は亡き阿修羅王にとって義理の兄に当たる。


 阿修羅王の迎えた妃が竜族の姫君だったのである。


 そのため聖戦においても竜帝は阿修羅王の側についた。


 今となっては公然の秘密である。


 帝釈天の代行も兼ね、城に居を構える竜帝の近くで育ったラーシャが、天空城に詳しいのも当然のことだった。


「ナーガッ。いないのかっ!?」


 声を荒げてラーシャが竜帝を呼んでいる。


 竜帝はただひとりラーシャだけに幼名で呼ぶことを許していた。


 それだけ溺愛されているわけだが、この不遜な呼びつけ方に竜帝が呆れた声を返した。


「そなたは一体どこでそういう言葉遣いを覚えてくるのだろうな。わたしの身近にいてそう口が悪くては、わたしが粗雑だ乱暴だと疑われるやも知れぬな」


 呆れた声に曲がり角を慌てて曲がり、そこに見つけ出した竜帝の姿に、ラーシャが呆れた顔を返した。


 栗色の長髪を背中に垂らし青い瞳をした美青年がそこにいる。


 言わずと知れた竜帝である。


 天界の最長老のひとりのくせに長命種の特徴で、やたらと外見が若い口の悪い竜帝は未だ独身であった。


 妃の候補には事欠かないはずだが、この性格の悪さでは早々身を固めるわけがないと、常々ラーシャは思っていた。


「あんたも相変わらず口が悪い。俺がこういう性格や話し方をするようになったのは、全部あんたの影響だろう。責任放棄してるんじゃないっ」


「忘れてもらっては困るな。竜は気紛れと相場が決まっているものだ、夜叉の君」


 悪びれもせずに言われ、ラーシャがどっと脱力して肩から力を抜いた。


 確かに元来竜族の者はみな気紛れである。


 縛られることをなによりも厭い、気位の高い扱いにくい一族なのだ。


 頂点に立つ竜帝がこういう性格なのは自然の摂理と言う他ない。


 呆れた顔を浮かべ、せめてもの反撃を言ってみる。


「こういう性格じゃあ迦樓羅王が突っ掛かってくるのも当たり前だよな。あの方も気の毒に」


 ラーヤ・ラーシャの言い返しに竜帝は笑っただけで特に言い返しはしなかった。


 確かに竜と迦樓羅は天敵なのだが、今のところ竜帝は迦樓羅王を相手にしていない。


 元々気紛れな竜のこと。


 対立することもあるが、全く意に介さないこともある。


 それに竜帝は確かに気紛れで、自由奔放に振る舞う厄介な青年だが、あまり争いを好まない一面もあるのだ。


 迦樓羅が3代代替わりする間、常に竜帝の座にいた彼が一々歴代の迦樓羅王を相手にしなくなったのは当然かもしれない。


 竜帝は悠々自適に構えているところがあり、迦樓羅王がなにを突っ掛かってこようと余裕で片付けている。


 そうやって片手間にあしらわれる迦樓羅が、悔し紛れに口に出すのが「年寄りのくせして外見だけは若い詐欺師が可愛いげのない」であった。


 このときだけは竜帝は本心から苦笑いを浮かべるのだが。


 ラーシャの憎まれ口に笑ってみせた未だ竜族としては若い竜帝が、表情を改めると夜叉の王子に問いかけた。


「それで何故わたしを探していたのだ? 急用か、ラーヤ・ラーシャ?」


 にわかに態度を改め両腕を組んで問いかける竜帝に、ハタッと正気に返ったラーシャは苦い表情になって頷いた。


「父上が天を抜けた」


 ポツリと告げられた一言に竜帝は小さく眉を潜めただけだった。


 天の最長老のひとりとして彼はすでに夜叉王の不在を知っていた。


 連日その問題において話し合いは繰り返されていたし、正当な世継ぎであるラーシャの身柄についても話し合われていた。


 取り残された一族をどうするかも含めて。


 ただラーシャが告げた「天を抜ける」というのは、下界に降ったことを意味し、正式に追われる立場になったことを意味していた。


 つまり王子であるラーシャに後を継がせ、夜叉王の権利を剥奪することで、これ以上の混乱を防ぐ処置をとることが決定されたのである。


 竜帝は先程その報告を受けたところだった。


 もちろんラーシャが命を下されるよりも前である。


 夜叉王の重要性を思うなら、認めるしかない決定であった。


 それを当人のラーシャがどう思おうと、王子としての責任は放棄できないのだから。


「ずいぶん……落ち込んでいるようだな、ラーシャ」


 気遣うような優しい声にラーシャは眼前に立つ竜帝を見据え無理に小さく笑った。


「俺に父上を討伐するように命が下った。王が一族を捨てることは、なににも勝る大罪であるとして。

 一族の命運を担う王が決して起こしてはならない行動を夜叉王は敢えて起こしたのだから、その責は王子である俺に取れ、と。陽気でいられる方がおかしいだろう?」


「反論があるのか?」


 両腕を組んだ同じ姿勢のまま、ポツリと竜帝が問う。


 ラーシャは逡巡の迷いもなくかぶりを振った。


「それが正論だと俺にもわかる。神族にとって一族の王が、どれほどの重責を担う存在か知らない者などいないのだし。

 だが、それだけに未だ王の座についている実の父を王子である俺に討てというのはどうかと思う。

 一族が二派に別れかねないし、大体一族は王と命運を共にする存在だ。王子が実の父を討つなど前代未聞だ」


「確かに一族は王の決定に逆らいはしない。それが共に滅ぶための決断であろうと」


 俯いて口に出した科白に穏やかな声が返された。


 ラーシャが竜帝の瞳を覗き込んだ。


 深い青い瞳が一瞬だけ緑に変わる。


 穏やかな色に。


「だが、それは王が一族の命運を担う。その役を放棄しなければ、という仮定の上でのことだろう。

 王がそれを放棄し一族を見捨てたのなら、一族を護るための新たな王が必要になる。

 王は反逆者を許してはならないのだから。長老たちが言っているのは、そういう意味なのだがな」


「それには一族が次期王に従うならという仮定も必要だろう?」


 小首を傾げて出された問いに竜帝は笑った。


 笑って己を過小評価する夜叉の王子に一言だけ事実を告げた。


「戦いを本能とする闘神たちを甘くみないことだ。

 彼らは確かに戦いに身を投じる性質上、一族の王には他族の者以上に絶対服従だ。

 だが、それはある意味で自分たちを統べる者として力とその人柄を認めた上でのことだ。

 戦いを本質とする者は頂点に立てる者以外を受け入れない。そうでなければ力を持つ闘神たちは誤った道へ進んでしまうだろう?

 戦いに真理を見出だす者だからこそ、彼らを統べるのにも条件が課される。

 戦場で裏切りが生じた場合、そなたはそれが上官であろうと、闘神たちが見過ごすと思うか? 鬼神と呼ばれる気性の荒い者たちが」


 ラーシャを説得する竜帝の声には真理があった。


 思わずラーシャは深いため息を吐き出してしまう。


「荒くれ者を率いるのも楽ではないということか」


「力だけでは従わない者たちばかりだ。だからこそ鬼神と呼ばれる者たちは恐れられてきた。

 それだけの団結力が優れた王を頂くとき、かつての阿修羅族のように無敵になるからだ。肝に命じておくといい」


「たとえ王であろうと裏切りは許されないということか」


 苦い口調で呟きながら、ラーシャはそれがなにを意味した科白か、自分で噛み締めていた。


 その事実を認めるなら裏切り者に対する制裁は、一族への償いとしてラーシャに課された責務だと受け入れることを意味する。


 竜帝がさっきから諭していることも、一族に対する責務を放棄した王に対して、その一族と王子が担う責任についてなのだ。


 一族のために切り捨てねばならないものもある。


 それが例え現在の頂である王であろうと、一族を見捨てた以上は死で購うのが闘神の掟なのだから。


 他の者が討つよりは息子であるラーシャが討つべきなのだと。


 竜帝はそう言っているのだ。


 揺るぎない掟なくして闘神たちを統べることはできない。


 それだけの力を鬼神と呼ばれる者たちは持っているのだから。


 長く重い沈黙が続き、ややあってラーシャが竜帝を振り向いた。


 真っ直ぐに彼の瞳を捉える夜叉の王族である証の真紅の瞳。


 そこに秘められた決意に竜帝は無言で対峙している。


 同じ責任を担う対等な立場の王として。


「一族の元へ帰還する。夜叉王を継ぐ正当な後継者として」


「……そうか」


 はっきりと告げられた宣言に竜帝はその一言だけを返した。


 竜帝は彼にかける慰めの言葉を持っていなかった。


 彼が自ら背負うことを決意した重責は、彼の阿修羅王の代行という座であり、実の父を討伐した果てに得る血塗られた王の座である。


 下手な慰めなど口にする権利はだれにもなかった。


 当事者以外は見守るしかない。


「後一族の問題以外にも託宣が下ったが、ナーガも承知のことか?」


「託宣? 知らぬな。なにが下った?」


 いきなりの問いかけに竜帝が怪訝そうに問い返す。


 彼も知らなかったと言われ、驚いた顔になったラーシャが、さっき下されたばかりの託宣を竜帝に告げた。


「天を捜せ、と」


 たった一言の意味に竜帝が微かな動揺を示した。


 天、とは帝釈天を呼ぶときの略称である。


 以前は「帝」とか「天帝」とも呼ばれていたが、現実は実在しないこともあり、概ね「天」と呼ばれていた。


 天族の王を意味する略称である。


 その現在は実在しない帝釈天を捜せとの託宣が下ったと、夜叉の王子は竜帝に報告したのだった。


 しばらく難しい顔をして黙り込んでしまった竜帝に説明を付け足した。


「天の気配が下界から感じられるとの託宣もあった。従って夜叉王討伐で下界に降るなら、それと平行で天の行方も探れと。

 もちろん天を見つけ出すことが叶えば、夜叉王討伐は後手に回されることになるが。

 承知していたわけではないのか、ナーガ? 天の気配が下界に存在することを」


 真っ直ぐに事実だけを問われ、竜帝はため息と共にかぶりを振った。


「確かに下界から幾つもの強い気を感じることはある。人間たちの世界のはずが、現在はあまりに強い気が多く、すこし均衡を崩しつつあることも知っている。

 だが、それが即座に天の気配だとはわたしには思えなかった。

 何故なら複数の気を感じていたからだ。しかも天に劣らぬ気が幾重にも重なって感じられ、判断するには時期尚早と思っていた。

 その中のひとつが天の気配である可能性は否定できないが、動くにはかなりの危険が伴うのも事実。

 もし疑いが事実なら、天にしてからが人として転生している可能性が高い。

 見つけ出したとしてすぐに天帝として覚醒するものかどうかも怪しい。

 そのためわたしは暗黙の了解で、この件には関わっていないのだ。

 それでもそなたに託宣が下ったか。だれの権限によるものやら」


 独り言のように話し続ける竜帝に、ラーシャはこの託宣が抱える問題の大きさを悟った。


 首を傾げて竜帝の疑問に答えを渡した。


 託宣を受けた当人として知り得た事実で。


「星見の長老からだ」


「星見の長老?」


 神々の世界において星見は重要な意味を持つ予見者である。


 聖域とも称された宮に住む世俗から隔離された聖者。


 彼らを総じて「星見」と呼ぶ。


 星見の長老とは彼らの中で最高権力を誇示する老人のことであった。


 天界の最古老でもあり、竜帝とも親しい間柄である。


「あの狸長老はまた厄介なことを独断で」


 苦虫を噛み潰したような竜帝の口調にラーシャは声を殺して笑う。


 星見の長老を相手にそういう科白が言えるのは、天界広しと言えども竜帝陛下以外にはいないだろう。


 旧知の友だからこそ言える科白なのだから。


 どちらにしても竜帝はこの託宣の意味を知っている。


 知っていて黙認していた事件なのだろう。


 つまり危険だが動くだけの価値は、この託宣に秘められていることを意味する。


 危険と紙一重の現実だが、間違いなく帝釈天は下界に降臨しているのだ。


 ただどのような形で転生しているかがわからず、竜帝は動く時期を見合わせていただけで。


 託宣が下ったなら迷う必要もないだろう。


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