第8話 新たなる土地で





 第二章 新たなる土地で





「だからっ。俺はこの環境から離れて、自分ひとりで生きたいんだってばっ。他に意味なんてないんだ!! 俺ひとりでどこまでやれるか、やらせてくれよ、父さん、母さん!!」


「しかし、だな。おまえの境遇は普通ではないし、危険だろう?」


 賛成しかねるといった顔の父親に、イライラと髪を掻き乱した。


「大体ひとりでは起きることもできないのに、どうしてそんなに無茶なことを言うの? わたしたちが重荷なの?」


 少女のような母に泣き出しそうな顔をされて、途端に気が滅入る。


 だれの入れ知恵なのやら。


「深い意味はないって言っただろ。俺は自分の可能性を試したいだけなんだ。

 ここにいたら、それは安全に暮らせるだろうし、なにも心配する必要なんてないんだろうけど、俺がそれじゃあいやなんだ。

 わかってくれよっ!! 決して父さんたちが負担だとか、いやになったとか、そういう意味じゃないからっ!!」


「じゃあそうだと仮定して現実問題として、おまえ自分ひとりではまともに起きれない。起こされてからも、完全に意識が覚醒するまでは、ほとんど人形状態のくせに、それをどうする気なんだ?」


 家族の中で最も触れ合いが深く、どんなに言いにくいことでも言いたい放題してきた兄貴の声にムッとした顔になる。


 続く科白を予想したからだ。


「そんな状態じゃあ独り暮らしなんて無理だよ。そもそもまともに登校できるのか?」


 グッと詰まったのを見て、ここぞとばかりに父や母まで言い募った。


「それでもどうしてもというのなら、せめて」


 父と母が揃って兄貴の名を出す前に、サッと言い切ってやった。


「それに関しても自分ひとりでやる気だぜ? 言っただろ? 自分の可能性を試したいんだって。このままおんぶに抱っこなんて人間としても欠陥品じゃん? 自分ひとりでどこまでやれるか、俺は試したいんだ」


 強情に言い張るのを見て、呆れたのかはたまた諦めたのか、さすがに付き合いの深い兄貴は深々とため息の嵐である。


「じゃあマンションをこっちで手配するから」


「いらねー」


「おいっ」


「なんでも遠くから通っている生徒のための寮があるらしいんだ。俺そこに入るから」


 すでに入寮通知も貰っている。


 実は今更変更不可能なほどの確実的なお話であった。


 だから、説得ができないと知ると、早々とマンションの話が出たのだ。


 が、この切り返しは意外だったのか、3人とも固まってしまった。


 まあ無理もないが。


「おまえさ、寮って普通、だれそれと同室とか、そういうやつじゃなかったか?」


「そうだけど? 確か2年生の半数が、ふたり部屋。3年生になると完全なふたり部屋になるっていう、まあある意味で上級生になるほど、リッチな暮らしができるシステムらしいな。1年生は基本的に3人から4人らしいけど」


「おまえ……それはまずいだろう?」


 呆れ顔の兄貴の顔にこめかみなど掻いた。


「まずいかな? やっぱ」


「まずくないはずないだろうが」


 今すぐ断れとでも言いかねないほど、不機嫌そうな顔だった。


「あのさ、なにを言いたいのかわかんねえほど、俺も子供じゃないつもりだし、いきなりキレる前に言っておくけど」


 なんだよ? と眼で促されて、いささか心配になった。


 過保護なこの兄貴に家から出て学校すらも変わって、弟離れしてくださいと望むのは無理な気がする。


 何ヶ月くらい持つだろう?


 離れ離れの状態で。


 ここはきっちりとクギを刺しておかなければ。


「俺だって道徳的な観念はしっかりしてるつもりだし、そんな狼の前の羊同然の状況を、甘んじて受け入れる気はねえよ。狡い手だなとは思ったけどさ。入寮に関しては家のコネを使わせてもらった。特別室のひとり暮らしだから、安心しろよ」


 ふくれつつそういえば、両親はとたんに安堵したようだが、さすがに過保護な兄貴。


 顔色ひとつ変えなかった。


「でも、それってさ。特別室ってことは、一般の生徒はいないんだろうし、完全に個室なら起こしてくれる奴もいないはずだし、余計に困らないか、おまえ?」


「あのさあ。さっきはヤローと同室はやめろとか言ってたくせに、今度は逆かよ? どっちかひとつに決めてくれよ、頼むから……」


 うんざりしてしまうのも無理のない堂々巡りなのだが、逆の立場から言わせると、まあ主張を受け入れて独立を許したとしても、その境遇的に普通は入寮なんてしないものである。


 なぜなら肉体的に問題があったからだ。


 そのせいで厄介な境遇にいるくせに、ここまで呑気だと、兄貴として過保護になるなと言われても無理である。


 そもそも目覚まし役を買って出るまでは、朝食を一緒に摂ったことがないという、だれに言っても冗談だとしか思ってくれないような過去があるのだ。


 何故なら起こされるまで1週間でも1年でも寝ているのではないか? という奇妙な一面があって、夕方近くまで起きてこないなんていうのも日常だったので。


 そんな非常識な一面を持っているのに、独立したいなんて無謀もいいところだ。


 その辺のところがわかっているのかいないのか。


 心配をかけることに関しては天才的なトラブルメーカーはのほほんとしている。


「どちらにしろ決意は変わらないのだね?」


 父からの問いかけにコクリと頷いた。


「そうか」


 吐き出された答えがやけに重い。


「ひとりになって冷静に考えたいんだ。ワガママばっかり言ってごめん。父さん、母さん」


 それだけを言って部屋に戻った。


 入学式を目前に控えた入寮日まで後1週間と迫ったある日のことだった。





 全国でも屈指の進学校といえば、東に東城大付属、西に翔南高校。


 この2校は全国レベルで有名な2大学園である。


 特に東京近郊にある東城大付属校は、幼稚舍から大学院まで一貫しての教育で有名だ。


 ついでに言うと学力は最高峰で、入学時に必ずと言っていいほど、家柄の有無が問われるため、ブルジョア校としても有名であった。


 政府に関連する大臣や政財界に力を持つ財閥。


 そういった特殊な家柄や立場に立つべき者が多く集まっている。


 そのためか特別視されがちであった。


 そういった特別なものはなにもないのだが、その学力では東城大付属と常に比較される位置にいるのが、関西方面で有名な翔南高校である。


 こちらは家柄などに規制がないせいか、学力がずば抜けているわりに自由な校風がウリだった。


 東城大付属も生徒の自主性を重んじる学校で、生徒会の代わりに全校生徒を纏める生徒総長なる役柄があり、その役目はひとつのエンブレムですらあった。


 特権階級の更に特別職である。


 小学部から生徒総長を中心に纏まって、教師の介入を許さない校風を形作っているのが東城大付属なら、翔南高校は何事においても生徒のやる気を重んじる一風変わった学校だった。


 無意味なほどに学校行事が多く、何故かそのひとつひとつで、やたらと生徒が騒ぎ立てるお祭り高校とまで言われている。


 そこまで馬鹿げた校風であり、生徒もその期待を裏切らない自由奔放な生徒ばかりなのだが、どういうわけか学力は全国でもトップレベルの生徒ばかり。


 東城大付属が上品で特権意識の強い特別な学園だとするなら、翔南高校は実力では劣らないが、だれもが好き勝手に生きている、まあそういう人々に言わせるなら、野蛮、または下品な集まり、となる。


 実力では互角なので、そういうやっかみも意味を持たないのだが。


 そういうわけで東城大付属は、入学するのに家柄の有無が問われるので、生徒は大体自宅通学である。


 しかも自家用車での通学が多かったりする。


 それをしない変わり種は、小学部の頃から生徒総長を歴任していた東城大付属でも、ずば抜けた家柄と不動の学力ナンバーワンを維持してきた怪物だけだった。


(今年もやるのかな。恒例のアレ)


 なんて考えると、それだけでも懐かしい。


 家を出るまでが大変だったが、なんとかここまでこぎつけた。


 しかし。


「おいおい。ここは関西の学校だろ? なんだよ、この煉瓦作りの、まるでイギリスのハイスクールみたいな寮は」


 おまけに。


 そっと門に手をかけるとギシィと不気味な音がした。


「これ、絶対、軋んでるぞ。大丈夫かよ?」


 おそらく建った頃はハイセンスな建物だったのだろう。


 元々関西は(神戸方面は特に)異国情緒溢れる街だし。


「に、してもなんだって建て直しをしてないんだ? いくらなんでもひでぇよ、これは」


 思わず青ざめる。


 今までが今までだったので、こういう建物には縁がなかった。


 一歩引いてしまうのもそのせいである。


 その反面、ウキウキと気分が弾んでしまうのも事実だったけれど。


「ははは。そういうことを言うってことは、関西人じゃないな?」


 突然の声に顔をあげれば、寮に続く道の途中に男子生徒が立っていた。


 運動部に所属しているのだろう。


 鍛えられた身体付きをしているのがわかる。


 兄貴がそっち方面ではそうとう有名人だったので、そういう見分け方には慣れていた。


 それに頭も良さそうだ。


 眼を見れば頭の出来がわかるので。


 私服だから学年まではわからないが、新入生の入寮日に寮にいるところを見ると、なにか役についているのかもしれない。


「おまえ翔南の噂を知らないのか?」


「翔南の噂?」


 手招きされたので、そのまま突っ立っているのも飽きたし、誘われるまま門をくぐる。


 なんか鬱蒼としたまるで森みたいな感じがした。


 そのずっと先に3つの建物に別れた寮がある。


 言うまでもないかもしれないが、1年生寮と2年生寮、そして中央にあるのが最上級生のための寮である。


 学年別で寮が違うのだ。


 そういう説明は書類で読んで知っていたが、さすがに有名な高校というべきか。


 そういう寮は普通はありえないらしい。


 大抵は全学年の寮生が、ひとつの建物に纏まって住むもの、らしいので。


 そのくせ、この体たらく……。


 修理ぐらいしたらいいのに……とさすがに呆れていた。


「翔南はなあ、まあ通ってるおれらがいうのもなんだけど、結構な名門だからな。翔南に通うために全国からやってくるんだ。そのせいで生粋の関西人っていうのは少ないんだ。で、おれは関東人。おまえは?」


「ん。どっちかっていうと関東、かな?」


 本音をいえば1年中、日本にいるわけでもなかったので、こういう区別はしづらいのだが、説明する気もなかったので、その一言で終わらせた。


 上級生らしい生徒に案内されるまま歩いているとふと気づいた。


 3年生のための中央の寮は、他のふたつに比べて立派な佇まいをしていることに。


(なるほどねえ。これだけは修理くらいはしてるってことか。だから、特別室もここにあるんだな、きっと)


「新入生だとは思うけど、おまえ、名前は? 名前を聞かないと部屋に案内できないからな」


「あんた寮長とかいう奴?」


「いや。寮長は3年の三枝さんなんだが、三枝さんは用事があるとかで、おれに押しつけて消えたんだ。まだ帰ってきてない」


「ふうん。でもさ、人に名前を訊ねるときは、まず自分が名乗れよな、先輩?」


 ニヤッと笑うと意外だったのか、眼を見開いてこっちを見ていた。


 こういう反応には慣れっこだ。


 外見とのギャップが激しいのか、穏やかな初対面というのには縁遠かったので。


「まあそれもそうだな。おれは甲斐だ。上杉甲斐。新2年生。一応、先輩だな」


 甲斐?


 上杉甲斐?


 それってもしかして上杉財閥の?


 たしか上杉グループの会長の孫がそういう名前だったはずだけど。


 そういえば俺よりひとつ年上だって聞いてたっけ。


 そっか。


 翔南に通ってたんだ?


 もしかして……素性、バレるかな?


 ここでは伏せておくつもりだったんだけど。


 まあ一か八か懸けるか。


 俺のことは一応、徹底的に伏せるように、これまでを生きてきたし。


 上杉財閥の会長や社長が、バラしていなければ伝わっていないはずだからな。


 バラしていたら、それなりに報復するか。


「で、おまえは?」


「修羅」


「え?」


 唖然としたらしい相手に皮肉を混ぜた笑みを投げる。


「あだ名だよ。基本的に俺はこっちのあだ名で通してるけど。本名は静羅。高樹静羅」


「静羅? あだ名よりあってる気がするけどな、おれには」


「そのうちわかると思うぜ? どうしてみんなが俺に『修羅』なんて、物騒なあだ名をつけたのかが」


「そうか? 元は仏教の守護神であり鬼神とも言われている阿修羅から取っているんだろう? おれには程遠く思えるけどな。こんなほそっこい腕して背だって低いし」


「一々うるせぇよ。気力が萎えてなけりゃやり返してるとこだぜ」


「気力が萎えてるって……どうして?」


「ちょっとな」


 全く。


 当日になっても、あーだ、こーだと引き留めて、外国へ行くわけでもないのに、自家用ジェットのお世話だったんだ。


 過保護な家族にも困りもんだよな、ホント。


「しかし高樹静羅?」


 歩きながら書類を捲っていた手がピタリと止まる。


「?」


「ああ。今年の新入生総代さまかあ」


「は? なんてった、今?」


「だから、おまえが新入生総代だって言ったんだ。入試ぶっちぎりでトップだったみたいだな、おまえ。全科目満点か。凄いな、これ」


「ちくしょう。聞いてねえぞ。新入生総代なんてっ」


「聞いてないっておまえ」


「いい。後で手を加えてバックレるから、俺は」


「おいおい。生徒会長の前でそういう物騒な発言はやめてくれ」


「生徒会長? アンタが?」


「なりたてほやほやだけどな」


「ふうん」


 しっかしうっかりしてた。


 片割れがいないから、別に手を抜く必要を感じなくて、ついうっかり真面目にやってしまったんだ、入試。


 首席生徒になんてなれば厄介な事態になるのは目に見えてるのに。


 あんまり目立ちたくないし、やっぱり後で理事長に掛け合って、総代は次席の生徒にやらせるべきだろう。


 さすがにこういうのどかな風景の場所で、いきなりピストルやライフルが出てきたり、どこかのスパイが潜り込んできたりしたら、他の生徒たちに悪いしな。


「あれ? おまえって特別室?」


 唖然としたような声がして立ち止まった。


 振り向けば上杉財閥の御曹司が、驚いたような顔で見下ろしていた。


「なに?」


 よくよく確かめてみると新入生だというだけで、1年生寮だと判断されたらしく、道順がずれている。


 今更だが部屋が違うことに気づいたらしい。


「静羅……高樹、静羅?」


 ぶつぶつと繰り返す様子に眉を潜めた。


「なんだよ? 言いたいことがあったら、はっきり言えよ。気持ち悪い」


「いや。ちょっと引っ掛かっていただけなんだ。特別室を使う奴なんて開校以来初めてだし。しかもそれが新入生で総代だなんて前代未聞だから。おまえって何者?」


「だから、言っただろ。修羅だって」


「いや……高樹?  高木でも喬木でも高城でもなく高樹?」


 マジマジと見入る視線にマズイかな? と、わからないように冷や汗を掻く。


「俺の苗字がどうかしたか? 別に変哲のない名前だろ? さすがに鈴木には負けるけど」


 巧妙にズラす。


 キョトンとした顔をわざと作って。


 その瞬間に上杉の御曹司だと見抜いたことは黙っておくことに決めていた。


「さすがに日本で1番多い名前とは言わないけど、たしかに珍しい名前ってわけでもないのは本当だな。ただ」


「だから、なんだよ? 俺早く部屋で休みたいんだけど?」


「いや。もしかして世界的な大財閥の高樹家の御曹司か?」


「は? 高樹って名前の大金持ちでもいるわけ?」


 自分でもわざとらしいなと思いつつ一応そう言っておいた。


 実際のところ、高樹の家は世界でも有数の大財閥なのだが。


 が、ここで明かす気はなかった。


 大体騒ぎになったりしたら厄介を増すだけだし。


「知らないのか。なら、いい。大体高樹財閥の御曹司といえば、世界的に有名でその分、厳重な警備の中にいるって話だから、こんなところにのほほんとひとりで現れるわけがないからな。長男の和哉君の噂とは全然合わないし」


 結構ヤバいところまで知っているらしい。


 たしかに静羅は世界的に有名だ。


 はっきり言って自分でも嬉しくない理由で有名なので、人の3倍も4倍も警戒しないと、いつ誘拐されても不思議のない境遇にいた。


 そのせいで影のように寄り添っていたのが、長男にして高樹の正当な跡取りである和哉だった。


 文武両道で知られ、その道のプロが恐れるほどの腕前を持つ和哉が、弟には激甘なブラコンだとは、だれも思わないだろう。


 高樹家の跡取りである長男の和哉は今年高校1年生になる。


 つまり静羅とは同学年の兄ということだ。


 それも当然。


 静羅の情報は伏せられてはいるが、静羅は戸籍上では和哉の双生児の弟扱いになっている。


 だから、学年が同じなのだ。


 何故戸籍上なのか。


 それは時と共にわかるだろう。


「なんかよくわかんねえけど、そういう話題に敏感だってことは、ひょっとしてあんたもどっかのお坊っちゃんだったりするわけ? だったら笑えるよなあ。頼りねえし」


 ケラケラ笑ってそう言えば、ムスッとした声が返ってきた。


 ツボに嵌まりきった反応が却って可笑しい。


「悪かったな。その、まさか、だ」


「へ? ホントに金持ちの坊っちゃんなわけ? その腰の低さで?」


「おまえの態度がでかすぎるんだろうが、新入生!!」


 頭を殴ろうとしたので、さっと避けてやった。


 からかいはするが、素直に殴られてやるつもりなどサラサラなかった。


 笑ってやったら呆れたような顔をしていた。


「ホント。外見と中身のギャップが激しいよな。声をかけるまでは、もしかして女子寮と間違えてるのかと疑ってたのに」


「ヒデェ感想だな、それ」


「この髪で男だと思えって?」


 背中でひとつに括った黒髪をサラリと掻き上げて甲斐がそう言った。


「ああ。これはなあ。切るなってうるせぇ奴がひとりいるんだ。おかげで何年切ってなかったかな。忘れたな、俺も」


 腰には届いていないが肩はとっくに越している。


 鬱陶しいのだが和哉が切るなとうるさい。


 おまけに父も母も切ろうとすると飛び付いてきて説得するし。


 母に泣かれると途端に気力が萎える。


 高校進学を期に切ろうかな? と企んでいたのだが、これには和哉にクギを刺された。


『その髪を切ったりしたら、その日の内に連れ戻すからな、静羅』


 真顔でクギを刺されたときには、どんな反応も返せなくて固まってしまったものである。


 ブラコンもここまでいくとちょっと怖い。


「それでよく今まで文句を言われなかったな。普通は校則違反じゃないのか、それ?」


「まあ、な」


 言葉を濁すと甲斐もそれ以上同じ話題を続けようとはしなかった。


 突っ込まれたくないことには突っ込まない。


 そういう自然な気遣いのできる奴らしい。


 実際のところ、校則違反がどうのといっても、所詮は一般人の常識。


 高樹の跡取りの和哉が一言言えば屁理屈は理屈に化けるし、非常識も常識の中に入る。


 そういう意味で兄の力で護られた環境から抜けたかったのも本当である。


『おまえの気持ちは知ってるつもりだよ、静羅。だけどオレはおまえにそういう一面のすべてを捨て去ってほしくない。忘れないでほしいんだ。だから、髪は伸ばせよ。それに似合うんだし、おまえは』


 そう言ったのは幾つの時だっただろうか。


 すべてが変わったのは、あの5歳の誕生日を迎えた後の運命の日。


 遠く懐かしく思い出すあの日。


 そこにすべての始まりがあった。





 特別室は3階にあって、一応最上階に位置することになる。


 3階は所謂特権を持つ者だけが住める階で、言ってみれば生徒会の役員や寮内の役員など、なんらかの肩書きを持つ者ばかりで構成されていた。


 その中でも開校以来一度も使われたことのない特別室というのがある。


 使われたことがないので、当然中がどうなっているのか、そういうことも生徒の興味の的だった。


 くる途中で甲斐に聞いた話によると、例年夏休みに寮に残った者たちで、この部屋の中がどうなっているのかを、寮監の目を盗んで調べる恒例の肝試しがあったのだという。


 それも今年からはできそうにないと笑っていたが。


 二部屋構造になっている問題のその部屋に入ってくると、静羅はすぐに甲斐を追い出してひとりポツンと佇んでいた。


 開けて閉めたばかりの扉に背を預けて。


「和哉の仕業だな。外観と中身が合ってないぜ、この部屋」


 中を見たがる甲斐を追い出しておいて正解だった。


 個人の荷物はあるにせよ、部屋の家具などは備え付けの物を使うのが規則なのだ。


 なのに。


 入ってすぐのところには、フランス王朝を基調にしたらしい優美な家具が、理想的に配置されていて、居心地の良さを最優先させたのがみてとれた。


 後は大きい机や寛ぐためのテーブルや椅子が配置されている。


 勉強部屋といったところだろう。


 一体いつの間にやったのやら。


 頭を抱えたくなる現実として、壁際に設置された書棚がある。


 ありとあらゆる書物が無造作に並んでいる。


 もうひとつの部屋を見ると脱力してしまった。


「おいおい。どこの高校に天蓋付きのベッドが置いてあるんだ? 和哉の奴ブラコンもここまでくると凄いぜ」


 一見すると男の子の部屋か女の子の部屋か判断に迷う。


 何故ならすべてが白で統一されていて、カーテンの類いもすべてレースである。


 天蓋だって女の子を意識させるものだし、これで男子寮だと思えと言われても難しいものがあるに違いない。


 壁にかかっている絵画に手を当てる。


 さりげなく持ち上げればスイッチがあるのが見えた。


 やはり防犯面でも意識されているらしい。


 目立つところにあるスイッチは常にひとつ。


 それだけで本当はどこにスイッチがあるのかわかるようになっている。


「まさかとは思うけど盗聴器なんて仕掛けてねえだろうな、和哉の奴」


 不安になって調べ回ってみたが、とりあえず見つからなくてホッとした。


 やることをすべて終えると急に疲れが出てくる。


 グタッとベッドに倒れ込む。


 見上げた天井はおそらくこれから馴染むだろう馴染みのない天蓋。


「さっき違和感なかっただろうな、俺? 上手く演技したつもりだけど」


 和哉の前以外であれほど上機嫌に喋ったことはない。


 相手が上杉の御曹司だったから、疑いを持たれないために、それなりに演技が必要だった。


 できれば今までのように人と関わりを持ちたくない。


 でも、これまでのように他人を拒絶して排他的で通せるだろうか。


 ちょっと不安になる。


 変わろうと思った。


 変わりたいと思った。


 いつまでも好き放題言わせたくなかった。


 独立できるのだと証明したかった。


 そしてなによりも和哉の重荷だと言われている現実から……逃げたかったのだ。


 自分ひとりくらいどうとでもなる。


 闘うことも護ることも、ひとりならそれなりにやる。


 でも、あの家にいるかぎり、そんな主張は認めてくれないのだ。


 だから……。


「ごめんな、和哉」


 自分にも隠れて他校を受験していたこと。


 もう手の打ちようがなくなってから知らされた現実に傷付いた和哉の顔が忘れられない。


 それでも重荷だなんて言われたくなかった。


 これ以上和哉を縛りたくなかった。


 悔やむこともできない。


 前を見据えて生きていくだけ。


 それだけが静羅に許されたことだった。

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