第12話 赤の他人、黄色の他人

 二月下旬。雪こそ降らないが、寒い日が続いている。

 僕はJR静岡駅北口の案内板の前で、そわそわしながら先輩が来るのを待っていた。

 現在時刻は一時半。待ち合わせの時間まで三十分もある。さすがに早く来すぎたので、ケータイにメモした今日の行動プランを再確認――駅前のショッピングモールを散策。映画。おしゃれな店でディナー。夜景スポット。

 定番の、普通のカップルがよく行きそうなところを巡る計画だ。

 僕は今日までずっと悩んでいた。先輩が行きたい場所はどこか、満足してくれることは何か。近くに昆虫博物館があるわけでもなければ、都合よく昆虫即売会が開催されているわけでもない。ここは森でも山でもない。

 悩んで悩んで悩んだ結果、僕はごく普通のプランに決めたのだった。ちなみに今日、どこで何をするかはざっくりとしか伝えていない。だから先輩は博物館に行かないと知って失望するかもしれないが、今となってはどうしようもないことだ。

 十五分くらい待っていると、先輩が現われた。北口に停車したバスから降りてきた先輩は、とても素敵だった。その場にいた人々の誰もが一瞬、視線を奪われたことだろう。

 薄ピンク色のロングコートはいつも着ている白衣のようでもあり、先輩らしさを感じた。大人っぽい革のブーツ、可愛らしいチェックのマフラー。寝ぐせのない、丸みのあるシルエットの髪。

 先輩は僕を見つけると微笑んで手を振った。僕の目には、まるで売れっ子アイドルか映画のスターが登場したかのように、先輩のところにだけスポットライトが当たって見える。こんなに素敵な女性とこれから一緒に街を歩くなんて現実とは思えない。

「おまたせ。やっぱり渡辺くんのほうが先だったね」

「いえ、なんかすみません」

 先輩はきっと気を遣って早目に来てくれたのだ。

「先輩、あの、今日は、なんていうか、すごく素敵だと思います」

 僕は心臓が高鳴ったせいか、うっかりストレートに感想を言ってしまった。

「ありがと。今日は汚い白衣を着てないからかな」

「いや、その! 普段の白衣姿がダメってわけじゃなく! あれもすごく似合っていてイイと思っていますが」

「そう? あれがいいなんて言ってくれるのは渡辺くんくらいだ」

 先輩はおかしそうに笑った。それだけで僕は幸せな気持ちになる。

「そうだ! あの白衣、渡辺くんにあげようか? 地球科だったら使うでしょ?」

「へ!?」

 ……先輩の白衣を、僕がもらう!? あれはとにかく汚いけど、先輩の汗や香りが染みこんだ、世界に一つだけの白衣なわけで……。

 本気でもらおうかどうか考えていると、先輩は「あ、ダメだ。この前、捨てちゃったんだ」と呟いた。

 僕は頭を振って、余計な妄想をかき消す。

「ところで、今日はどこに連れて行ってくれるの?」

「そのことなんですけど、普通に映画見たり食事したりで、虫っぽい場所もイベントもないんです。それでも、いいでしょうか」

「もちろん、何でも大丈夫」

 がっかりしたようには見えなかったので、僕はほっとした。

「じゃあ、行きましょう先輩」

「うんうん、行こうか。この辺に来るのって久しぶりなんだよねー」

 僕らは地下通路を通ってショッピングモールへ向かった。

 本当に夢のようだと思う。ドキドキして、ふわふわして、うずうずする。ただ並んで歩いているだけで楽しいなんて、僕はどうかしているんだ、きっと。

「前は何しに来たんですか?」

「確か研究室の飲み会だったかな。農学部のほうの」

「やっぱりどこの研究室も、そういうの、やるんですね」

「まあ、研究室の人にはいろいろ教えてもらったり手伝ってもらったりすることになるからね。機械の使い方とか道具の場所とか。他の研究室に何か借りなきゃなんないこともあるし、ホントに人間関係って大事だよ。どんな優秀な人でも必ず誰かに協力してもらわなきゃ研究はできないんだ」

 なるほど、大学というところはサークルにしろ研究室にしろ、人と人との関係によって成り立っているようだ。そいうのが苦手な僕としては、ちょっと気が重い。

「なんだか大変そうですね」

「大変だけど、そこが面白いんだよ。いろんな出会いがあるから」

 まだ今の僕では、人との出会いが面白いだなんて、心の底からは言えそうにない。だけど少なくとも先輩との出会いや、虫の輪のメンバーとの出会いは、僕にとって大切なものになった。

 僕らは雑貨屋に入って何を買うでもなく見て回った。便利な料理グッズのコーナーで足を止める。

「このザル、ずっと欲しかったんだよねー。傾けるだけで水が切れるなんて画期的じゃない?」

「先輩って普通の料理もするんですか?」

「もちろんだよ、一人暮らしなんだから。ラーメンとかスパゲッティーとかそうめんとか」

「麺類ばっかりですね」

「楽だからね」

「卒業したら、その……引っ越しとか……」

「最初は研修があるから本社のほうに行かなきゃだけど、引っ越しはしなくて済みそうかなー」

「ホントですか!?」

 嬉しい情報が聞けたので、思わず声が大きくなってしまった。

「ホントだよ。渡辺くん、私のうちに遊びに来ようとでも思ってるの?」

 先輩が冗談めかして、からかってきたので、僕はあたふたと誤魔化す。

「え? いや、あのっ! 今のところに住んでるなら、大学に近いですし、またサークルにも来てくれるのかなと」

「そうだね、行けたら行きたいなー」

 先輩が引っ越さないと判明して、僕はすべてがうまく行きそうな気がしてきた!

 だからって焦るなよ、と自分を落ち着かせつつ、話題を料理グッズに戻す。

「社会人になったら仕事で忙しいでしょうし、こういう便利グッズがあると良さそうですよね」

「あれば絶対に便利に違いないって思うんだけど、雑貨屋さんに置いてあるものって、わざわざ買い替える必要のないものばっかりじゃない?」

「そうですね、確かに」

 なんとなく眺めるのは楽しいけど、買おうと思わないのはそういうことか。

「うちのザル、あと十年くらいは壊れそうにないんだよなー。いっそザルが爆発してくれたら迷わず買い替えるのに」

「先輩のうちのザルが不憫に思えてきました」

 それから輸入食品のお店を見たりして、時間になり、ぼちぼち映画館へ移動することにした。

 映画館は人でごった返していて、ポップコーンと飲み物を買うために長い列の最後尾に並んだ。

 何を見るかは決めてあって、チケットも購入済みだ。先輩とラブストーリーを見る勇気は僕にはなかった。なんだか露骨すぎていけない。代わりに選んだのは海外の有名監督の作品で、妹を妖精に奪われた少年が妖精の世界へ行って大冒険するファンタジーである。当然昆虫好きが喜ぶような要素はない。

 なのにその映画にしたのは、僕が一番見たい映画だったからだ。僕が好きなものについて、先輩と語り合いたかったからだ。先輩ならきっと受け入れてくれるはずだから。

 ポッポコーンと飲み物を持って入場口を通った辺りで、いよいよ緊張が高まってきた。大きな扉を抜けて通路を進むとスクリーンが見えた。チケットを見ながら席を探す間も、僕の手足は震えている。

 先輩が席を発見し、並んで着席した。

 まだ明るい館内には家族連れもいればカップルもいる。僕らもカップルだと思われているのだろうか。隣のシートにいる先輩の姿を見たいと思うけれど、緊張してできない。

 これまでもサークルでの食事のとき、席が隣になったことはあるし、今日だってすでに一時間くらい二人だけで過ごしている。だけど映画館で隣のシートに座るのは、それらとは決定的に違うような気がする。先輩との物理的な距離が近すぎるからなのか、それとも映画館という非日常的な空間にいるからなのか。

 僕はスクリーンとポップコーンだけを見ていた。こんなに近い距離で隣を見ることは、ひどく不誠実な行為のように思える。いや、それよりも何よりも、とにかく緊張がすごくて、どんなタイミングなら先輩の姿を見てもいいのか分からなくて、下手にチラッと視線を送って『いま私を不埒な気持ちで見やがったな』なんて思われたらどうしよう、と考えてしまう。

「そろそろ始まるかなー」

「そうですね」

 だんだんと席が埋まっていく。

「そういえば、私」

 先輩はその先だけ内緒話をするように僕の耳元で小さく囁いた。

「大学に入ってから、映画館で映画見るの初めてだよ」

「え?」

 僕は思わず先輩のほうを向いてしまって、楽しそうな顔が近くにあることにドキリとした。子供みたいに無邪気な笑顔が、いつも僕を動揺させる。

「なんかドキドキするね」

「は、はい」

 先輩も僕と一緒にいてドキドキすることがあるのだろうか。それとも、ただ久しぶりの映画で興奮してるだけ?

 館内が暗くなり、映画の宣伝が大音量で流れ始めた。だが先輩の存在感、気配を嫌でも意識してしまう。こんな状態で映画のストーリーが頭に入るだろうか。



「アーサーがっ! アーサーがああああああっ! マジでいいお兄ちゃんだったよね。今年一番いいお兄ちゃんだったわ……」

「今年が始まってまだ二か月しか経ってないですよ」

 繁華街にある、普段なら行かないような、おしゃれなレストラン。その静かな店内に先輩の涙声が響いていた。

 先輩はエンドロールの間ずっと泣いていて、映画館からレストランまでの道のりで泣き止み、現在思い出し泣きをしているところである。他の客の視線が少々痛いが、先輩となら耐えられる。

「連れ去られた妹にアーサーがやっと謝れたところ、一番やばかったよね!? 『俺の妹は世界でお前一人だけだ』……ぐっはー!! 私も言われたい! 生き別れたお兄ちゃん、早く私を見つけて!」

「お兄さんいるんですか?」

「ただの願望」

 泣いたりニヤニヤしたりで先輩は忙しい。頬は今も少し濡れて赤らんでいるのだが、実際のところ、お涙頂戴のストーリーではなかったし、僕は全然泣かなかったのだけど、先輩の涙腺にはクリティカルヒットしたらしい。

 虫以外のことでこんなふうにはしゃいでいる先輩を見るのは初めてなので、やっぱり普通の女子大生なんだな、と思う。とにかく先輩が楽しんでくれたようで良かった。

「先輩って、きっと感受性が豊かなんですね。僕、映画で泣いたことなくて」

「歳を取ると涙もろくなるんだよ。私だって渡辺くんくらいの頃はこの程度じゃ泣かされなかったけど、今はもうダメだ。小説でも音楽でもとりあえず涙出る。渡辺くんもじきに分かるさ」

 あまり想像できないけれど、僕も映画を見て涙を流せる人になりたいなと思った。

 楽しく食事をして、僕がお会計をして、店を出た。楽しい時間はあっという間に過ぎていってしまう。

 計画では最後に夜景を見て終わりである。駅の近くのビルに展望台があって、無料で九時まで入れる。美しい夜景をバックに告白する作戦だ。

 本当は告白なんかせずに、今までみたいにみんなと過ごす素敵な時間が続いてくれればいい。だけどそれは叶わぬ願いだ。今日という日にさえ終わりはあり、あと二か月もしないうちに僕を取り巻く人間関係は大きく変化する。だから僕は僕がやるべきことを実行しなければならない。甘えて何もしないで部屋に閉じこもっているのは、もうやめたんだ。

「先輩、夜景、見ませんか」

「いいね。どこかいいところ、あるの?」

「アオイタワーに展望台があるんです」

「へえ、そんなの、できたんだね」

 僕らはアオイタワーへ向かって歩く。今日は雲がなくて綺麗な景色が見られそうだ。告白に最も相応しい場所に違いない。

 途中、道端で商品を並べて売っている人がいた。木箱に板を乗せて作った台とコルクボード。それらを照らすレトロなランプ。どうやら手作りのアクセサリーらしいが、行き交う人はチラッと見るだけで、立ち止まって手に取るような人はあまりいない。こんな寒い夜に頑張るものだ。

 僕は告白のことで頭がいっぱいだったから、よく見ないで通り過ぎようとしたけれど、先輩が僕の手をいきなりつかんで引き寄せた。

「渡辺くん、ちょっと待ったー!」

「ひぇっ!?」

 驚いて変な声が出てしまった。先輩は僕が止まるとすぐに手を放し、アクセサリーをよく見ようと腰をかがめる。

 また心拍数が上昇している。自分の手のひらに残る肌の感覚と体温とを、受け止めるのに必死だった。

 心を落ち着かせると、淡い光にキラキラと輝くアクセサリーが目に入ってきて、先輩が足を止めた理由が分かった。そのアクセサリーは、どれも昆虫をモチーフにしていたのだ。定番のチョウだけでなく、テントウムシ、ハチ、クワガタ、カミキリムシ、バッタ、クモなど、けっこうバリエーションがある。金属製で、足の一本一本までリアルに作ってあるけれど、埋め込まれたカラフルな宝石が本物らしさをうまく打ち消していて、気持ち悪くない。

 先輩は興味津々で瞳を輝かせている。イヤリング、ネックレス、ブローチ、他にもいろいろ。

「どうぞ、触ってみてください。どれも一品ものです」しゃれた帽子の女性店主が促した。

「はい! 触ります!」

 先輩は遠慮せず宝石の虫を手に取って、光の当たる角度を変えて色合いの変化を楽しんでいる。

「これ、可愛いよねー」

「はい、いいと思います」

 はしゃぐ先輩の横顔は宝石よりもキラキラしていた。

「先輩ってこういうの、付けるんですか」

「全然なんだけど、これだったらちょっと付けてみたいかなーって」

「きっと似合うと思いますよ」

「そうかなー」

「ぜひ付けてみてください。カレシさんも、見てみたいでしょ?」

 店主の一言で僕は顔が熱くなり、挙動不審になってしまう。

「い、いや、その、カレシ、というわけでは……」

「ねえユーイチさん、どう?」

 ノリのいい先輩がコートの襟にブローチを合わせて、甘えるような顔をした。僕をからかっている!?

 僕はもう心臓発作でも起こしそうになり、まともに先輩の顔を見ることもできず、小さな声で「いいと思います」と答えた。……なんて破壊力だ! 先輩と恋人になれば、毎日こんな顔が見られるのかな……。

 その後、先輩は僕や店主の意見を聞きながら、迷って迷ってクモのブローチを一つ選んで買った。「僕が払います」と言うべきかもしれないと思ったけれど、実際は彼氏でもないのにそんなことを言うのはおかしいような気もして、最後まで言い出せなかった。

 自分のヘタレっぷりに落ち込む。

「渡辺くん、どうしたの?」

 先輩のコートの襟にはクモが銀色の足を広げている。

「いえ、何でもないです。ところで、無難なチョウとかじゃなくて、クモを選ぶところが先輩らしいですね」

「私と渡辺くんを巡り合わせてくれたのがクモだったからね。これを選ぶのが正解の気がした」

 それを聞いたとき、僕は言葉を失くした。

「ありゃ? アシダカグモじゃなかったっけ? もしかして違った? 私、記憶喪失!?」

「い、いえ! 違わないです!」

 先輩が僕との出会いを覚えていてくれたことがすごく嬉しかった。

「それにどっかの少数民族の飾りで、ドリームキャッチャーってあるでしょ? あれもクモだよね。クモがいつもくっついてたら、幸運とかチャンスとかを捕まえてくれそうな気がしない?」

「はい、そんな気がします」

 実際僕はよく分からなかったけど、先輩のポジティブシンキングに乗っかってみたら、本当にいいことがありそうな気がしてくる。

 ……よし、告白するぞ!

 僕らは今度こそアオイタワーに到着した。一階入り口の自動ドアを抜けるとロビーに受付があった。

「申し訳ありませんが、展望台への入場は四十分までになっておりまして」

 受付のお姉さんにお断りされて、致命的なミスに気付く。展望台はまだ閉まっていなかったが、入場受付は終わってしまっていたのだ。

 お姉さんにしつこく頭を下げたら入れてもらえるだろうか。いや、告白前にそんなカッコ悪いこと、できるわけがない……。

 仕方なくアオイタワーを出ると、二月の冷たい空気が一段と冷たく身に染みた。

「先輩、すみません。時間の確認をしてませんでした」

「私のほうこそごめん。ブローチなんて見てたから」

「いえ、先輩は全然悪くないです。無駄に歩かせてしまって本当にすみません」

 展望台で綺麗な夜景をバックにして告白するのは、もう無理なのか?

「どうする? 仕方ないから帰る?」

 まずい。告白せずに解散するのだけはダメだ。僕は決意して今日、ここに来たのだから。

「ええと……そうだ! 他に夜景が見られそうなところがないか、調べてみます」

 僕はケータイでとにかく告白に良さそうなスポットを検索することにした。

 星が丘公園の展望台! ……バスで四十分もかかる。ダメだ、遠すぎ。

 駅ビルの最上階なら! ……現在改装工事中。

 市役所にも展望塔がある! ……でも観覧時間がもう終わってる。

「ちょっとあったかいコーヒー買ってくるね」

 先輩が通りに見えるコンビニを指差した。

「そうですよね、ここじゃ寒いですよね」

 僕らはいったんコンビニへ移動した。

 僕はなんて気が利かないのだろう。こんな冬の夜に外で立たされるのは、ただの苦行だ。一刻も早く告白スポットを決めなければ……!

 WEBページが開くまでの時間がじれったくてイライラする。

 先輩をこれ以上待たせるのはどうかと思うし、こうなったら夜景はもう諦めるしかない……。

 夜景だけにこだわるのをやめたら、良さそうな場所がすぐに見つかった。青葉通りのイルミネーション。徒歩十分以内。ここならロマンチックな雰囲気が味わえる!

 コンビニの前でホットコーヒーを飲んでいる先輩に「イルミネーションを見に行きましょう! 青葉通りです」と誘ったら、「お、近いね。オッケー、行こう」と嫌な顔せず付き合ってくれた。

 青葉通りが近づくにつれ、僕の心臓の音は大きくなっていく。ちゃんと告白できるのか。いや、できるかどうかじゃなくて、やらなくちゃ……!

 青葉通りがもうすぐ見えてくる。

「あれ……?」

 街灯の弱々しい光、街路樹の黒いシルエット、営業中の居酒屋ののれん。

 確かにここが青葉通りのはずなのに、イルミネーションなんて一つもない。

「ここが……青葉通りですよね」

「そうだね。なんにもないけど」

 近くにそれらしいものは見えない。ケータイでもう一度確認すると、イルミネーションが見られたのは先週までだと分かった。僕は急いで告白スポットを見つけようとするあまり、開催期間を見落としていたのだった。

「す、すみません」

 自分のバカさ加減に嫌気がした。

 どうしてこうなったのか分からない。途中まで順調だったのに。

 先輩は「気にしないで」と言った。「そういう日もあるよ」

 確かに人生には、うまくいかない日があってもいいかもしれない。……今日でさえなければ。

「次は、ちゃんと調べるので」

 本当はもう全部ダメになったという気持ちだった。検索ワードを打ち込む指が動かない。白い息と、冷え切った手。

 もう帰りのバスの時間を調べたほうがいいのではないかと思えた。そうすれば傷口をこれ以上広げないで済む。それとも懲りずに次の行き先を調べるか。ミスを帳消しにするような何かが見つかるとは思えないが……。

「ちょっとお手洗いに行ってくるね」

 すぐ近くに公衆トイレがあり、先輩が近づくとパッと自動で明かりが灯った。先輩は僕が迷っているのを見て、気を遣って考える時間を与えてくれたのかもしれない。

 先輩が戻るまでに、行き先を決めなければ。時間は多くない。すぐに決断しないと。

 僕は最後まで粘ることにした。ここは駅周辺エリアだぞ? 告白に相応しい場所が必ずどこかにあるはずだ。このまま終わるわけにはいかない。

 もう手段は選んでいられないので、通話履歴を開いて、こんな時に一番頼れる名前をタップした。

「もしもし、斎藤さん! 今、駅北の青葉通りにいるんですけど、時間がないんです。近くに告白スポットないですか。それっぽい場所なら何でもいいですから」

『何かと思えば……おまえ、今デート中なんだな?』

「はい。すみません。もう僕だけじゃダメなんです。助けてください……。お願いします」

『事情は知らんが分かった。駅から真っ直ぐ来た道、分かるか?』

「分かります」

『それと青葉通りがぶつかる角に、海鮮居酒屋が見えるか?』

「ちょっと待ってください。今から行きます」

 ケータイを握りしめて走り、一分もしないでその海鮮居酒屋の前に辿り着いた。

「今、その前にいます。営業中です」

『居酒屋の向かいにバーがある』

「ええと、でも、シャッターが……」

『二階だ』

「あっ! 明かりがついてます」

『そこがバーになってる。看板はないが登ってく階段があるだろ? 落ち着いた大人の雰囲気だ』

「僕、お酒はまだ……」

『コーラでも頼んどけ。考えるな、まずは行動しろ』

「わ、分かりました。ありがとうございます!」

 僕は急いで公衆トイレの前に戻った。

「先輩!」

 だが僕の声は無人の通りに消えていく。もうトイレから出てきてもいいだろうに。一分、二分と待ってみたが、先輩は出てこない。それどころか、女子トイレの電気が自動で消えてしまった。つまり中に先輩はいないのだ。

「そんな……」

 不安が突風のように僕を襲った。先輩がいない。通行人さえ一人も。僕は周辺を走り回った。のどと肺がキリキリと痛んでも休まずに走って先輩を探した。一番近いコンビニで二杯目のコーヒーを飲んでいるのかも? 探してみたけれど、やはり先輩の姿は見えない……。

 そうだ、電話すればいいじゃないか。

 僕はケータイを取り出して、先輩とのLINEを開いて、通話ボタンを押そうとしたところで手を止めた。こんな想像が頭をよぎる。――先輩はトイレから出てきて、僕がいないことに気づいた。寒い中を無駄に歩かされ、こんな場所で放置されたと知って、呆れて帰ってしまったのだ……。

 いや、そんなことは……。

 青葉通りの真ん中でうなだれる。冷たいアスファルト、捨てられたタバコの吸い殻、闇。

 僕は最低だ。大好きな相手をほったらかしにするなんて。一番やってはいけないことをしてしまったのだ。先輩はトイレから出てきて、僕がいないと気づいて、どんな気持ちになっただろう? 驚き、失望、怒り、悲しみ……。

 ぽつりとアスファルトに丸いシミを作ったのは、自分の涙だった。いや、たぶん泣きたいのは先輩のほうだろうが、とにかく僕は自分が情けなくて、先輩に申し訳なくて、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。涙は手の甲で拭っても拭っても、次々とあふれてくる。

 先輩と出会ってからのことが走馬灯のように僕の脳裏をよぎった。斎藤さん、石橋さん、須藤教授、凜ちゃんのことまで、急にいろいろなことを思い出した。思い出すほど涙は流れる。

 どうしてもっと賢明で無難な判断をしなかったんだろう。僕が先輩のことを一番に考えて、早く「駅に戻りましょう」と言っていたら、こんなことにはならなかったのに。そもそも卒業してしまう先輩と最後にデートしてもらおうだなんて考えが、間違っていたのではないか。僕みたいな、同級生としゃべるだけで苦労しているような人間が、ミスコンに出るような相手を誘うべきじゃなかった。同じサークルにいて時々会話をしたり、一緒に食事をしてもらえるだけで、満足していればよかったのだ。

 それなのに僕は、欲張ってしまった。

 欲張りたくなってしまった。

 僕の中に芽生え、育ってしまった特別な感情を、無視することはできなくなっていたから。

 ……痛い。

 大切な人がいなくなることが、こんなに痛いなんて、知らなかった。

 息が苦しくて、左手を膝に突いて、右手で上着の胸の辺りを強く握りしめて、目を硬くつむって、激流のような感情が通り過ぎて気持ちが落ち着くのを待つ。

 光も音も消えた。

 どのくらいの時間が経ったか分からないけど、ゆっくりと呼吸ができるようになった。

 立ち上がって、もう一度LINEの画面を開き、通話ボタンを押す。

 誰かのケータイが振動する音が聞こえて、振り返った。

「渡辺くん、大丈夫?」

 心配そうな先輩の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめていた。と思えば先輩はカバンからケータイを出して、僕からの着信を見て、また仕舞った。

「ごめん、電話してくれたんだね」

 僕は通話を切った。

「先輩、今まで、どこに」

「テントウムシ」

 ……意味が分からない。

「こっちだよ。動ける?」

 僕はうなずいた。

 先輩はトイレのほうに向かっていく。だがトイレに入るのではなく、側面を回って裏へ。外壁と植え込みの間の、先輩が指差す場所には、誰が何のために置いたのか、板切れが立てかけてあった。

「もっと前」

 先輩に言われて、狭いスペースに入っていく。なんでトイレの裏のこんな場所に? もしかしてここにいたの? 気付くわけないよ……。

 先輩はまるで秘密基地に案内する子供みたいに、僕が驚くのを期待しているような顔だった。

「しゃがんで。よく見て、渡辺くん」

 言う通りにすると、先輩がスマホのライトで板切れを照らした。

「ちょっとごめんねー」

 後ろに立った先輩が、片手を僕の肩に置き、もう一方の腕を僕の顔の横から板切れに伸ばした。距離が近い。背中に先輩の柔らかさを感じる。

 先輩の手が、そっと板を動かすと――。

「うわぁッ!?」

 僕は情けない悲鳴をあげて尻餅を突いた。

 板の裏には大量のテントウムシが貼り付いていた。十匹とか二十匹とかではなく、百匹以上が隙間なく身を寄せ合っているのだ。赤、橙、黄色。点の数や模様はバラバラだ。ちょっとけばけばしいというか、グロテスク。不気味だ……。

「はははは。渡辺くん、いい反応」

 先輩が得意げに笑う。

「な、なんですかこれ」

「ナミテントウだよ」

「いろいろいますけど」

「全部ナミテントウ」

「いやいや、これ明らかに模様が違いますけど。こいつとか」

 僕は橙の体に黒い小さな点――星がたくさんある、特徴的な一匹を指差した。

 先輩はかがんでいる僕にくっつくくらい密着して立ち、僕に覆いかぶさるように身を乗り出す。

「それもナミテントウ」

「この黒いのは」

 黒地に大きな赤い星が二つだけあるのを指差した。

「うん、それもナミテントウ」

「僕をからかってます?」

「本当のことだよ」

 真っ赤な体をしているのもいるし、星の数が二つだったり四つだったり、もっと多かったりする。星と星が繋がっているような模様もある。要するに色も模様もかなりの種類があるのだ。

「ナミテントウの模様は二百種類あるとか言われてるからね」

「二百!? マジですか」

「マジだよ。何か悲しいことでもあったの?」

 僕は先輩にまた気を遣われたのだと分かった。

「ええ……まあ、ちょっと」

 とてもじゃないが恥ずかしくて「先輩が一人で帰ってしまったと思って泣いていた」とは言えなかった。こんな近くにいたなら、恥を忍んで大声で呼べばよかったよ……。デート中に泣くなんて、ダサずぎる……。

 僕は話をそらそうと思って、ナミテントウたちに顔を向けた。

「これも食べるんですか?」

「いやー。羽は硬いし味もちょっとねー」

「食べたことはあるんですね。それにしても大家族ですね」

「家族じゃないよ。赤の他人同士」

「こんなにカラフルなのに」

「そうだね」

 先輩がくすりと笑った。

「一匹なら可愛いと思えるんですが、さすがにこれは生理的にきついと言いますか……」

「まあ、分かるよその気持ち。だけどこうして集まってるのを見ると、なんだか私たちと似てる気がしない? 家族でもない他人同士、たまたま出会ったもの同士が身を寄せ合って冬を耐える。暖かくなったら、みんなそれぞれの場所に飛び立っていく」

「そうですね。僕らと同じです」

「虫の輪は、昆虫料理の研究と普及のために作った。その名前には、昆虫食を通じて、人と人が手を取り合って大きな輪ができたらいいな、誰かの居場所になればいいな、って願いも込めてあるんだ。他のみんなにも、話したことないけど」

「じゃあ僕も、先輩も、その輪の一部ですね」

「その通りだよ」

 先輩はそっと板を元に戻し、スマホのライトを消した。

 冬が終わって春になったら、別れが待っている。

 今、こうして一緒にいられることが奇跡なのかもしれない。

 だからどうしても、今、この気持ちを伝えなければならないんだ。

 たとえそこが、公衆トイレの裏の、この世で最も告白に相応しくない場所だったとしても。

「先輩、こんなところで、こんな体勢で恐縮なんですけど」

「うん」

「僕、先輩のことが、好きです」

 胸の中で張り詰めていたものが緩んでいく。……言えた。やっと言えた。

 充足感と不安と恥ずかしさ。後はどうとでもなれ、という投げやりな感じもある。

 すぐ後ろにいる先輩の表情は、僕からは見えない。こんなに近くにいるのに、相手の顔を見ないで告白するなんて、論外かもしれない。でもこれが僕の精一杯だ。

「渡辺くん、それはつまり、どういうこと?」

「どうって……」自分の顔が熱を発している。「つまりその、女性として、好きだということです。こ、恋人に、なりたいという意味です」

 先輩がどんな表情をしているのか、見るのが怖い。振り向けばすぐそこにいるけれど。

「僕みたいな男は、先輩と釣り合わないって思います。先輩は僕みたいな人間からしたらすごい人で、はっきりとした『自分』を持っていて、僕みたいに、何が好きかも答えられないようなことはないし、周りに流されないし、真っ直ぐだし……」

「渡辺くん、ごめん」

 先輩の静かに諭すような声が、僕の冗長な話をさえぎった。

「私は君が思うほど『自分』を持ってるわけじゃないと思うよ」

「え? でも先輩は森が好きで、虫が好きで、他にも好きなものがたくさんあって、僕なんかとは……」

「あのね」先輩は優しく続けた。「たぶんそう違わないよ。ううん、そうであってほしい、かな。私、昔から周りと自分って、すっごいズレてるなーとは思ってたんだけど、気にしないように生きてきた。好き勝手にやってきた。でもこの歳になって、就活やってるうちに、今までの私じゃ全然ダメだって分かった。なんとかして今までの自分を出さないように、出さないようにって頑張ったら、自分が何なのか分からなくなってきて。自分を隠すほど、うまくいく、評価されるっていう感触があるの。私ってなんなんだろうって思うよ。いろいろ妥協して内定はもらったけど、なんか素直に喜べなかった。むしろ私を隠したまま内定をもらってしまったことが、不安で仕方なかった。虫の輪は、私の唯一の居場所だもの、そこから出ていくのは怖い。いつの間にか、変な考えにも取りつかれた。人類がいなくなればいいとか、未曽有の大災害が起こって誰にもどうにもできなくなれとか、この街が消えちゃえばいいとか。何も考えないで寝ている時間、ご飯を食べている時間、お風呂に入っている時間が、すごく幸せに思えて、それがずっと続けばいいって思ってた」

 あ、でも、今は少し落ち着いたけど、と先輩は付け加えた。

「あの日も……私が石橋くんの部屋でバカなことした日も……不安でたまらなくて、私のことを一番知ってるのは、四年も付き合いがある斎藤くんだって思ったら、なんとしても斎藤くんをそばに繋ぎとめなきゃ、そうしないともっと自分が分からなくなるって思って、あんなことをしたんだと思う。斎藤くんにとっては、いい迷惑だよね」

 先輩のような人でさえ、『自分が何者なのか分からない』と言う。僕の中の先輩ははっきりとした輪郭を持っているのに、先輩から見た先輩は、そうではないと言うのか。

 じゃあ、僕が見ていた先輩は、何者なのか?

 恐らく多かれ少なかれ、誰もが『自分』を探している。新しい自分。自分が知らない自分。理想的な自分。先輩もその一人だったということ。僕もその一人だ。考えてみれば、当たり前のことなのだろう。完璧に見える人も、悩みなどなさそうな人も、やはり凡人と同じで、何かしらの悩みや苦しみを抱えている。それだけのこと。

「僕は高校のとき、ネトゲ中毒者でした。友だちなんていませんでした。学校は毎日が退屈で、自分が嫌いでした。だからこの大学に来る前に『自分』を捨てました。そして理想のキャンパスライフを過ごすって決めたんです。でも最近、気づいたんです。本当に嫌いだったのは――捨てたかったのは、ネトゲ中毒者の僕じゃなくて、理想に向かって努力しない、臆病な僕なんです。どうしたらいいか知っていたのに、何もしないで後悔ばかりしていた僕なんです。だから僕は後悔しないために、先輩に告白しました」

 本当はこんなことを打ち明けるつもりはなかったけど、話したくなったのだ。先輩に、僕のダメなところを知ってもらいたくなった。それで何がどうなるわけでもないけれど。

「そっか。渡辺くんは立派だと思うよ。しっかりと考えて、しっかりと行動した」

 先輩に誉められてまた涙が出そうだったけれど、こらえる。

「それに比べて、私はかっこ悪いね。自分が何者か分からないなんて、ありふれた悩みだよね。みんなうまく折り合いをつけて対処してるだろうに、私はあんなことをやらかして、バカみたい。ホント、恥ずかしい。ありえないよ。だいぶ落ちこんだ」

 先輩の大きなため息。

「どっちの私も私だって言えるように頑張るしかないね」

「はい。先輩は自分の欲望に対して妥協したりしません。先輩はマダゴキの卵を何度断られてもしつこく、ずうずうしくねだる人です。先輩は、黒毛和牛が食べられなくて、いつまでもふて腐れる人です。先輩は、自分が分からなくて不安になって、自分を一番よく知ってる相手に告白までしちゃう、とんでもない人です」

「はははは、そうかそうか」

「全部先輩です。僕が見てきた先輩です」

「うん、きっとそうだ」

 その言葉は、紅茶に溶けていく砂糖のように、僕らの中に溶けていった。

「渡辺くん、立って。こっち見て」

 恐る恐る言う通りにすると、先輩と至近距離で向かい合うことになった。濃い闇の中で、いつもの先輩が申し訳なさそうに微笑んでいる。

「嬉しいよ。すごく嬉しい。でも、渡辺くんのことがイヤだとか、男として見てないとか、そういうわけじゃ決してないんだけど、この時期に彼氏作るのは難しいのかなって思う。たぶんすぐに忙しくなって、君をほったらかすことになっちゃう。それは申し訳なさすぎる。だからごめんね、渡辺くん」

 ――フラれた。

 だけど大丈夫だ。予想はしていたから。今から本当の告白が始まる。本当の気持ちを先輩に伝えるために。

「先輩、今から僕のプランを聴いてください」

「プラン……?」

「そうです。驚かないで聴いてください」

 僕は息を吸って吐いて、もう一つの覚悟を決めた。考えるな、行動しろ……!

「先輩はすぐに社会人になりますが、僕は学生のままです。僕、先輩のために、料理もするし、掃除も洗濯も買い物も、家事は全部します! 先輩が仕事から疲れて帰ってきたら、部屋は綺麗に片づけて、先輩の好きな料理を作って、お風呂も沸かして待ってます! 料理スキルはちょっとずつ上がってるんで心配ないです! とにかくめんどくさいことは先輩が何一つやらなくていいようにします! 先輩は仕事から帰ってきたらダラダラしてください! 社会人の先輩は時間がなくてできないことがたくさんあるけど、学生の僕には時間だけはあるから。それに仕事の愚痴だって何時間でも聴きます! そうだ、朝ご飯だって作ります! 最高においしいコーヒーを毎朝淹れます。虫が食べたいって言われたら、頑張って捕まえに行きます! あと……仕事の送り迎えもできます! 僕、実は免許の教習に通ってるんです! バイト代貯めれば中古車くらいならきっと買えます! 休みの日に行きたいところがあったら、僕が運転します! 先輩はいつも助手席で座っているだけでいい! 全部、全部……先輩が仕事に集中できるように! 会社で昇進できるように! 趣味に時間が使えるように! 人生が少しでも素敵になるように! 虫の輪の活動が続けられるように! この国でもっと虫食いの文化が受け入れられるように! そのくらい、僕は先輩が好きなんです! だから、一緒にいてください! ご検討、お願いします!」

 つっかえつっかえだけど、言葉に力を込めて語った。考えずに言葉が口から出るのに任せてしゃべり続けたので、息が苦しいし、途中から何を言っていたか定かではない。愚かなことを口走った可能性もある。それでも構わない。

 僕の再告白を聞いた先輩は……ぽかんとしていた。

「ぷははははっ! 何それっ!? なんなの!?」先輩が腹を抱えて爆笑している……。「渡辺くん、家来か奴隷みたいじゃん!? ていうか、それってもう夫婦かよ!? 同棲前提!?」

「ま、まあ、確かに家来みたいですが……」

 先輩はヒイヒイ言いながら、やっと笑いをおさめた。人差し指で目尻の涙をぬぐっている。

「社会人になる先輩に、僕ができるのは、そのくらいのことなので……」

「君、私が好きな料理、知ってるっけ? 虫料理じゃなくて」

「すみません、知りません」

「ローメン」

「ラーメン?」

「いや、ローメンっていうの。長野の料理」

「それも絶対にマスターします!」

 先輩は嬉しそうに笑って、「じゃあ、一度本場を食べてみないとね」と、右手を差し出す。

 僕はその手の意味が分からなくて、先輩の顔を見た。

「あ、あの、これって……」

「握って?」

 ちょっと恥ずかしそうな先輩の微笑み。現実感が伴わないまま、僕は震える手で、先輩の手を握った。あの日、初めて先輩と出会って、虫の輪に入会したときのように。だけど今度は、僕の方から先輩の手を握ったんだ。

「そこまで言うなら、付き合おう? ホントに私なんかでいい?」

 そのセリフを聞いた瞬間は、僕はぽかんとしていたけど、だんだんと理解できてきて、喜びが体中にあふれた。

「は、はい!」

 ああ、これは夢じゃないんだ。いや、夢かも。握っていた手を放した後も、体も心もふわふわして、やっぱりまだ現実感がない。

「なんだか変な感じ」

「僕もです」

「私たち、恋人?」

「そうですよね? そういう理解で合ってますよね?」

「うん。合ってると思う」

「僕、嬉しいです」

「私も」

 嬉しいのだけど、嬉しさが大きすぎて、うまく受け止められないんだ。

「そろそろ帰りませんか」

「そうだね。帰ろうか」

 僕らは並んで歩いた。歩いたことがある道なのに、初めて歩く道のように感じる。

「渡辺くんに言われて思い出したけど」

 帰りのバスを待っているとき、先輩が言った。

「マダゴキの卵のこと忘れるくらい忙しかったみたい。秋にみんなの前でおねだりしたのが最後かな」

「先輩もマダゴキを育てたいんですか?」

「私は育てるのは趣味じゃないよ。たらこ、いくら、数の子、キャビア……卵のおいしさは自明だから」

「ゴキブリの卵を同列にしないでください。それ全部魚類ですから」

「まあまあ。きっとあれは珍味だよ。私のカンが言ってるもん。あー、食べてから卒業したい! 斎藤くん、くれないかなー。もらったら渡辺くんにもちょっとあげるね」

「か、考えておきます……」

 お腹の中でGが大量に生まれてきそうで怖い。

 でも、これが僕の好きになった人なのだ。

 美人ではあるけど、あえて選びたくはないと評される、虫食い女子大生。

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