冬の章

第9話 鳴かぬ蛍が身を焦がす

 大学のそばの定食屋『天七(てんしち)』は、夕方は満席で入れないことも多い。学生相手の店だけあって安さとボリュームに特化しているが、一度食べたら忘れられない味も僕らを魅了してやまない。丼ぶりや定食についてくる味噌汁にはうどんが入っており、それが密かなお気に入りだ。

「天丼大盛りです」

 店員の若いお姉さんが斎藤さんの前にずっしりと重い丼ぶりを置いた。僕は知っている。この店で生半可な気持ちで大盛りを注文してはいけないということを。冷やかしは死を見るのである。

「カレーライス並です」

 石橋さんの前には、独特の白みがかったカレーが置かれる。それはまるで富士山から溶岩があふれ出るかのような威容をしていた。真っ赤な福神漬けの量にも妥協はない。

「カツ丼の小です」

 僕の前には丼ぶりと味噌汁、漬け物が並ぶ。なぜ『小』の丼ぶりにもかかわらず、フタが閉まらないのか。なぜ卵に包まれたカツが丼ぶりからはみ出してお盆に落ちそうになっているのかは、あえてお店の人には聞くべきではない。『小』と言ったら『小』。それがここでの真理である。

「いただきます」

 僕ら三人は唱和して、うまそうな晩飯に食らいつく。カツが邪魔で白飯が食えない。カツよ、どいてくれ!

「作戦は、まあこれでいい。ここしばらくあいつは大人しいから、事は問題なく運ぶだろう。マダゴキの卵も要求してこんしな」

「この前のクレクレはひどかったですね……」

「毎月一回はクレクレ言ってたからな、あいつは。代表やめてっからはパタリと要求されなくなって拍子抜けするくらいだ。まあ猪俣も最近はあんまり余裕ないんだろう」

 先輩はマダゴキの卵がよほど欲しかったのだろうけど、手に入れたら育てるのか? 食べるのか? いずれにせよ、欲しいものを我慢して大人しくしている先輩というのは、なんだか先輩らしくない。

「あの、一つ不安なことがあるんですが」

 僕は控えめに手を挙げた。

「なんだ?」

「作戦を考えてもらった後で今更なんですが、そもそもこんな卒業間近のタイミングで告白して、迷惑にならないんでしょうか? 仮に……仮にですよ? 告白してOKだったとして、先輩はすぐ社会人になるのに、僕は学生のままで。男が社会人で、女が学生のパターンは、たまに聞きますが……」

「なんだ、そんなことか」

 斎藤さんはご飯粒を口の周りに付けたまま、大したことないという口ぶりで言う。

「だが、いい着眼点だ。不安になるのも分かる」

 僕はまだ、社会人になるということについて充分に理解しているとは言えない。想像では、とにかく大変なイメージが付きまとっている。ブラック企業とかサービス残業とかいう言葉は知っているし、お得意先にへこへこと頭を下げたり、理不尽なクレームで鬱になったり、行きたくないのに上司と飲み会に行かされるなんて話もよく聞く。身を粉にして働いても給料は上がらず、いつも睡眠不足で、たまの休みに寝だめして、亡霊のように会社と自宅を往復する日々。……それは偏った見方なのだろうか?

 先輩の就職先がそこまでひどくなかったとしても、働き始めたら学生の僕なんて邪魔なだけになるかもしれない。それに先輩は収入ができるけど、僕は仕送りとバイト代だけだし、学生と社会人じゃ背負っている責任も違うし、これでは付き合うことができたとしても、先輩のお荷物になってしまわないか。

「僕には明るい未来が見えないんです。社会人の先輩と、学生の僕。逆なら分かるんですが」

「まあ、実際、告白が成功したら、おまえはヒモみたいになる可能性もあるわけだが」

「それじゃ、まずいですよね。僕も就職すれば対等になれるのかなって思うんですが……」

「いや、おまえは学生のままでいい」

 意外にも斎藤さんは、そんなふうに断言した。

「いいか? 社会人ってのは金がある。金があるってことは、親から独立できる。つまり責任が伴う代わりに、何でも自分で決められる自由を得るわけだ。学生のときとはケタ違いの自由だ」

「仕送りがなくても平気なら、親の言うことを聞かなくても大丈夫ってことですね」

「そうだ。そんな自由を手にする社会人だが、あるものが圧倒的に不足している。なんだと思う?」

「……分かりません」

「それは時間だ。社会人は金を稼いでも使う暇がねえんだ。それに金を使うのは案外面倒だ。飲みに行ってパーッと使おうと思っても、どの店に行くか、誰と行くか、ちょうどいい仲間を見つけるのは大変だ。旅行に行くったって、誰と行くか、何を見て、どこに泊まるか、どうやっていくか、いちいち調べる時間もない。調べ始めれば、どこが一番安いとか、効率の良い回り方だとか、キリがなくて、調べているうちに疲れ果てて、もう行くのはやめようと思う。日常生活でもこういう面倒は絶えない。シャワーを浴びればシャンプーがなくなりそうだと気づくが、買いに行く時間も気力もない。通勤途中にコンビニで買えばいいと思うが、それすら忘れるし、覚えておくのもエネルギーが要る。シャンプーのことより、その日のスケジュールや上司への報告書のことで頭が埋め尽くされる。洗濯をするのだって、平日の昼間は無理だし、帰りが深夜になれば洗濯機を回すのも気が引ける。職場じゃ忙しくて昼飯を食うのも忘れて、帰宅してから料理をする元気もなく、カップラーメンとビールに落ち着く。部屋が汚くても、いつか掃除しなきゃと思うだけ。貴重な休日に掃除なんてやりたくない。とにかく働いてると、あらゆることが面倒、億劫になるんだ。すべての本質的な原因は、時間の足りなさだ」

 まるで体験してきたかのような説得力だ。この人、ホントに何者なのか……。

「先輩がそんな状況になってしまったら、それこそ、僕と過ごす時間なんて、取れないですよね……」

 がっくりと肩を落とす。しかし斎藤さんはそんな僕の肩をたたいた。

「そうじゃない。俺は、これがおまえの勝機になると考えている」

 勝機? 僕は何も分かっていないが、石橋さんは腕を組んで、うんうんと頷いていた。

「でも、時間は誰にとっても24時間ですよ。それ以上増やせません」

「それは正しい。だが時間は増やせなくても作ることができる。賢いヤツはそうやって生きている。おまえが猪俣にとって、ただのお荷物になるか、救いの女神になるかは、おまえ次第だ。学生ってのは、社会人と逆で、金はないが時間はあるからな」

 斎藤さんは意味深なアドバイスを残して、丼ぶりに顔をうずめる。僕はどうしたら先輩のお荷物にならずに済むか、一生懸命、頭を巡らせたけど、いい考えは浮かばなかった。

 やがて石橋さんが完食し、斎藤さんが完食し、僕が完食した。これだけ食っても腹を壊さないなんて、二人とも尊敬に値する。別々にお会計をして店を出た。

「さすがに寒くなったな」

 暦は師走。天七の前の狭くて暗い道を、学生たちを乗せたバスがノロノロと通り過ぎていく。

「いいか渡辺。最終確認だ。このチャンスを逃すとタイムリミット的に厳しいことを自覚しろ。どこの企業も入社前から研修をやりたがるし、卒論は二月に発表だ。年明けてからは遊ぶ余裕は完全になくなる。勝負に出るならここしかない」

「……はい」

 僕は真剣に斎藤さんの言葉に耳を傾け、うなずいた。

「二次会の会場は、居酒屋からの距離の関係で、必然的に石橋のうちに決まる。おまえと猪俣が買い出し要因になるところまでは、サポートしてやる。だがその先は自力でなんとかしろ。いい雰囲気になったら買い出しなんてすっぽかしてかまわん。二人でどこへでも行け!」

「斎藤さん……」

 なんと頼もしいことだろうか。こんな強力なサポートがあったのに、先輩との仲がなかなか進展しないのは、ひとえに僕の怠慢である。

「いざとなったら、マニュアルよりもフィーリングっすよ。その場その場が一番大事っす。でも事前準備は絶対おろそかにしないこと。虫の話題は下手するとムードぶち壊すことになるので、避けるのが無難っすかね」

「石橋さん……。肝に銘じます」

「結果が成功だろうが失敗だろうが、何もやらなかったよりはずっといい気分でいられるだろうさ。がんばれよ」

 最後に斎藤さんに励まされ、僕は二人に感謝を述べて別れた。

 もうすぐその日がやってくる。クリスマスパーティー兼、忘年会という、一年のうち最大のイベントが――。



 十二月二十三日、土曜日。夕方。

 冬休み初日の今日、中華『朱雀』にて、虫の輪のクリスマス会&忘年会が執りおこなわれた。新代表である石橋さんの開会宣言で始まったこのイベントは、最初の一時間はまだ良かった。しかし古代ギリシャの偉人は言ったそうだ。『酒とは人間を映し出す鏡である』と。またある日本人は言ったそうだ。『酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ』と。

 僕は最初、石橋さんと須藤教授の間に座って和やかに会話していたはずなのだが、いつの間にか両サイドが先輩と斎藤さんに入れ替わって、舌戦に巻き込まれていた。

「渡辺くん、今日も集中講義受けてきたんだって? 今から頑張りすぎると、体も心ももたないよ! やめなよ!」

「はい、そうですよね。休むことも大切ですよね……」

「いいや、渡辺はむしろ全講義に出ろ。己の道を決めるには、勉強するしかねえんだ。迷ったら勉強するしかねえんだよ!」

「はい、今は、そんな時期かなとも、思います……」

「そんなのダメ!」先輩は身を乗り出して斎藤さんの前の枝豆をグワッとにぎり、ザザッと持っていった。「渡辺くん、もっと遊びなよ! いま遊ばないでいつ遊ぶの? 渡辺くんって徹夜で友だちとバカ騒ぎしたことないでしょ? 私には分かるよ、君はそういうタイプだって」

「はい、したことないです。そもそも友だちがあまりいないもので……」

「おい猪俣、渡辺に変なことを教えるな!」今度は斎藤さんが仕返しに、先輩が大事にとっておいた唐揚げを素手でかっさらっていった。「こいつが落第したらおまえの責任だぞ。どうすんだ?」

「いいよ私が責任取るよ!」先輩の長い腕が伸びて、斎藤さんの前にあった酢豚を皿ごと奪い取った。「そのかわり渡辺くんはもっと遊ぶこと! 私だって気分が乗らないときは、よくサボってたよ」

「偉そうに言うな!」斎藤さんが酢豚の皿をひっつかみ、空中で引っ張り合いになる。「あと先輩が後輩に、講義サボること推奨するんじゃねえ!」

「サボって何が悪いの! どの講義も欠席が二回まで許されるのは何のため? サボって青春を謳歌するためでしょ?」

「体調不良とか葬式のために決まってんだろが!」

「ねえ渡辺くん、代返(だいへん)って知ってる? 知らないでしょ?」

「おいコラ! 変なこと教えんなっ!」

「渡辺くんには知る権利があるよ!」

 にらみ合う二人。間に挟まれた僕は左右からぐいぐい押されているのだが、先輩の柔らかくて立派なものがずっと腕に当たっていて……理性が崩壊しそうだ。どちらも僕のことを思ってくれているようなので嬉しくはあるが、この状況を誰かどうにかしてほしい。空中でぶるぶるしていた危険な酢豚は、機転を利かせた凜ちゃんが全て胃袋におさめた。そのまま二人で仕方なくお皿を店員に渡す。だが両者とも不満そうである。

「酢豚ください!」「酢豚頼む!」

 二人同時に店員を呼びとめた。

「酢豚、二つネ?」中国人のお姉さんが確認する。

「一つです!」「一個だ!」

「ホントに一個、イイ?」

 結局一個だけ注文したみたいだが、非常に心配である。二個にしておけばいいのに。

 二人が店員さんとのやり取りに気を取られている隙に、僕は脱出して石橋さんの隣へ移動した。

「この二人、少し抑えたほうがいいんじゃないですか。めっちゃ飲んでますけど……」

「問題起こしたら出禁になると分かってるんで、たぶん一線は越えないっすよ」

「他に虫料理が出てくるお店を知らないからね、僕らは」

 須藤教授もあまり気にとめていないようだ。とはいえ、こっちの二人もお酒を飲んでいるので信用していいのかどうか分からない。

 僕は一番冷静に物事を判断できそうな人物――凜ちゃんに尋ねてみる。

「僕の歓迎会のときより激しいというか、荒れているような気がするんだけど、これが普通なの?」

「ザ・普通です」

 凜ちゃんはこぶしを突き出してビシッと親指を立てる。店内の熱気に当てられてもなお怜悧で冷静そのものの表情だが、まじめなのか冗談なのか……。

「父が全責任を取りますから、お構いなく」

「まあ、そうなるねぇ。監督者だから」

 さらっと言うけれど、それは全然安心できないですよね? それとも父親ってそれでいいものなのだろうか。

「ハイ、酢豚」店員さんが先輩と斎藤さんの間に皿をおいた。「ドリンク、ラストオーダーダヨ」

 終わりの時間が近づいていた。

「最後に一杯飲んだら宅飲みするぞ。みんな付き合えよ」

 斎藤さんの箸がすごいスピードで口と皿を往復し、豚肉だけをことごとく奪っていく。

「私も飲む! 今日はとことん飲む!」

 先輩はパイナップルだけを片っ端から素早く口に運ぶ。デザートが欲しかったのかよ。

 結果としてお皿の上には甘辛く炒めた野菜だけが残った。それを僕と石橋さんと教授と凜ちゃんで、ちまちまといただいた。

 二次会の会場は朱雀から一番近い石橋さんの家に決まった。須藤教授と凜ちゃんとは、ここでお別れである。

「良いお年を」とあいさつを交わして、二人はタクシーに乗りこんだ。凜ちゃんが車内から手を振っていたが、降り返したのは僕だけである。酔っ払い三名は帰る人のことなど考えていないのだ。

「さて、飲むぞ。石橋のうちには何がある?」

「うちはお茶くらいしかないっすよ。誰か買い出しに」

「私が行く!」

 先輩が挙手した。自分で選びたい人なのだ。

「俺は芋な」「ほろよいで」「あとなんかつまみ、テキトーに頼む」「あ、氷もお願いっす」

「私に一人で買い物させるの!? そんなに持てないってば」

 残る僕に視線が集まったので、手を挙げた。

「い、行きます」

 恐ろしいほど予定通りなので、緊張で足が震えてくる。

 熱気がむんむんしていた店内とは違って、クリスマス前々日の夜は寒い。星のない漆黒の空の下、先輩も僕もコートの襟を立てて、ポケットに手を突っこんで歩いた。

「いやー、寒い寒い。雪でも降るかな」

「この辺りって、降るんですか」

「大学入ってから一度もないよ。一回ぐらい降ればいいのに」

 先輩はすねたように口をとがらせ、小石を蹴飛ばした。子供っぽい仕草が可愛い。

「でも、雪降ったら大変じゃないですか。定年坂(ていねんざか)が凍ったら誰も登れないんじゃ……」

「だよね! いっそ誰も登校できないように、二メートルくらい積もらないかな?」

「先輩って時々、とんでもないこと言いますよね」

「そう? 私は本気でそう思ってるよ」

 僕は笑う。先輩の頭の中のことは、僕には理解できないことが多いけど、今はまだそれでもいいと思っている。それが先輩の魅力だから。

 僕らはおしゃべりに花を咲かせ、うまく会話が繋がっていく。目的のコンビニが見えてきたとき、僕は急に何かしなければと思い至った。買い物をして重い荷物を持った状態では、先輩と二人でどこかへ消えることもできないだろう。だがどうする? 会話は弾んだけど、さすがにまだ告白できる雰囲気ではないと思う。いくらなんでも唐突すぎるし、下手したら冗談か何かと思われてしまいそうだ。会話に夢中になりすぎて、あらかじめ考えておいたプランのプの字すら忘れていた。

 僕が買い物かごを持ち、先輩がみんなのリクエストの品を入れていく。適当にお菓子やおつまみも買って、コンビニを出た。次の作戦を考えている時間はなかった。

 僕と先輩は一つずつ袋を持って歩く。十分もすれば石橋さんのアパートに着いてしまうだろう。今日を逃したら年が明けるまで先輩とは会えない。二人だけでいられるチャンスも、あとどのくらいあるのか。早く何かしなければ……。

「あの、先輩は」

 かなり唐突ではあったが、僕は勇気を出した。

「実家に帰ったり、するんですか」

「帰るよ。何日かは」

「そうですか。クリスマスは、友だちとケーキ食べたり、するんですか」

 ストレートにクリスマスの予定を聞かず、年末年始のことを挟んでカモフラージュしたつもりだった。『彼氏』でなく『友だち』という言葉で妥協してしまったのは、我ながら情けないと思いつつも、かなり大胆なことを聞いてしまった、とドキドキする。

「今年はギリギリまで研究室で卒論かなー。ケーキも食べたいけど、そのときの気分次第かな」

 『彼氏と過ごす』という最悪の回答が来なかったので、ほっとした。だがすぐに、同じ研究室の男性と過ごすという意味かもしれない、と考えなおす。悪い可能性ばかりが頭の中をぐるぐる回る。

「卒論、大変なんですね」

「みんないずれやるけどね。んで、渡辺くんは?」

「僕は……」

 先輩と一緒に過ごしたい。だけどそれは言えない。そこまでの勇気はなくて。

 どんな反応をされるか考えると怖い。距離を取られてしまうのが怖い。かといって、一人で過ごすとも言えないのは、友だちの少ない、寂しいやつだと思われたくないから。先輩から憐れむような目で見られるのだけは、耐えられそうにないから。

「まだ、何も決めてません」

 先輩はきょとんとしてから、「そっかー」と相づちを打った。

 僕はなんだかみじめな気分になってくる。クリスマスの予定なんて聞くんじゃなかった。かといっていきなり告白ができたかというと、それも無理なので、どちらにしても、まだ頃合いじゃないのだ。

「実家には帰るの?」

「はい、一応」

 本当はあまり帰りたくはなかったが、父と母が「年に一度くらい帰ってこい」と言っているので仕方がない。実家には弟もいるし、あれこれ近況を聞かれるかと思うと気乗りはしないが。

 その後は当たり障りのない会話をしているうちに、石橋さんの部屋に着いてしまった。

「ただいまー」と元気よく玄関をあがっていく先輩の陰に隠れて、僕は沈んでいた。いちおう何事もなかったかのように繕ってはいるけれど、斎藤さんと石橋さんには見抜かれていたと思う。二人は細長いスナックをカリカリとかじっていた。えびせんのようであったが、よく見ると九月ごろに集めたサクラケムシだった。サークルで食べた余りを持ち帰って保存しているメンバーは珍しくない。

 初めて入った石橋さんの部屋は綺麗に片づいていて、焦げ茶やモノトーンのシックな家具で統一されていた。スタイリッシュで都会的と言えよう。メタルラックにはセミ捕りに使ったあのゴム銃が飾ってある。

 僕は三人の会話になかなか入っていけなくて、無言で愛想笑いをして、飲み食いしているだけの時間も多かった。今日はやっぱりダメだという思いが、何度も頭をよぎる。何のためにここにいるのだろうかと考えて、みじめでたまらなかった。すでにチャンスを逃してしまったし、どうすればいいのか、どうしたいのか、自分でもよく分からない。時間は過ぎていき、先輩とあまり話すこともできないまま、宴には終わりの空気が流れ始めた。

「まあ、そろそろ帰るか」斎藤さんが立ち上がった。「さすがに疲れた」

「そうっすね」石橋さんもあくびをしている。

 スマホを見ると、零時をまわっていた。朱雀に入ったのが十八時ごろだから、もう六時間経っている。道理であくびが出るわけだ。

 斎藤さんと石橋さんがゴミやコップを片づけ始めたので、僕もそれを手伝った。先輩はこたつテーブルに顔を伏せたまま動かない。眠ってしまったのだろうか。

 ざっと片づけが済んで、いつでも帰れるようになった。

「おい猪俣、帰るぞ」

 先輩はやはりテーブルに突っ伏したまま何も反応を示さないが、少しもぞもぞ動くので生きている。乱れた髪とうなじ、布団からはみ出た黒タイツの脚が、なんだか色っぽく見える。

「寝てるのか?」

「……イヤ」

 先輩が呟いた。聞き間違い……だろうか?

「もっと……飲む」

「猪俣さん、さすがに帰ったほうがいいっすよ」

「イヤ」

 今度は誰もがはっきりと聞いただろう。

「ここで寝よう。みんなも一緒」

「何言ってんだ?」斎藤さんはあきれている。「石橋が困るだろ、帰るぞ」

 先輩は顔をあげない。

 先輩……? 眠いのだろうか?

「酔ってるのか?」

「酔ってない。酔ってる」

「はあ」斎藤さんのため息。「どうしたんだおまえ」

 そう問いつつも、斎藤さんの視線は僕のほうへ。僕はただ首を振って、沈黙を返す。

「私は、どうもしてない。いのまたかおり、にじゅういっさい……」

「だったらさっさと帰るぞ、虫女。渡辺、そいつを立たせてやれ」

 立たせるってどうやって!?

 斎藤さんはさっさと玄関へと向かう。「じゃあな」

「斎藤くん、待って!」

 先輩がいきなり大きな声を出した。

「うるせーぞ。時間を考えろ」斎藤さんが面倒くさそうに立ち止まる。「今度はなんだ、虫女」

 顔をあげた先輩は眠そうな顔をしているかと思いきや、深刻な、何か決意したような表情をしていた。ふらつきながら立ち上がり、大きく息を吸いこむ。

「私はっ! 斎藤くんがっ! 好きーっ!」

 大声が響いて消えて、ゾッとするような沈黙が降りた。誰も動くことができない。僕は何が起こったのか理解できなくて、茫然としていたら、斎藤さんが口を開いた。

「ふざけんなッ!? てめえ酔っぱらいすぎだ!」

「ふざけてない私は酔ってるけど酔ってない! 斎藤くんは世界で一番私を分かってくれてる! だから一緒にいたいから好き!」

「てめえはアホか!? 俺には彼女がいるって知ってんだろうが」

「知ってる! けどそれがなんなの!? 私は斎藤くんが好きなんだ! ここにいて! 帰らないで!」

 先輩がたどたどしく斎藤さんに駆け寄る。

「帰っちゃダメ!」

「黙れ! 服をつかむな!」

 つばを飛ばしながら怒鳴り合う二人。僕の視野は狭まり、目の前が暗くなっていく。のどに何か詰まったように、息がうまくできない。先輩の声が聞こえるたび、内臓がかきまわされて吐きそうになった。やめてください! お願いだからもう、何も言わないでください! 心の内でそう叫んだ。

「自分が何言ってるか分かってるのか?」

「だって仕方ないじゃん! 好きなんだから! それ以上は私だって分からない! 分からないんだから!」

「うるせえ、放せ」

 先輩はいきなり手を放して、ふらつきながら玄関のほうへ走っていき、ドアを開けて出ていってしまった。

「あの虫女っ!」斎藤さんが頭を抱えている。「おい渡辺、追いかけるぞ。すまねえが石橋も動けるか?」

「もちろんっす」石橋さんはしっかりした足取りで先輩を追って出ていった。

「俺たちも行くぞ」

「無理ですよ」

 僕は力なく笑った。追いかけて何ができるだろう? 優しい言葉をかけるのか? たぶんできない。

「斎藤さんが行ってあげてください。だって斎藤さんは先輩の言う通り、先輩のことを一番よく分かっているし、先輩の好きな虫をいっぱい飼ってるし、料理もうまいし、大手企業に内定した頼りがいのある年上の男性だし……」

「んなこと言ってる場合か!」

 両肩に痛みが走ったのは、斎藤さんが鬼の形相で僕をつかんだからだ。

「あれはおまえが惚れた女だろうが!」

「なんかもう、いいんです」

 目をそらしたままそう言い捨てた。

 最初、僕が欲しかったのは恋人ではなかった。この世界と僕との断絶を埋めてくれるもの――居場所や数人の友人だったはずだ。だけどいつの間にか先輩と恋人になりたいと思ってしまった。それは欲張りすぎだと、たった今、気が付いた。

「先輩は才能があって、美人で、人気者で、僕なんかとは生きてる世界が違うんです」

「おまえは一つ勘違いしてるぞ。あいつが俺たち以外の誰かと楽しそうにおしゃべりしてるところを見たことがあるか?」

「それはもちろん……」

 ……あれ? アシダカグモのときも、サクラケムシのときも、いつだって僕が先輩と出会うとき、先輩は……一人!? いやいやいや。先輩は明るくて人懐っこい性格だから、農学部にはきっとたくさんの友だちが――。

「あいつ、一年の六月にサークル立ち上げるまで、ぼっちだぞ。おまえと大差ない」

 ……嘘だ。どう考えたって、あの人に限って、そんなことは……。

「そ、それがなんだって言うんですか。僕には関係ないですよ!」

「いいか? まだ何も始まってねえし、終わってもねえ!」

「それは斎藤さんがリア充だから言えるセリフだ!」

「ぐだぐだ言ってねえで来い!」

「僕は行きません! もういいんです! もう関係ないんだ!」

「ああそうかい! どいつもこいつも! だったら勝手にしろ!」

 斎藤さんが出ていった。僕が最後に部屋を出たときには、周囲に誰もおらず、自分のアパートに着くまで誰にも会わなかった。そして、ふと我に返ったときには布団で寝ていて、汗をびっしょりとかいていた。手繰り寄せたスマホのライトが闇にぼうっと光る。午前三時。外は死んだように物音一つしなかった。

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