第32話 お願い



 コーデリア・ブラウンは生きた心地がしなかった。


「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」

 

 と、コールマンが誰何したときに、誰が何を言っているのかはわからなかったが、


(廊下で人がしゃべっている)


 ということはわかり、ベッドで寝たフリをしながら、小刻みに身体が震えるのをどうにも抑えられなかった。


(もしかして、エリナが衛兵にでも見咎められたのでは? そして、料理長を私の部屋に連れてこようとしたこともバレたのでは? もしそうなら、私も含めて、怪しい行動をしたとして国王陛下の前に突き出されるかも。最悪の場合、地獄のような拷問を受けて、レオ殿下のクーデター計画を白状させられてしまうかもしれない……)


 ここまできてレオ殿下を裏切るくらいなら、いっそのこと舌を噛み切って死のうーーそんな悲愴な決意を固めるほど、コーデリアの予感は悪い方向に膨らんだ。


 そしてそれは、天使が介入しなければ、まさしく的中する予感であった。


 やがて、料理長が逃げる足音、コールマンが怒鳴る声、エリナが胸を刺されて倒れる音なども聞こえ、コーデリアは悲鳴が出ないように掛け布団の端を必死で噛んだ。


(今にドアがノックされる。衛兵に、部屋から引きずり出される!)


 恐怖で気を失いそうになるコーデリア。

 ところが、ランがコールマンをビンタしたバチンという音と、「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」という怒鳴り声がしたあとは、ほとんど物音がしなくなり、コーデリアの部屋がノックされることもなかった。


(どうしたんだろう。エリナと料理長は、どこかに連れ去られたのかしら?)


 不安が募って寝たフリを続けられなくなり、ベッドから降りて、そーっと部屋の扉まで歩いていったときに、


〈コツコツ〉


 扉がノックされたので、わっと叫んでしまった。

 しかしーー


「奥さん、エリナです。開けて下さい」


 と、若い女官の落ち着いた声が、扉の隙間から聴こえてきたので、コーデリアは安堵のあまり膝から崩れ落ちた。


「良かった……見つかったんじゃなかったのね」


 思わず独り言が洩れる。

 コーデリアはゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。

 すると、


「説明はあとでします。とにかく全員入れて下さい」


 と早口で言ったエリナを先頭に、暗い顔をした料理長と、晴れやかな笑顔のランと、衛兵隊長のコールマンをお姫様抱っこしたイケメンの天使が入ってきた。

 今度こそコーデリアは、気絶しそうになった。


「奥さん、ベッドにお連れします。どうぞ気を楽にしてお聞き下さい」


 倒れそうになるコーデリアをとっさに支えたエリナが、女主人をベッドまで歩かせ、ふかふかのクッションによいしょと座らせた。


 さて何から説明しようかと、エリナが思案していると、料理長がいきなりコーデリアの前に進み出て土下座をした。


「お赦し下さい、コーデリア様!」


 美しい王太子の元婚約者を目の前にしたとたん、自分がいかに恐ろしいことを実行しようとしていたかにハッとさせられ、心の底から懺悔したい気持ちに駆られたのである。


「王太子殿下に頼まれて、私は明日の朝食にーー」

「言わなくていいよ」


 と、料理長を制止したのはランだった。


「王と王太子に逆らったら家族ごと殺されるのは、みんな知ってるから。ところで毒って、厨房の氷の冷蔵庫に隠してあった、魚の内臓?」


 料理長の顔が、真っ青になった。


「あ、あれを、見たのですか?」


 ランはやっぱりとつぶやき、


「食べて処理しようと思ったんだけど、グロすぎて無理だった。天使さん、あれはどうしたらいい?」


 天使はコールマンを抱っこしたまま、


「あなたが厨房に来る前に、この羽で一撫でして、無毒化しておきました。だから安心して食べられますよ」


 みんなシーンとしてこのイケメンを見つめていた。そこでランはコホンと咳払いをし、


「紹介が遅れましたが、こちらは天使さんです。私が死んだときに、こちらの世界に転生させてくれた恩人、いえ、恩天使です」


 説明はそれだけだったが、コーデリアも料理長もエリナも、それぞれ自分なりに天使の存在を受け止めた。なるほど、天使ね。どうりで羽が生えてると思った。きっといい人、いえ、いい天使に違いないわ。


 こうして、ジェイコブ王太子によるコーデリア毒殺計画にまつわる心配事は除き去られたがーー


「料理長さん、一生のお願いです!」


 ベッドから降りて床に正座し、料理長と目線の高さを合わせたコーデリアの胸には、自身の毒殺計画よりも遙かに重大な問題がのしかかっていた。


「明日の朝食に、【睡眠薬】を入れてほしいのです。どうか、どうかお願いします!」


 コーデリアの柔らかな手が、料理長のガサガサに荒れた手をギュッと包む。

 料理長は息を呑んだ。

 まるで宝石のように輝く、コーデリアの潤んだ大きな瞳が、息がかかりそうなほど近くに……


「プハー!」


 窒息寸前で、呑んだ息をようやく吐き出すことのできた料理長は、何度も首を縦に振った。


「コ、コーデリア様のお望みであれば、何でもさせていただきます!」


 ほらね、とエリナが、得意げに女主人のほうを見た。


「料理長はもう王室を崇敬してない。だから大ファンの奥さんの頼みなら絶対聞くって言ったでしょ? 私の勘はよく当たるんだー」


 コーデリアがエリナに微笑むと、天使が料理長に質問した。


「王太子からは、何に毒を入れるようにと頼まれましたか?」


 料理長は、イケメンの天使をまぶしそうに見上げ、


「はい、肉料理に入れろと」

「では【睡眠薬】は、肉料理以外の物に混ぜるといいですね。コーデリアさんは、すべての料理を毒見するのですか?」


 天使の質問に、コーデリアはいささか緊張ぎみに答えた。


「あ、はい。そう伺っております……天使、さん」

「でしたら、サラダのトマトにでも【睡眠薬】を入れたらどうでしょう? コーデリアさんは、毒見のときにトマトをとらなければいいのです。王太子はあなたが肉を食べるところだけに注意していて、トマトを選ばなかったことなど気にしないでしょう」


 コーデリアは黙って頷いた。確かにいい方法だ。たとえば飲み物やスープなどに薬が入っていると、均等に溶けてしまうので、どうしてもある程度は飲むことになる。その点、サラダのトマトにだけ溶けているのだったら、それを避けて皿にとって毒見すればよいのだ。

 そのとき不意に料理長が、


「あのー、天使さん」


 と、腰を浮かしながら発言した。


「もしよろしければ、私の代わりに、天使さんが【睡眠薬】を入れてくれませんか? そのほうが、成功確実に思えますので」


 コーデリアもエリナもランも、それに賛成するような顔をした。

 しかし天使は、


「私は生きている人間に対して、身体的な影響を及ぼすような力は行使しないと決めています。人を殴ったり、毒や薬を服ませたり、病気を治したり、傷を癒やすようなことはしません。良いアドバイスをしたり、人を導くことはいたしますがーーすみません」


 やろうと思えばできるが、地上の人間のことに干渉する限度を決めている。というのが、この天使の倫理観であった。


 料理長は、わかりましたと引き下がった。

 コーデリアは、チートアイテムである【睡眠薬】を料理長に渡した。


「国王陛下、王妃殿下、王太子殿下のそれぞれが、一粒ずつ服むようにして下さい。味や匂いはなく、水にとてもよく溶けるそうです」


 かつてのコーデリアは、自分の美貌を鼻にかけ、それを武器にしていた。

 しかし、ランの美しさに接して謙虚になった今では、自分の美貌をほとんど意識することはなかった。

 が、それでも料理長にとっては、やはり強力すぎる武器に違いなく、


「が、頑張ります!」


 薬を手渡しされた瞬間、思わず上ずった声で叫んでいた。

 と、その声に反応したのか、


「……うん?」


 天使にお姫様抱っこされた衛兵隊長が、目をパチッと開いた。

 たちまちコーデリアの部屋に緊張が走った。

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