第30話 破滅の使者



 真夜中の廊下に、軍靴の床を踏む音が戛戛(かつかつ)と響く。


 衛兵隊長のコールマン。

 彼は、筋金入りの「愛国者」であった。

 

(世の中が変わるという噂か。冗談じゃない。そんな噂を喜ぶとは、農民どもは陛下を舐めている。天子たるシェナ国王陛下のために労働できることを、奴隷は喜ぶべきなのだ)


 彼自身、衛兵隊長として、いつでもグレイス二世の盾となって死ねる立場にいることに、無上の悦びを感じていた。


(俺は、陛下のために生き、陛下のために死ぬ。これほど幸福な生き方はない。できることなら、国民すべてがそうあってほしい)


 グレイス二世を崇めるコールマンは、今回のことを、決して軽く見てはいなかった。それどころか、極めて憂慮していた。


(国王陛下は、王妃殿下と王太子殿下の家族の情に流されてしまわれた。やはりレオ第二王子殿下は、暗殺なさるべきなのだ。残念ながらレオ殿下には、国王陛下を支える立場であるという御自覚がない。万が一のことがあって王位を継承されても、シェナ王国の伝統を守っていこうという気概もない)


 だから、とコールマンは考える。


(飼い殺しなどという生ぬるい処置で、生かしておく理由はない。いつか危険分子になり得る。クーデターの起こる可能性がほとんどなくても、思想の違う次男などは、もっと早く殺してもよかったのだ。内憂は早めに除去するのが上策だ)


 ランタンを掲げながら、廊下を行く。深夜に不審な行動をする者がいないかどうかを探るために。


 角を右に曲がろうとしたとき、背後から足音がした。

 振り返ると、王の寝室から出てきたジェイコブ王太子が早足で近づいてきた。


「コールマン。相談がある」


 王太子は言い募った。父が誰よりも信頼しているお前に、ぜひ頼みたい。ご子息が本気で望んでいる結婚を、決して邪魔してはなりません。祝福するのです。そうすれば、王と王太子は一枚岩となり、国民に対する支配力がより強固になります。そのように、父に進言してもらいたいのだと。


 何の話だ? とコールマンはしらけきった。婚約者を毒見役と交換? その奴隷女との結婚を祝福? 不穏なクーデターの噂に陛下が眠れぬ夜を過ごされていたときに、王太子殿下は、そんな下らぬことを考えていたのか?


 コールマンは返事ができなかった。とてもではないが、はい、いいですよと請け合う気分になれなかったのである。

 すると王太子が、薄暗い廊下でもはっきりわかるほど、表情を険悪にした。


「よく考えてくれ。将来王になる王太子の切なる願いを断わったら、どうなるか。やがて代替わりの時期が来たときに、新しい王の覚えがめでたくなければ、それまでに得た勲章をすべて剥奪されることもあり得る。軍人にとって、これほど不名誉で悲惨な末路はあるまい?」


 露骨な脅迫。

 コールマンの気持ちは暗くなった。


(この王太子殿下は、本当に国のことを第一に考えておられるのか……が、やはり御長男である限り、天子には違いない。我々ごときが、反感を覚えることが許されるお方ではないのだ)

 

「わかりました。ご期待に添えるようにいたします」


 たちまち王太子は表情を明るくした。


「頼んだぞ。お前は本当に頼りになる男だ」


 足音も軽く自室へと帰る王太子。コールマンはそれを見送ると、角を曲がった。

 そのときだった。


 廊下の先に、人影が見えた。

 影は二つ。どちらもランタンは持っていない。

 一人のシルエットは男で、もう一人は女。

 二人とも、いかにもこそこそと、後ろ暗いところのありそうな様子で歩いている。


(怪しいやつらめ。何か企んでいるな。拷問ですべて吐かせてやる!)


 愛国者の衛兵隊長は、鋭く誰何(すいか)した。


「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」


 硬直する二つの影。


 一人は料理長。

 もう一人は女官のエリナ。


 エリナは、コーデリア・ブラウンがあまりにも不器用で、毒見のときに【睡眠薬】を入れることができそうにないので、料理長に前もって食事に【睡眠薬】を入れてくれるように頼むことを思いついた。

 料理長はコーデリアの大ファンだ。コーデリアの口からそれを頼まれたら、きっと断われないーーそう考えて、料理長をコーデリアの部屋に連れてくる途中であった。


 料理長は料理長で、翌朝の朝食に「毒」を入れるようジェイコブ王太子に命令されて、悩みで眠れずにいた。

 そこへ突然やってきたエリナに、


『王太子に良からぬことを頼まれて、悶々としてたんでしょう。どう、図星?』


 と爆弾発言をされて、すっかり観念し、エリナに手を引かれるまま廊下を歩いているところだった。


 そこへ誰何されて、料理長は気を失いかけた。


(嗚呼、もう何もかも終わりだ。妻や娘にも会えないまま、私はこの場で処刑される……)


 エリナもまた、血の気を失った。


(まさか見つかるなんて……料理長には悪いことをした。きっと拷問で、何をするつもりだったかを吐かせようとするだろう。でも私は、たとえ殺されても一言も洩らすことはできない。こんなところで、レオ王子様の計画をぶち壊すわけにはいかないのだ)


 戛戛(かつかつ)と軍靴の音を響かせて近づいてくるコールマン。

 その姿は、不吉な破滅の使者のようだった。


「おや? お前は料理長だな。そしてお前は、コーデリア嬢に付いている女官か。どうした二人とも、小鳥みたいに震えて。何か企んでいるのか?」


 料理長の身体が後ろに倒れそうになる。

 エリナがそれを支えようと手を伸ばす。


「動くな!」


 コールマンの怒鳴り声に、ハッと目を見開く料理長。


(殺される!)


 パニックを起こした料理長が、くるっと後ろを向いて走り出す。


「待て!」


 コールマンが追う。エリナもまたパニックになり、反射的に飛び出した。

 コールマンは銃剣を突き出した。


(……しまった!)


 威嚇のために突き出した銃剣だったが、暗い廊下で目測を誤り、その鋭い切っ先が、エリナの胸を抉った。

 エリナは崩れるように倒れた。

 仰向けになったエリナの青い女官服の胸のあたりが、見る見る赤い血で染まっていった。

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