バケモノのうた

橋真 和高

第1話01

 朝比奈未来は、クラスにおいて、いわゆる病弱で内気な女の子という立ち位置を与えられている──当然のように体育の授業なんかには参加しないし、クラスの中でも誰とも会話を、いや、僕は朝比奈とは、一年、二年、そして今年の三年と、高校生活、ずっと同じクラスだけれど、彼女が笑っているところをいまだかつて見たことが無い。保健室の常連で、時には欠席や早退などもする。何か重病なのではないかと、クラス内で囁かれるくらいに。


 しかし内気だと言っても、そこに根暗や陰キャラというイメージは皆無だ。線の細い、触れれば折れそうなくらいにたおやかな感じで、それがとても儚げで、その所為なのか、男子の一部では、寡黙の女神などと、話半分、冗談半分に呼ばれていたりもする。まことしやかに、といってもいい。確かにその言葉が発する雰囲気と表現の仕方は、朝比奈に相応しいように、僕にも思われた。


 朝比奈はいつも決まって自身の机で、一人、本を読んでいる。難しそうなハードカバーのときもあれば、読むことによって知的レベルが下がってしまいそうなデザインのコミック本のときもある。察するに、かなりの濫読派なのかもしれない。文学であればなんでもいいのかもしれないし、そうではなく、その選択には明確な何かがあるのかもしれない。


 朝比奈の容姿からは納得せざるを得ないが、頭はかなりいい。学年でもトップクラス。


 試験の後に張り出される順位表は、下から見ると程遠く、上から見るとすぐに、そこには朝比奈未来の名前が記載されている。それも一教科ではなく、だ。体育以外取り柄の無い僕とは比べること自体がおこがましい話だ。おそらくもしないが、きっと脳味噌の構造が、まるっきり、一切合切違うのだろう。


 ちなみに友達は居ないらしい。


 一人も、である。


 先も述べたが、僕は朝比奈が誰かと言葉を交わしている場面も、話しかけられている場面もいまだ見たことが無い──穿った目で見れば、いつだってどんな時でも本を読んでいる彼女は、その本を読むという行為によって、話しかけるな、私に近付くなと、周囲に完全なる壁を作り上げているのかもしれない。それこそ、僕は二年と少し朝比奈と同じ空間で、机を並べているわけなのだけれど、その間、彼女とは僕の記憶の海馬が正常であるなら、恐らく一言たりとも会話をしたことがないと、断言できる。できてしまうのだ。朝比奈の声は授業中に教師に当てられたときに、当然のように模範解答を口にする、か細い声くらいしか聴いた覚えがない。寸分違わず、模範解答の中の模範解答をするのだ。


 学校というのは不思議なもので、友達がいない人間は友達のいない人間同士で一種のコミュニティを形成する傾向がある。(僕もあまり他人のことは言えないが)、朝比奈はそのルールというか風習からも除外されているように思われる。だからといって、別段朝比奈がいじめに遭っているとか疎まれているかと言われるとそんなことは無い。いつだって朝比奈は、そこにいて、同じ場所で、静かに読書を嗜んでいる。自身の周囲に完全なる壁を構築しているのだった。


 そこにいるのが当たり前で。


 そこにいないのが当たり前なのだ。


 だからといって、まあ、どうということはない。高校生活、中学、小学校、幼稚園なんかで測っても、今まで数多くの人間と生活を共にしてきたわけだが、その中から一体、何人の人が、自分にとって意味のある、価値のある人間なのか、そんなことを考え始めたら、とても残酷な解が出てくるのは、誰しも共通して言えることだ。


 友達百人できるかな、なんていうけれど、その中の何人が本当の友達なのだろうか。


 ちなみに僕には友達がいない。


 一人も、である。


 たとえ三年間同じクラスという不思議な縁で繋がれていたところで、一言も会話をしないからといって、僕は別段気に病むこともない。それは、つまり、そういうことなのだろう、なんて、後になって思い返すだけだ。高校を卒業して、大学に行けば人間関係なんて大きく変わるはずだし、新たなコミュニティ形成に躍起になるだろう。(僕には関係ない話だけど)、きっとその頃には、朝比奈の存在を、思い出すことはないし──思い出そうとすることすら忘れてしまうのだろう。


 むしろそれでいいのだと思う。


 朝比奈も、きっとそれを望んでいるはず、いや、最早望んでもいないかもしれない。朝比奈に限って言えることじゃない。学校中のみんなも、この世界の人間すべてそれでいいと思っているはずだ。そんなことに対して、暗い、黒い感想を抱いている方が、本質的に間違っているのだから。


 そう思っていた。


 だけど。


 そんなある日のことだった。正確に言うなら、これはあまり思い出したくもない僕にとって最悪な去年のクリスマスが終わり、怒涛の忙しい春休みが過ぎて、三年生になって、そしてかなり怒涛に忙しい悪夢に近いゴールデンウイークが終わり、少し落ち着いた六月中旬のことだった。


 昨日の夜も散々とこき使われていたせいで、その日は若干遅刻気味で、我が校の、自身の配属されたクラスに向かうために、階段を駆け上がり、踊り場を過ぎ、教室に差し掛かる廊下に出た時に、ある女の子とすれ違うのだった。


 それが朝比奈未来だったのは言うまでもないことだろう。


 こんな楽観して解説をしているが、僕は如何せん、遅刻寸前だったので、結構な速さで駆けていた。そんな曲がり角で不意に現れたら、避けることができずにぶつかってしまう。実際避けようと思えば避けられる、多分僕のように人の道を逸脱してしまった者ならそんな場面でもなんとかできるのだが──僕は避けようとせず、咄嗟に彼女を押し倒さないように抱きかかえようとした。


 人間離れした身体能力を見せるのはあまり良くないと思っている。


 だけど、僕は、その行為を後悔した。


 それは。


 咄嗟に抱きかかえようとした朝比奈の体に触れているはずなのに、なぜか、なぜだがわからないが……僕の体は朝比奈の体をすり抜けていた。


 目の前に居る筈なのに。


 手を差し出せば、そのか細いたおやかな体に触れられるはずなのに。


 僕の手が朝比奈に触れることは──なかった。

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