第五輪 接触篇

 正体不明の物体が自分たちに激突しなかったと知るや否や、キリンジはドアを開け、海を見た。そこには摩訶不思議な光景が広がっていた。


 最初は赤潮が始まったのかと思った。海面が虹色に光り、盛り上がっている。まるで海中に何か大きなものがいるかのようだった。


「あれは……」

 ザバーッと滝のような音がして、『それ』は姿を現した。キリンジは先程の光が海に落ち、こうなったのを悟った。

 醜悪極まる怪物がこちらを見下ろしていた。巨大な海藻が絡まり合い、目玉のようなものがその間から覗いている。


「ワカメのお化け……?」

 キリンジは呟く。怪物はそうとしか形容できない見た目だった。海から突き出した上半身から察するに、全長八メートルはあるだろう。こんな生き物がいるなんて、とキリンジは絶句した。小学生の頃に読んだUMA図鑑にすら、こんな怪物はいなかった。


 憂もまた助手席から出て、目の前の信じられない光景に立ち尽くしていた。大きな目は怪物に注がれている。


「憂っ! あんなもの見るなっ!」

 キリンジは妹の前に立ち、守るため腕を広げる。憂は感嘆するように呟いた。


「ワカメちゃん……海水を吸ってあんなに巨大に?」

「んなわけあるかっ!」

「あの子たちも大きくなれたんですね……やればできるじゃないですか」

「だから、違うって言ってんだろ!」


 のっそりと怪物はこちらを向いた。

 ぞくっとキリンジは身を震わせる。対照的に憂は、初めて見る生き物に目をキラキラさせていた。


 しかしワカメの化け物から、思いがけぬ紳士のような声が発せられた。

『そこのお嬢さん!』


 憂はきょとんと怪物を見上げる。


「えっ、私……ですか?」

『私たちはあなたの優しさに感動しました! 弱きものを憐れみ、慈しむ気持ちこそ、この地球の人間が持つ素晴らしい感情です! ですから私たちは、このワカメに命を与えました』


 その声はまるで、脳内に直接呼びかけているように頭の中に響いた。機械音声のような、無機質な声だった。


『ぜひこの尊い命を有効活用してください!』

「有効活用って、どうやってですか?」

『それはあなた方でお考えください! 何をするにも自由です!』

 そんな無茶な、と兄妹揃ってぽかんと口を開けてしまった。


『結晶生命体、集合的意識である我々『平等なる愛』は愛を配る伝道師。しかして人を縛るものにはあらず。我々が見込んだあなたなら、善きことに使ってくれるでしょう!』

「そんな、無茶です!」

 憂が悲痛な声を上げる。


『私の意識は宇宙にあるクラウドへと帰還します。後はこの子の意志によって生命は動きます。いざさらば、さらば!』

 そう言って『平等なる愛』の声はふつりと消えてしまった。ワカメの怪物は「ぐおう」と唸り声をあげ、こちらに近づいてきた。


「こいつ……襲ってくるぞ!」

「でも、これが私に与えられたものなら、私の言うこと聞くんじゃないですか? せっかくですしうちで飼いましょうよ」

「飼ってどうするんだよ」

「あれを千切って、毎日うちの味噌汁に入れます」

「胃の中が荒れるぞ!」

「飼うのは無理ですか。しょうがないですねぇ」

 憂は念じるように手を怪物に向け突き出す。


「……海へお帰り」

「どっかの映画のヒロインかよ!」


 しかし怪物はその命令を聞こうとしない。それどころか、押しつぶした蛙のような声で何かをぶつぶつと言う。


「か~えせ~」


 キリンジは慄きながら、相手に訊ねる。

「な……何を?」

「青い海を、か~え~せ~」

 そのまま怪獣はこちらに向かってくる。


「人類に復讐するつもりか!」

「ワカメも恨みを覚えるんですね……『平等なる愛』さん! どうすればいいんですか! こんなもの押し付けられても困ります!」

 憂が空に向かって叫ぶ。しかし『平等なる愛』は既に去ったらしく、誰も返事をしなかった。


 ワカメ怪獣はざばざばと波をかき分け、浜辺に上陸する。全身からびちゃびちゃと海水がしたたり落ち、周囲に小さなプールを作った。

 怪獣のぎょろりとした目はこちらを見据えている。鈍重な足取りだが、確実にキリンジたちの方へ歩み寄って来ていた。


 さすがに憂も能天気なままではいられず、どうしていいかわからない顔で兄を見た。キリンジはできるだけ不安を顔に出さないようにして、妹に言った。


「何だかわかんねーけど、逃げるぞ! 憂!」

 憂の手を取って再度助手席に押し込み、キリンジも運転席に乗り込み、キーを差し込んで回す。

 しかし車はうんともすんとも言わなかった。


「エンジンがかからない……どうしてっ!」

 こんな時に限って不調か、とキリンジは絶望した。

 道路に巨大な影を落としながら、ワカメの化け物は迫ってくる。


「憂、車から降りて逃げろ!」

 キリンジは妹に怒鳴るように言う。狼狽えた表情で憂は兄を見た。


「俺はあいつを引き付ける! 少しでも安全なところへ……」

 キリンジは周囲を見た。海と反対側に雑木林がある。


「林の木の後ろに隠れるんだ! この場所じゃ警察を呼んでも、大人たちはすぐに来れない!」

「でも、お兄ちゃんは……」

「車を何とか動かして、注意を引き付ける! 俺のことはいい! 万が一の時、お前だけでも助かるんだ!」

 憂は涙をためた目で兄を見やり、意を決したように助手席からまろび出た。雑木林に向かう妹をキリンジは見送り、再度キーを回す。


 しかし車のエンジンは一向にかかる様子がない。

「動け! 動いてあいつの気を引くんだ!」


 キリンジは焦る。ここで自分が動かなければ、怪獣は街に出て暴れまわるだろう。そうなれば怪獣映画でしか見たことがないような惨劇の始まりだ。


 脳裏に未来の姿がよぎる。もし怪獣が暴れて、あの子に危険が及ぶことになったら。その前に避難してくれればいいが、そうなるとは限らない。

 未来の笑顔。あの笑顔が曇ることだけは、あってはならない。


 守らなきゃ、あの笑顔。


 キリンジはそのためなら人柱にもなる覚悟だった。憂が安全なところに逃げたら、大人たちを呼んでくれるはずだ。自分は時間稼ぎをしなくてはならない。たとえその身が犠牲になっても、男としてこの場を引くことはできないのだった。


「くそっ……エンジン、かかってくれよ! なんでここで動かないんだ!」

 どんっとキリンジはハンドルを殴った。


 キリンジが悔しさに身を焦がさんとしていた時。

 突然その『声』は降ってきた。


『君の力を貸してほしい』


 急にキリンジの脳裏に声が響いた。力強い青年の声だった。声は車から発されていた。

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