2章 千代の記憶

 ふうふうと息を切らしながら、二東山の狐坂きつねざかと呼ばれるなだらかな坂道を登っていた。

 この二東山とすぐ北側の逆城神社のある丘陵の間の谷地が東海道が貫いている。丘陵のさらに北には古戦場のあった平地、二東山のさらに南には外洋に続く神津湾が広がっている、はず。今は緑に囲まれて全く見えないが。

 途端、ものすごく無駄なことをしている気がしてきた。いや、無駄だな。無駄に違いない。よく考えれば当然無駄だ。

 鷹一郎のリスト。

 なんでこんなものを揃えるのかを考えると嫌な予感を覚えるが、結局のところなるようにしかならない。俺が考えたって仕方ない。

 背負うは斧、スコップ、そういった代物だ。けれども切った掘ったの対象は逆上村であるはずで、二東山ではないはずなのだ。つまりこんな重いものを持って二東山に登るのはそもそもお門違いで、せいぜい俺の家に転がしておけばよかったんだよ畜生め。

 とはいえ今更引き返すのも時間を無駄にするだけだ。なにせ目的地の峠の茶屋はこの狐坂を登り切ったところにある。苦しい息を吐いて見上げると、ああ、もう目の前に茶屋の軒の端が見えた。


 何糞と最後の一息を登り切ると、唐突に世界は変化した。

 突如緑が切り開かれ、右手眼下にきらきら煌めく海が広がる。その崖をふわりと登る潮風に首筋を撫でられれば、急にぷるりと震えがくる。登り坂で散々かいた汗が急に冷たく着物の裏地を濡らし、鼻がむずむずし始める。

 なるほどここに茶屋が立っているわけだ。待ち構えたように女給に声をかけられた。

「一休みいかがですかぁ? 暖かいおうどんにおでん、お酒にお茶、なんでもございますよう」

「酒……はないな、まだ昼過ぎだ。甘酒あるか」

「もちろんでございます」

「1つくれ」

「はぁい、甘酒1つでございますう」

 奥からハイヨという声がかかる。案内された席はパチパチと爆ぜる火鉢の程近く、狐坂に面した海が一望できる。少し褪せた紅色の敷物の置かれた雅な縁台屋外席だ。素晴らしい景色だな。それに鷹一郎が登って来ればすぐにわかるだろう。

 歩き去るのは淡い朱色の生地に小さな桃色の四角で染め抜かれた江戸小紋、深緑と焦げ茶の鯨帯リバーシブル。それから朱色のかけ湯巻腰エプロン。なんだかその色合いは春めいて、襟足から見える白い頸筋がとてもそそる。別嬪さんだ。


 早くこの仕事を終わらせて、ドカっと報酬を頂きたいもんだ。軍資金さえ手に入れられればこっちのものだ。今度こそ大勝ちしてやらぁ。

 開けた海を眺めおろしているとなんだか気分も大きくなる。

「相変わらずお顔に品がありませんね、哲佐君」

「こちとらお貴族様の血なんぞ引いちゃいねぇからな。それよりお前さんは結局何やってたんだよ」

「朝に言った通りの役割分担ですよ。それよりソレ、持ってきたんですか。馬鹿じゃないの」

「うっせぇ」

 鷹一郎はふぅ、と呆れたように息を吐き、俺の前の席に着いた。全くひどい言われようだ。どうせ十中八九わざと言わなかったのだろう。言わなかっただろと聞けば聞かなかったでしょうといつも通りのやりとりが帰ってくるに決まっている。

 少しむしゃくしゃしながら見ていれば、鷹一郎は甘酒を運んできた女給を呼び止めみたらし団子と茶を頼み、『本当に哲佐君は駄目人間ですね』とのたまい俺の前の徳利を細い指で指した。


「昼だから甘酒だよ。もらった金をどう使おうが、かまやしねえだろ」

「まぁ、そうですね。湯呑みじゃないからてっきり酒かと。でも徳利で飲むのも乙ですね。私にも猪口を一つ」

「飲んだ分は払えよ」

「ここのお代ぐらい持って差し上げますよ。それにお酒は無病息災の厄除けなんですから」

 鷹一郎がちょうど届いた猪口をにやにやと差し出すので、仕方がなくトプリと注いでやる。それをこいつは実に美味そうに飲むのだ。

「ところで哲佐君は千代嬢がによって誰が得をすると思います?」

「存在しないことによって?」

 今朝方の調査の件か。妙な問いかけだ。

 存在しなければ探すも何もないだろう?

 うん?

 『いなくなった』ではなく存在しない。それはもとよりいないということだ。もともといないことにして、得をすること?

 例えば誰かから存在を隠している。それにしたってなんだか妙だ。そんなら出ていったとか、そう、死んだとかにすりゃあいい。

 『存在すること』を知っている者、つまり赤矢に『存在しない』といっても仕方がない。だっていたことを知っているんだから。


「わけがわからねぇが、結局のところ千代嬢は存在したってことか」

「まぁ、そうですね」

 鷹一郎はつまらないとでも言わんばかりに肩を上げる。

 ここからが本題だ。わずかに居住まいを正し、鷹一郎の仕事に耳を傾ける。

 鷹一郎は役場で逆上村の千代という娘の戸籍を調べ、名士の家に顔を出し、逆上村自体についても聞いて回っていたらしい。

 鷹一郎のもともとの実家は京都らしいのだが、帝都から来た元お貴族様の御子息ってことでこのあたりには多少顔が効くのだ。そしてその良く整った顔をニコニコさせながら話しかける。そのお上品な優男ヅラの裏を知らなければ、確かに鷹一郎は穏やかで人当たりがよい好人物には違いない。

「そんで何がわかったんだよ」

「そうですねぇ。まず行政区分上、正しく逆上村が実在すること、そこに正しく折戸家が存在し、正しく折戸千代という娘がいたこと」

「娘が?」

 先程からの小さな語尾の違いが妙に気にかかる。

「そうです。確かにその娘は存在し、そして昨年末に死亡届が出ています」

「昨年末ぅ?」

「死亡届を提出したのは折戸源三郎。千代さんのお父さんですね」


 明治の初めに整えられた戸籍制度によって、家長は戸長への死亡届出の提出が義務付けられた。それには医制に基づき開業した医師による死亡届出が必要である。

 死亡届が出てるんじゃ、探すも何もねぇ。それを赤矢という男に知らせれば全て仕舞だ。今回の仕事は楽だったな。そう思っているとまた溜息をつかれた。

「哲佐君、君は本当に単純ですね。死んだのなら『知らない』と言う必要はないでしょう。ただ、死んだ、と伝えれば良いことなのですから」

「それじゃあ赤矢が納得しないと思ったんじゃないかね」

 両親の看護のために出戻った娘だけが死に、両親は生きている。それは言いづらかろう。

「それでも親に死んだと言われたなら、納得せざるを得ないでしょうよ。折りしもこの寒波。逆上村で流行病が蔓延していたのは確かです。前後して8人の死亡届が受理されていました。虎狼狸コレラではないそうですが、実際死人は多く出ている」

 さきほどまでの涼やかな風が急に冷たく感じる。

 虎狼狸はこの崖の下、神津湾を訪れる異人の船が持ち込むのだ。

「ふむ」

「それにこの赤矢さんは千代さんが病気の家族の看病に実家に帰ったと思っているわけですから、病で死んだといえば諦めるでしょう。流行り病であれば看病する者にも伝染りうる。死んだものはどうしようもないんだから」


 死んだものはどうしようもない。

 どうしようもないとはちっとも思ってなさそうな目で鷹一郎は俺をみる。だがしかし、確かに『死んだ』と言われればそれ以上はどうしようもない。諦めもつく。墓でも拝ませてもらって……。

「墓?」

「おや、哲佐君にしては珍しく鋭いですね」

「うるせぇ。墓がねぇのか? 千代の死因は?」

「全身打撲ですねぇ。転落したそうです。あのあたりも崖はありますからそれでしょうか?」

 勢い込んで聞いた答えは妙に生々しかった。

「病じゃ、ねえのか?」

 妙にあげつらうような鷹一郎の口調。死んだってのに不謹慎なやつだな。いや、真実に死んだかどうかはまだわからないのか?

 この辺りの風習は土葬だ。

 お上は火葬を命じたり禁じたりとふらついてるが、今は伝染病なら火葬は絶対。だがそれ以外は自由のはずだ。事故死なら必ず墓が立つだろう。墓がないということは死んでいない?

「なら何故隠すんだ」

「さてどうでしょう。他にも『存在しない』ことにしたい理由はいくつか思い浮かびはしますが、あとは現地を確認してからですね。それでそもそも私たちはどこを探せばよいのでしょう」

「逆上村の桜林だろ?」


 鷹一郎は細長い指で丁寧に団子の皿を脇に寄せ、机の上にガサガサと地図を広げる。この辺でよく売られている観光案内図というよりは、より正確な行政の作った地図だ。中心には逆城神社があり、その北西部に逆上村という表記があった。東海道を起点に逆城神社の方角ににすすすと鷹一郎の指が動く。

「ここの参道の途中に梅林に向かう道があります」

「そうだな」

「そして梅林の少し先、北東に逆上村がありますね。さて桜林はどこでしょう」

「桜林だと?」

 地図には確かに『逆城梅園』という表記はあるが、桜林という表示はない。その周辺に目を動かしてみても、杉林や桃園という記載はあるが、確かに『桜』という記載はないようだ。だが俺にはそれが取り立てておかしいとも思えない。

「書いてないことだってあるだろ?」

「ではどこを探しましょうか」

「どこって……その赤矢とやらに聞くしかねえんじゃねえか」

「そうですね。丁度いらっしゃいました」

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